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散歩2

 河原を少し歩き続けると紫陽花の群生が現れて私は見惚れた。

 色が様々だから美しさが増している。この景色をきっと千紫万紅(せんしばんこう)と呼ぶに違いない。


「おっ。大きなカタツムリがいる。アジサイって量があるから食べられたらええのに食べられないらしいんですよね」


 この景色を瞳に映してこの感想なんだ。


「キノコ生えてないかな。適当に持って帰ると母ちゃんと近所のキノコ名人が食えるのと食えないのを分けてくれます」


 私は感激したけど彼は花より団子みたい。お金があまりないなら食料は死活問題か。思っていた散歩デートと違う。

 ……デート。そうだこれは私の人生で初めてのデートだ。彼はどうなんだろう。


「紫陽花は食べられ……ひゃっ!」


 大きなカタツムリをこちらに向けられて顔に少し近づけられたので変な声が出てしまった。大きなカタツムリの裏側って気持ち悪い!


「あはは。どうなるのかなって思ってついガキみたいな事をしてしまいました」


 楽しそうに笑ってくれたので怒る気分にはならず、私も笑ってしまった。


「カタツムリは掃除で追い出すか眺めた事しかないです。こんなに大きなカタツムリは初めてで裏側が気持ち悪かったです」

「妹達もわーきゃー騒ぎそうだからこいつは持って帰ります。絶対に騒ぐ。あいつら面白そう」


 肩を揺らしてとても楽しそうな笑顔。これは楽しい散歩デートだ。

 イルの手拭いはいつの間にか袋状に縛られて帯に結んであった。私は目の前の葉っぱにいた小さなカタツムリの殻をそっと摘んでイルの手拭い袋へ入れた。


「紫陽花を食べようなんて発想はなかったです」


 私達はまた歩き出した。私はこの素敵な眺めを堪能するけど彼の目線は足元なのでキノコ探しだろう。

 文学作品や友人達情報の噂のデートと違って雰囲気ゼロだけどイルは素敵な笑顔でカタツムリの歌を鼻歌交じりだから楽しくて幸せ。


「俺は初めて見たものは食べられるのか? って考えてしまいます。梅雨は食べ物がカビるし夏は腐るんで特に。夕方の安売りで腐りかけばかりだったからって夕飯がないような時もあるんで」


 手紙で教わったけどイルは六人兄妹で両親と暮らしていてすぐ近くに祖母がいるそうだ。

 六人兄妹は全員頑丈で誰も死なない。死ぬ気配がない。うんと良い事だけど普通は一人か二人亡くなるから両親は子沢山貧乏で下二人は半元服前だから油断大敵と書いてあった。

 誰も亡くなっていなくて元気なのは私も凄いと思う。我が家は私が生まれる前に幼少の兄が亡くなっている。我が家が特別なのではなくてわりとよく聞く話だ。

 イルは「キノコがいました」と紫陽花を少し避けてキノコを確保。キノコはカタツムリと同じ手拭い袋の中へ入れられた。


「あの佃煮屋さんで営業練習中なのでまた買って贈ります。縁のないお店の大旦那さんや奉公人さんについて学びたいです。大店なら勉強になります。佃煮をそのお礼にします」


 私も彼や家族のお腹を満たすぞとキノコ探し。ふと思う。

 もしも我が家の事を全て投げ捨ててイルのお嫁さんになると私はこうやってキノコ探しをするのだろうか。

 家事は?

 学校で習う家事と家守りの家事は異なる。授業はとっかかりの基礎で実際の生活は違う。我が家の家事の大半は使用人と見習い奉公人達の仕事だ。両親はその監督者。

 家守りの練習もするべきな気がするけどこんなのもう本当に時間が足りない。それで私は家業の全てを投げ捨てるなんて出来るのだろうか。

 家族も家業も親しい奉公人達も好きだし大切で勉強や稽古で褒められると私もきっとイルのような嬉しい、誇らしい顔をする。

 家守り嫁になるということは十六年間積み上げてきた事がわりと無駄になる。教養は役に立つだろうけど家守りを一から修行だ。


「知ってることならなんでも教えます。お礼なんて要りませんと言いたいところですけど美味かったし助かるからいただきます。無理のない範囲なら。俺は余裕そうな人にはたかるし貢がれます。金のかからない頼まれ事を出来る限りします」


