試験
学校から帰宅していつも通り過ごして夕方にシエルが迎えに来てくれて二人でポチの散歩。
私達は九月に結納してからポチを見張りにしてほとんど毎日一緒に散歩している。
街中をあちこち歩き、時々ヤイラ小神社に滞在してあれこれ話す。
九月に結納してもう十二月半ば。五月末に密会を始めて九月頭に終わったイルと過ごしたり話した時間よりも長くシエルと過ごしている。
今日は冷えるので風が減りそうな人の多い街中を歩こうということになった。
「メルさん。今日は兵官採用試験日でした」
「はい。そうですね」
「十二歳から誰でも受けられるから受けてきました」
「……えっ⁉︎」
夕焼けももう終わるからそろそろ提灯を用意しようとしていたけど手提げを落としそうになった。
「あの、兵官採用試験って何をするんですか? 怪我はないですか?」
「背丈の確認、身体の様子の確認、走らされたり受験者や試験官と試合など色々です。試験管と試合は一瞬で負けました。気がついたら竹刀を払われて喉の手前まで突かれて一歩も動けずです」
「怪我がなくて安心です」
たまにシエルはイルはどうでした? と尋ねるけどまさか兵官採用試験を受けに行くとは夢にも思っていなかった。
「並んでいるから他の受験者を結構見られたんですけど俺からすると化物みたい者ばかりでした」
「化物ですか」
「推薦状がないので合格したら戦場兵官です。試験前に確認されるんですが合格後はもう拒否出来ません」
わざと怪我をしたりなど逃れる方法はありそうだけど、とシエルは続けた。
「絶対に受からないから安心です」
「絶対って。この世に絶対なんてありません。まあ、でもその通りであれは無理です」
私がサリアを調べたようにシエルは兵官に興味を抱いてたまに私に話しをするけどまさか試験を受けるとは思わなかった。
「受験したのはなぜですか?」
「世間知らずのぬくぬくお坊ちゃんなので知りたくて。商売人には人との交流や会話が必須です。話しかけて様々な人生を聞いてみました」
「そうですか」
こんなことを考えていたなんて知らなかった。まあ、人の頭の中は覗けないので教えてくれないと分からない。
イルと私は勉強の合間に少し雑談と文通だったので他人に近かったとシエルと話せば話すほど感じる。
私は最近恋に恋していたような気さえしてくる。そうやってあっさり次の人に気持ちを傾けている自分を肯定しようとしているのかもしれない。
「気になる方に就職しないかと営業しました。安月給だけど奉公人が欲しいですって」
「ええっ! ああ。力仕事などきっと得意です。怖いお客さんや強盗などもいるので用心棒役としても欲しいです」
シエルは私がしたイル話からこういう発想をするのか。
意外な一面ではない。彼は時々こういう私からすると突拍子もない驚くような案を提示する。
指摘するとシエルは前はぼんくら男だったけど訓練させられたからかな、と愉快そうに笑う。
「甘いですよメルさん。金を貯めさせて例の剣術道場みたいなところに頼んで地区兵官狙い。恩着せ出来るかもしれないです」
「まさか宣伝者作りですか?」
「その通りです。支援をする働き口がありますと誘いました」
誘ったのは王都からかなり遠い村の貧しい農家の次男。
村で一番強くて自警団に参加していて家族のためにも成り上がりだ、と上京して試験を受けに来たけど受験者達の強さに愕然としたそうだ。
自警団の話や村のことを聞いて人柄を気に入ったという。
彼の目的は自分の特技で稼いで実家に仕送りなので試験に落ちたら王都で手当たり次第仕事を探す予定だったけど、ツテコネ社会でほぼ絶望的という話をシエルにされて表情が変化したそうだ。
「彼に兵官採用試験免除組はいないですよ、と教えたら青い顔がさらに青くなって目玉が落ちそうになっていました。公務員試験も知りませんでした」
在職中は普通の奉公人よりも力仕事で役立ちそうだし王都外から出稼ぎで家族の為なら真面目に働くだろう。
無事に地区兵官に育ったら無料の営業担当の可能性。失敗しても体力のある力仕事で活躍する真面目な奉公人が恩返しのために離れない。シエルはそう口にして微笑んだ。
「我が家で始めようかと思ったけど婿入り予定だからハバルさんに相談しました。ちょうど人を雇いたいから乗ってくれるそうです」
「お父さんと相談して私を無視とはどういうことですか」
「俺も花咲ジジイでないと負けそうだけど無理だから人にやらせようと思いました。迎えに来たら拐われそうなので対抗心です」
この発言には虚をつかれた。
「迎えになんて絶対に来ません」
「この世に絶対はないですよ」
「あの、登校時間に見かけますし手習先を知っているから会いに行こうと思えば会えるけどそのような気持ちは全く湧きません」
「そうな気がします。最近彼の話題がとんとなくなりました。表情もわりと違います。俺が彼について問いかけてもすぐに俺の話です」
「私、イルさん話ばかりしていました?」
「ばかり、ではないけど気になるくらいは。なのでそろそろ……コホン。今日は君の手が冷たそうな気がします」
シエルは私の方へ手を差し出すと、寒くて既に赤い耳をさらに赤くして私から軽く顔を背けた。
「冷えていません」
「そうですか」
シエルは手を下ろした。すまし顔をしているけどどういう感想を抱いただろう。
「私達に建前は要らないです。そういう仲なのでいつでも何もなくてもお願いしたいです」
むしろ私からだと思ったけど恥ずかしくて着物の袖を摘むので精一杯。少ししてそっと手を取られて握り締められた。
私は恥ずかしくて話せなくなってシエルばかり話すようになった。どんどん掌が温まっていく。
