懊悩系掌編小説集~『陰と陽の間で』『child~純粋無垢存在~』『理想主義者の無気力症候群』
懊悩系掌編小説を集めてみました。それぞれにつながりはありません。
『陰と陽の間で』
私はなんて中途半端で不確かな人間なのだろう。私の居場所はどこにあるのだろうか。私は人見知りで引っ込み思案なあがり症のくせして同じような人々を無意識的に見下している。かといって友人たちと日々を楽しむ充実した人生を送る人々にも軽蔑の目を向けている。私はこのどちらの集団にも属せない人間であるのに彼らを蔑んでいるのだ。では私の居場所は一体どこにある?
とはいえかつては私にも一応居場所はあった。教室の隅で趣味について語りあっているような、今では見下している種類の居場所である。どういうわけか、今ではそういった集団は私にとっての居場所ではなくなっている。それは、私が小学校の頃は友人たちと和気あいあいと毎日を楽しむ集団に属していたからであろう。その頃の思い出が忘れられず、すっかり暗い性格になってしまった今でも当時のような集団に再び属したいという欲求があるのだろう。
しかし、それは今や叶わぬことである。今の私はかつてのように明るくふるまうことはできない。それに、そういった集団を見下してさえいる。結局、私には入ることのできる集団がないのだ。充実した日々を送る集団にも、すみっこでひっそりと趣味を語り合う集団にも。もちろん、人間集団はこの二種類にだけ分類できるほど大雑把ではない。正確にはこの二つの分類の間に多数の人間集団が存在する。
しかし、私は未だ自分の居場所と思える集団に出会えていない。それは私の人生経験が少なすぎるということもあるだろうが、今の私はあまりにもプライドが肥大化しすぎている。結局どの集団に属しても違和感を覚えるのだ。私は理想的な人間集団を漠然と知っているが、そんな都合の良い集団はそうそう私の前に表れない。生来からの完璧主義、理想主義によって集団への期待が高まっているのだ。果たして私の本当の居場所とは何なのか、模索は続いていく。
『child~純粋無垢存在~』
子供というものは実に純粋である。人との壁を作らず初対面であってもすぐに親しくなれ、大人が絶対的な力を持つ万能の存在だと思え、自分とその周囲こそが世界の中心であり、世界そのものという認識を持ち、見るもの聞くもの触るものこの世の全てが新鮮で毎日が未知との遭遇であり、そして、自らの人生に無自覚な幸福感を覚えていた。
大人というものは実に不純である。人との間には高層ビルのようにそびえる巨大な壁が屹立しており、初対面の人は空っぽの機械のように思え恐ろしさすら感じられ、大人は所詮大した力もない不完全な俗物だと思え、自分など世界どころか周囲と比較してもなんの価値も存在感もない空虚な異物であり、世界を構成する原子の一つでしかないという認識を持ち、見るもの聞くもの触るものこの世の全てが陳腐で毎日が既知との遭遇であり、そして、自らの人生に自覚的な不幸感を覚えている。
私はここに来て思う。無知は幸福であると。無知に溢れた白いキャンバスのままでよかったのだ。これ以上絵具を塗る必要はなかったのだ。そのままで人生を歩き終えたかったのだ。
人は知ることで大きなものを失う。それは、純粋な心である。正直で可愛らしい子供が徐々に穢されていき、大人という名の魔物となるのだ。魔物は損得や利己心に塗れた邪悪な存在であり、他者を蹴落とす、選別する愛の欠片もない冷徹な存在である。
知ることは競争を生み、対立を生み、そして、不幸を生む。私たちは原点のままで居続けるべきなのだ。原点に返るのではない、一度失った心は元に戻らない。まだ心を失ってはいない子供たちが、その心を忘れないように心を守り続けなければならないのだ。
私は幸か不幸かまだ完全には心を失ってはいない。僅かだが白い輝きを残している。しかし、一方で、心を残したままこの穢れた世界を生きていくことは苦行であるとも思うのだ。純粋故の生きづらさに耐え続けるか、それとも心を捨て自ら魔物となり果てるか、私はそのジレンマに悩まされる。果たして私に救いはあるのか、苦悩の日々は続いていく。
『理想主義者の無気力症候群』
趣味を行っていてもその時だけの一時的な快楽を得られるだけで、終わってしまえば余韻など殆ど残らず、無気力と憂鬱な感情に襲われる。これは、恐らく人間関係における欲求不満が原因だ。
アニメを観ていても、小説を読んでいても、必ず人間関係は存在する。そして、そこにある架空の人間関係に強く憧れて、「自分もこんな風になりたい」と思うのだが、現実は物語ではないから全くうまくいかない。自分の前に都合よく現れる女性もいなければ、元から仲の良い友人がいるわけでもない。その意味で現実に生きる私と、物語に生きる主人公は、全く別の世界に存在しているのだ。
しかし、それでも理想は捨てられない。主人公願望をいつまで経っても捨てられない。それは、私がただ家にこもってアニメや小説を享受しているだけで、現実で殆ど行動をしていないからだと思われる。実際に何も動かず、理想だけ膨らませている状態というわけだ。
仮に、理想に向かって現実で一生懸命行動した結果、全く頑張りが実らなかったとしたら、それは明確な挫折であり、恐らく無力感に苛まれ、いよいよ本当の無気力人間になってしまうかもしれない。しかし、私の場合、確かにそれまである程度行動してきてはいるのだが、明確に挫折感を感じるほどは動いてはいないので、まだどこかで夢を見ているのだ。いつか理想の女性に出会える、いつか理想の友人に出会える、と。
ではまだ夢を見ているのなら、叶えるために行動すればいいではないかと思うかもしれない。しかし、私は明確な挫折による無気力とはまた別の無気力感を感じている。それは、私の行動力のなさに起因している。私は、そもそも何か行動を起こすこと自体が困難なのだ。心配性で不安を感じやすいうえ、コミュニケーション能力に乏しいため、なかなか行動に移すことが難しく、頭の中であれこれとシミュレーションを重ねることに終始してしまうのだ。そして、そのシミュレーションの結果、どうせうまくいきっこないと無力感に苛まれてしまい、同時に無気力となってしまうのだ。
したがって明確な挫折の末に起こる無気力と、私の無気力は質的に異なるものである。つまり、私の無気力は大体が脳内のシミュレーションの結果であり、質的体験の末に起こる無気力ほど強いものではないので、無気力感がありつつも、理想は捨てられないというわけだ。
しかし、これはこれで非常につらい精神状態である。動きたくても失敗を恐れて動けない、あるいは確実にうまくいく保証がないから動けない、それでも理想は捨てられないというジレンマは、期待だけさせておいていつまでも叶えさせないという絶妙な平衡感覚によるある種の精神攻撃だ。その意味で、アニメや漫画、小説などの娯楽作品は罪深いものがあるし、周囲に散見される人生を謳歌している人間たちも、嫉妬心を湧き上がらせる有害要素である。
お読みいただきありがとうございました。こちらも前(雰囲気系掌編小説集~『猫と俺』『意味と示唆』『太陽賛詩』~)と同様、以前書いた短い文章をいじることなくまとめたものです。
コンセプトとしては「懊悩」です。私小説なのかエッセイなのか、そのどれでもないのか分かりませんが、パソコンのHDDのなかで埋もれるくらいなら陽の目を浴びせようというだけの理由で投稿しました。