 また笑いかけられた。散歩デートって素晴らしいな。こんなのもう毎日したいけど彼には勉強がある。邪魔してはいけない。


「営業練習をすると言って軍資金を確保しているので私の懐は痛みません」

「賢いですね」

「ズル賢いの方です」

「商売人の娘さんはそうでないといけない気がします」

「あの」

「ん? はい」


 イルはまたキノコを獲得した。


「その、私のお名前は覚えていますか?」

「ええ。でも偽名ですよね。呼び慣れたら大通りとかで思わず呼びそうになる気がするので呼ばないようにしています。コソコソと言うていたので。もしもコソコソじゃなくなったら呼ぶのは本名です。馴染まなくてええかなって」

「それは……その通りです。お気遣いありがとうございます。お手数をかけてすみません」


 彼は私を見ないというかキノコを採っている。

 嘘をつくと天罰が下るってこういうこと。名前を呼ばれなくて嫌だと言う資格は私には無かった。


「今はコソコソしていないのに誰も居ませんね。雨だと……。それで散歩は雨の日でした? 顔が見えにくくなる傘があります。雨は雨でも小雨だと歩くのが楽です」

「そういう考えもありましたし先に話した理由もあります」

「薄雲になってきたから晴れ間が覗くかもしれません」

「そうだと嬉しいです。あの、我儘(わがまま)を言っても良いですか?」

「内容によります」


 私は採ったキノコをイルに差し出した。受け取る際に指先が触れたので思わず手を引っ込める。嬉しいけど恥ずかしい。触れられたところが熱い。


「えっ。ああ。すみません。そうか」

「そうかって何ですか?」


 マジマジと手を見て大きいなとか父のように骨張っているなとか、手を繋いで歩いてみたいと思ってしまって余計に恥ずかしい。


「いやあの。お嬢さんってちょっと触れただけで真っ赤になるから気をつけないとと思って。はいどうぞ、みたいな女と違うのは育ち方ですか? しょうもない男としょうもない事にならないように妹達は虫除けしていますし母もガミガミ言うていますけどここまでではないです」

「育ち方もあるしお嬢さんでも人それぞれです。あと相手によると思います……」


 恥ずかしい事を口にしてしまった!

 慌てて傘で隠れてから「ん?」と首を捻る。


「それは……」

「はい、どうぞという女性とは何ですか?」


 ピンッと嫌な予感がしたので私は傘に隠れるのはやめてイルの方を向いた。待ち伏せしたのは私が初めてではない感じだったのを思い出す。


「えっ? いや、そのままの意味です」

「はい、どうぞと言われたら触るのですか?」


 目を丸くしていたイルが視線を泳がせた。これは答えだと思う。私は俯いた。自然と唇が尖る。


「噂の下街男性さんはそうな気がしました。隣の教室の女学生の恋人は下街男性でハレンチなことに噂のキスをしまくりって聞いたので……」

「……噂のってなんですか? 噂のキスって。噂のをつける意味というか、なんというか。あと恋人同士なら別にキスくらいハレンチではないと思いますけど」


 意見の相違!

 

「結婚の約束もしていない結納前にキスなんてハレンチです! 結納後半なら良いですけど」

「たかがキスですよ? 女は人によって違うか。俺は妹達にたかがキスなんて考えの男が近寄るのは許さん」


 キスくらいにたかだかキス⁈

 お嬢さんにたかがキスなんて考えの自分が近寄っていますけど!!!


「俺らだと結納なんて口約束が多いです。親同士も了承している恋人は結納みたいなものです。その時は非常識な破局ならボコボコにされるしします。恋人なのにキスすらしなくて何をするんですか。そんなの恋人じゃないですよ」


 これが身分による価値観の違い?

 身分なのか異性だからか私と彼だからか不明。

 ボコボコにされるしするって契約違反で違約金とかそういう世界ではないのか。

 平家同士だとお金があまり取れないから? 傷害事件にならないの?