「えっ、下級公務員試験も受けるのですか?」
「ええ、兵官の。王都外の農家の息子は勉強が大変ですから地区兵官になれる可能性が低いです。なのでこの一枠が本気枠です」
「彼に教えさせるということですか? 人に勉強を教えると伸びるのでお互いにとって良いです」
「おお。時々賢いメルさん。その通りです」
「時々は余計です」
「うかうかしていると我が家と俺でソイス家を乗っ取りますよ」
「乗っ取らせません。私が次の当主です」
こんな事を考えて経営に組み込もうなんて発想は無かったから合縁奇縁とはこの事ですね、とシエルは愉快そうに笑った。
働きながら自力で鍛錬して自力で勉強を続けてなんとか地区兵官や警兵になる者は多いという。
「地区兵官達にどのように地区兵官になったのか聞き込みをして調べて分かったけどやはりイルさんは幹部候補としてかなり気合いをいれて育てられています」
「地区兵官に聞き込みをしたんですか」
「弟が兵官になりたいと騒ぐと話しかけて。親身な地元地区兵官を何人か覚えられました」
「こうなるといっそ煌護省へ行って何かないか尋ねるべきではないですか?」
「そうなんですよメルさん。我が家系列や朝日屋から通いやすい特殊な剣術道場について知りたいです。教育支援金とか納税額の減額とか寄付先指定など何かあるかもしれないです」
「シエルさんは頼もしいです。私が当主になるのにうかうかしていたら我が家を乗っ取られてしまいます。励まないと」
「それは先程俺が言いましたー。当主の座を狙っていますから励んで下さい」
「シエルさんは半分料理人ですから負けません」
「父上の掌の上で転がったのか経営も料理みたいで良いと思うんですよね」
「えっ。私はシエルさんの料理をずっと食べたいです」
「ソイス家の朝食担当になろうかなぁ、と思う時があります。料理で人を幸せにしたいとかそういうのは無いんですよね。単に楽しいからのめり込んでいたんで」
外で食べたものを再現するとか、思った通りの味になるかとか、飾り切りがかなり好きで得意とかそういう料理好き。なので料理人に執着心はないという。
あるのは何かしらで料理を続けることと飾り切り。また知らないシエルについて知った。
「私は不器用で大雑把なのもあって苦手です。シエルさんに教えてもらうのは楽しいですけど」
「メルさんは縫い物も下手ですよね」
「わ、笑わないで下さい」
「俺は凝り性なので全体的にそつなくこなせるメルさんを羨ましく思う時とあります」
「時も、だから器用貧乏とか特技がなくて可哀想と思っていますね」
「そこそこ賢いメルさんは言葉尻に気がつきますね」
「またそこそこって」
私の周りには人を食ったような者が集まるのは気のせいだろうか。
「メルさんって反応がいちいち楽しいので。顔に出まくりですし。俺はいつもわりとからかわれる側だったのにメルさん相手だとそうならないのは謎です」
「直します。顔に出ない仮面女性を目指します」
「直さなくて良いです。目指さないで下さい」
家まで送ってもらってまた明日。同じ頻度で続けている手紙も渡して解散。
離した手があまりにも寂しくて姉の台詞、気持ちは水ものが脳裏に過ぎる。
鮮やかな夏の火樹銀花の夢を時々見るけど胸の痛みは小さい。
龍歌は大袈裟というけど多分そんなに大袈裟ではない気がするから誓い合って沢山触れた恋人だったら違った気がする。
だからイルも私をたまに思い出して振り返っても前へ前へ走りながらで止まることも戻ることもないだろう。
私が明るいと思える未来へ向かって前進しているように。
(私はイルさんを思い出すとしょうもない自分が嫌になるからイルさんもかも。デオンさんに大説教されただろうし)
私は地区兵官を見かけると時間帯が異なるのに半見習い中のイルではないかと目で追う。
彼だったら手を振り合って笑い合いたいと思うけど話したいとは思えない。
登校中にイルとたまに目が合って「やあ」というように手を挙げられた時に「頑張って」という気持ちを込めて手を振り返す時と同じように。
その目が合う頻度も減った。私が彼を見ないし、ふと私が見た時は彼が私を見ない。
私達はお互いを他人という景色に溶け込ませてどんどん遠ざかっている。
1週間後の散歩中、今度は下級公務員試験はどうだったという話を聞けた。
「同じ部屋に筆記用具を忘れた男がいたんです」
「それはうっかりさんですね」
「試験開始直後に部屋に入ってきて試験官にお前は遅刻な上に手ぶらかと問われていました」
「手ぶらですか? それなら試験官に借りられたのですか?」
「着物も顔も手足も腰から下げている手拭いも汚れていました。ああっ! と大声で叫んで人に預けて忘れましたって」
火事があってつい、と笑った後に彼は「鉛筆を貸していただけますか?」と試験管に頭を下げたそうだ。
「遅刻だからと言いかけた試験官が火事? と質問しました」
「年に一回の試験に遅刻したらまた来年ですよね」
「ええ。その日に家が火事は気の毒だと思ったのでしょう。試験開始直後でしたし。試験官が君の家族は無事なのかと尋ねたら違いました」
火事は何軒か続いていてそれぞれ何人家族か分からないから無事なのか分かりません。飛び込んで逃がすことが出来た子ども二人は元気です。
火消しが増えて素人はもう不要と思った時に大事な試験へ行くところだったと思い出して慌てて走ってきました。遅刻男性はそう告げたそうだ。
遅刻だからってことは遅刻ですか⁈ 間に合ったと思ったけど残念です。帰ります。遅刻男性は笑ってそう告げたという。
火事があってついって、とんでもなく偉い人!