「そうなのですね。それは新しい事を知れました。それだとハレンチではない気がしてきます」

「妹達には逆にお嬢さん知識を植え付けます。今のところ同じっぽいですけど」

「噂のキスの噂は見たことがないからです。したことが無いのは当然として。文学では読んだ事がありますし噂話でも聞きますけど」

「そこらにいま……。いないのか。俺の家の周りでも禁止されています。子どもが遊んでいるから林の方へ行けとか」


 顔を上げたらイルの唇が気になってしまった。彼ははい、どうぞと言う女性を触った事がある。キスくらいにたかがキスだからキスもした? 気になりすぎる。


「そこらにいるとしても私の生活では見かけません。新しく始めたポチとの散歩で見かける気がしています」

「物陰とか路地とか人が少ないところだから危ない目に遭うかもしれないのでそういう場所からは離れて安全なところを散歩して下さい」

「……はい」

「今の()は興味があるから探してみようって事な気がします。ダメです。そのうちするから見学しなくてええです。世間は怖いから気をつけましょう。……俺もお嬢さんを人がいないところに連れ出してる!」


 あー、と言いながらイルは私から数歩離れて髪の毛を掻いた。

 そのうちするって……私と結婚相手ということだろう。自分ではなくて。楽しかった散歩が悲しくなってきた。


「私は自分でついてきました。あとそういう時はポチが噛みます」

「ポチポチ犬。お前はいざという時は噛むんだぞ。噛む前に吠えろ。金持ち華族を噛むと面倒だ。だから躾けられているんだな。お前は偉いな!」


 イルはしゃがんでポチの頭をほっかむりの手拭いの上から撫で回した。またしてもズルい犬である。


「はい、どうぞと来られたらまた触るんですか? 噂のキスも……」

「うおえっ⁈ いやしません。難癖結婚話が進んでいる奴がいるんでもうしません。ヤッてもいないのに父親が乗り込んできたらしくて。そいつの女になりそうなのはしょうもなくなさそうだけど、しょうもない女と結婚なんて御免で今は時期も無理です」

「ヤッてもいないのに? キスしていないのに……。手を繋いだだけで結婚はやり過ぎだから難癖って事ですね。もうしない? していたんですね」

「……。いやしていません」

「今の()、しましたよね?」

「……稀に。後腐れない少し遠めの地域で全く知らない二度と会わない女とか? 興味もある年だし練習的な? そもそも最初は襲われたようなものでそれから俺は積極的な女は嫌だけど遊び希望にこっちも雑に相手だからええですよね?」


 自分のことなのに全部疑問系って何。ええですよねって悪い。イルはとんでもない悪だ。


「……」

「親しい奴らが少し遊ぶ奴らなので……。火消しとか……。お嬢さんは火消しに近寄らないように……。いや大工も遊ぶから大工も……」

「……」

「幼馴染は火消しに大工その他で似たり寄ったり……。俺は言い出さないけど友人達がふざけて遊び釣りで競走しようとか……。地味顔は忘れられて都合がええとか笑われたり……」


 イルの声が過去一小さい。彼は私を一切見ないでポチを撫で続けている。喋るんだ。話すんだ。この人は隠し事が苦手そう。


「俺はあいつら並みには触らなかったですし……」

「まぁ、男子学生さんも女学生も色々です。イルさんはお嬢さんはって言いますけど掛け持ち文通やキスしまくりもいます」


 お願い事をしようと思っていたのに話が変な方向へ行ってしまった。

 私もしゃがんでポチの頭を軽く撫でた。また指先が触れないかなと思って。

 イルに興味ない誰でも良いような遊ぶハレンチふしだら女性は彼に触られた事があるなんてこんなのムカつくから私も触りたいし触られたい。なのにイルはポチを撫でるのをやめてしまった。おまけに立ち上がった。

 

「そうそれ。お嬢さんが俺の仲間みたいなのと恋人なんて衝撃的な話です」

「噂になるくらいだからかなり珍しいです。区立女学校の生徒さんならもっといそうです。平家の方もいますから」


 姉も相手は平家奉公人。ちょこちょこいるなんて教えてあげない。珍しいのは奉公人で親の了承のない下街男性が恋人で噂のキスをしまくりの方だ。


「冷めた目が怖かったので俺は堅物になります」

「……そうですか。私には関係のないことです」

「いえ。関係あります。お嬢さん達に下街男性も色々だと言うて下さい。絶対言って下さい。登校中にあちこちからあの目をされたら落ち込みまくりです」


 私じゃなくて世の中のお嬢さんの事なの!

 腹が立っているのにさらにムカムカしてきた。立たないでポチの頭を手拭いの上から撫で続ける。


「癒しが消滅します。お願いします。あと金持ちだって男はしょうもない奴はしょうもないですよ。金があると花街、愛人囲いに金で解決だから下手すると金持ちの方がタチが悪いです。金なしも金ありも俺も含めて男はバカだから男には気をつけましょう」


 文学で出てくる花街を私は嫌っている。お金を払って女性の体を触りまくってキスしたいなんて男という生物は謎。

 没落して借金で花街へ売られてカゴの中に閉じ込められ気味になって大勢の男性に胸やお尻を触られるとかキスされるとかそんなの死にたい。

 両親は娘を売らなそうだけど。それをするならきっと一緒に死んでくれる。

 どこで知ったの、と言われそうなので友人達には言えないけど男はしょうもないという話は気になる。

 この微妙な空気はもう終わらせたいので手紙で聞いてみよう。身の安全のために知りたいですと尋ねたら教えてくれそう。


「はい。気をつけます。花街なんて嫌いです。絶対売られたくないです。大勢の男性に大事なところを触られまくるとかキスされるとか最悪です」


 こうなると我が家より少し格上のシエルがタチの悪い男性ではないか気になってくる。これは両親にそれとなく確認しよう。

 真正面からでも良いのか。これはイル抜きで大切な話だ。花街で色春ボケしてお金を使い果たすような旦那がいると没落。

 そうなったら私や姉が売られる! 両親にしっかり厳しく調査してって言わないと!


「その辺りは両親にもう少し詳しく聞くとええです。危機管理として」

「元服したら両親と花街に入る練習をします。その時に深く説明すると言われています。色春売りは関係ないお店もあるからです。華族と繋がりが乏しいとあそこが最先端の流行や噂の仕入れ先です」

「両親と練習に深く説明なら大丈夫ですね。そうか」

「またそうかって何ですか?」

「お嬢さんは箱入りだと思っていたけどやはりそうで箱入りで安全に純情に育てて元服後にしっかり教えるんだなと。俺は妹達がこの方がええから両親に教育予定を聞こうって思いました」


 私は純情なんだ。そうなのか。雑に友人達に誘われて遊びで女性と遊ぶ癖に妹達は箱入り純情娘にしたいとか自分の好みは淑やかで慎みのある純情お嬢さんって我儘(わがまま)だなこの人。


「それならお手本になるべきですね。妹さん達がふしだらハレンチ娘になってしまいます。イルさんも箱入り純情お嬢さんに嫌われますし。良い事が一つもないです」

「それは最悪だからその通り手本になります。さっきの冷めた目もとても恐ろしかったです。女がなければないでじ……。あー! あー、変な話になってしまいましたが我儘(わがまま)ってなんでした?」


 じ?

 何を誤魔化したの?

 これで今日からイルは誠実男性の仲間入りかもしれない。妹達がかなり大事なら己の悪行を悔いて律儀で誠実になりなさい。私は立ち上がった。


「じ? じってなんですか? 何を誤魔化したんですか?」

「自分を律したらええ。そう言いかけました」


 ふーん。違う気がする。


我儘(わがまま)ってなんでした? 今言わないと我儘(わがまま)を聞きませんよ」


 悪戯っぽい笑顔がなんだかかわゆいと思った私の負け。


「悪行を悔いて律儀に誠実になって己を律するとは良い心がけです。はい。あの、花瓶に飾るので紫陽花を折って欲しいです」


 紫陽花を贈って欲しいです、というおねだりだから恥ずかしくて彼の顔を見られない。

 羞恥心の後に「悪行を悔いて律儀に誠実になって己を律する」という自分の言葉が刃になって自分の胸にグサリと深く突き刺さった。これは今現在の私のことだ。


「ん? 冷たいからですか? 全くもって我儘(わがまま)ではないですね。これが我儘(わがまま)ってびっくりです」


 冷たいからって彼は鈍感なのだろうか。立ち止まっているのに転びそうになってしまった。

 立ち上がったイルが紫陽花に近寄る。それで私の方を向いた。


「何色ですか?」

「お任せします」

「それなら混じっているのにしましょう」


 イルは青と赤紫が混じった紫陽花を手折ると帯に下げている袋状にした手拭いで軽く拭いてから私に「どうぞ」と差し出してくれた。うんと優しい微笑みで嬉しい。


「ありがとうございます。部屋の床の間に生けます。まずはポチの飾りです」


 おねだりして花を贈ってもらうって残念な女性。でも自分で頼んだとしても優しい笑顔で渡されたから胸がいっぱい。

 水気を拭いてから渡してくれるなんて優しい。他の事でも彼は優しい。

 ポチに似合う? と家族か誰かに見せた後に部屋に生けたら怪しまれない気がする。


「そろそろ引き返しましょう。あっ、向こうの方が晴れています! おお、虹ですよ虹!」


 彼が指を差した方向を見ると青空が覗いていて虹がかかっている。


「わぁ。碧落一洗(へきらくいっせん)です。綺麗……」

「へきらいせん?」

碧落一洗(へきらくいっせん)です。えーっと。どんよりどよどよ空気や雲が雨が降って綺麗に洗い流されて空がすっきりと晴れ渡っている。そんな雨上がりの景色のことです」

「漢字を知りたいので手紙に書いて欲しいです。賢くなるとやはり言葉数が減りますね。帰る方向に虹や青空とはええですね。見ながら帰れます」


 カタツムリもキノコも帰り道には登場しないのでこれは素敵な帰り道になる。


「はい。四字熟語帳を貸しますか?」

「来年借りたいです。脳みそが小さいから今年は今の勉強でひーひーで無理です」


(来年の約束は難しい……。また胸が痛い。イルさんは優しいからもしかして……。お嬢さんという分類も好みだし)


 私は嘘つきでズルい女性なので思いついてしまった。


「あの、もう一つ我儘(わがまま)を言っても良いですか?」

「やはり内容によりますけど先程の感じだとええと言いそうな気がします」

「実はその、歩きづらくて……。こう、手を貸して欲しいです」

「……えっ?」


 私はそうっとポチの紐を驚きの眼差しの彼の手から奪って傘と一緒に右手に持った。それで左手を浮かす。


「ころ、転びたくないのでお願いしたいです。とてもお気に入りの着物です」

「け、怪我、怪我しますね。石が多めです」

「あし、足を捻るかもしれません」

「それ、それはどうもありがとうございます」


 二人してしどろもどろ。もの凄く照れ臭そうな顔をしてそっぽを向いて手を取ってくれた!

 このお礼はお嬢さんなのに触らせてくれてありがとうございますだな。信頼してくれて、の方かもしれない。

 私だからではなくてお嬢さんに誘われたら彼はこうなるしお嬢さんを触る。私はイルの事が前よりも分かってきた気がする。


(さっそく自分を律っしてないけどこの口実でキスがたかがの彼からするとたかが手だもんな。人を助ける時に触るのと同じ程度)


 なのに彼の耳はほんのり赤い。大きいし固い手で雨で冷えているから熱いはずがないのに手が熱い。手どころか全身が熱いかも。

 話しかけられないから私も話しかけず、自分の心臓の音を聞き続けながら傘で目一杯隠れてそっと手を下ろした。

 これだと本当に手繋ぎだ。今この瞬間、時間が止まってくれれば良いのに。

 イルは「そろそろ大丈夫な道ですね」と手を離してしまった。


(自分を律した? 表情は……傘で見えない。残念そうな顔だと良いな)


 私はとても残念過ぎる。こう言われるまで少しだけ時間があったのでそれは嬉しかった。名残惜しいと伝わってきたから。つまり彼は自分を律した。私とは真逆。見本にしたいけど私は彼ともっともっと親しくなりたい。

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