「試験官は手元の資料を少し確認してその理由なら来年の参考の為に試験を受ける許可をすると言いました」
「どんな理由でも受験不可なのですね。でも参考にとは少し親切です。それが精一杯ということなのでしょう」
これはどうにかして抗議した方が良いのではないだろうか。
人を助けてほんの少し遅刻したらまた来年受験して下さいなんて。彼が試験を優先したら子ども二人が燃えていたかもしれないのに。
「試験官は彼を席に案内して筆記用具を与えて名前の記入と欄ズレがないか三回確認しろと告げて終わりました。バカなんでどういう試験内容か分かるのはとても助かります。ありがとうございます。そう笑っていました」
……サラッと人助けにバカなんでってまさか。まさかね。私はシエルに彼に話しかけたか尋ねてみた。
午前中の試験が終わると彼は試験官に連れて行かれたそうだ。
それで昼休憩終わりくらいに戻ってきて、その時はもう顔や手足の汚れが消えていた。それですぐに試験。
午後の試験が終わった後、試験官は彼に声を掛けなかったそうだ。
「下級公務員試験日は受験生に話しかける隙がないから人探しは難しいです。合格発表日に顔色が悪い者に声を掛けてみます。今回はたまたま彼を見つけたので声を掛けました」
「どのような方でした?」
「昼休憩中、試験官は午後と来年頑張りなさいと教科書を貸してくれて昼飯をご馳走してくれたそうです。それで手拭いも貸してくれて体を拭けたと」
彼の腹の虫が鳴ったから試験官に憐れまれたらしい。
「それで落ちたらどうするのか尋ねたら半見習いだから働きながら勉強だそうです。学校の模試では大丈夫と言われたので来年受かりますとまた笑っていました。短時間でも明るくて前向きな男性だと思いました」
明るくて前向きで学生で半見習い。いやまさか、と思いつつなんとなく予感がする。勘がイルではないかと告げている。
「自分なら人を助けて遅れたからどうにか、と頭を下げるのになぜ来年と思ったのか聞きました。ダメ元で頼まなかったのはなぜですか? と」
「なぜでした?」
「あそこでゴネたら試験中の人達の邪魔になるから別のところでダメ元でゴネるつもりだったそうです」
「その方は気遣い屋なのですね」
シエルは彼に自分の目的を話して学生達の事や卒業生の進路を確認。
地区兵官や警兵に不合格だった卒業生は基本的に戦場兵官。王都外の街や村に配属もいる。
彼のように既に半見習いだと再受験組として配属逃れを出来る。あと推薦状持ちは同じく再受験組として最高三年間半見習いになれる。
在学生や再受験組に働き口と勉強支援は喜ばれるかもしれないと言われたそうだ。
「貴方はどうかって質問しようとした時に鐘が鳴って行かないとって言われてあっという間に帰ってしまいました。雑談から始めてしまったので名前を聞きそびれました。失敗です」
ダメ元で自分達を担当した試験官を探して彼のことを尋ねて目的を伝えたそうだ。
「あの場でゴネなかった理由も聞いたから火事について調査して本当なら上と相談するそうです。十中八九今年の試験で合否と言われました」
「そうですか。本人には教えないのですね」
「嘘をついて遅刻を誤魔化す者が増えたら困るからと言っていました」
「調査が増えて大変だからですね」
「ええ」
シエルの目的なら煌護省に話を通すと良いと言われて試験会場に来ている煌護省の役人と少し話したそうだ。
後日また南三区庁へ行くから父と三人で行こうと誘われた。
彼の個人情報は名前も含めて守秘義務があるから教えてもらえなかったそうだ。
毎年何人か似たような遅刻者や試験に来なかった者がいて、どこからか嘆願書が来たりするからあの場でゴネて周りに迷惑をかけたり暴言を吐くような態度が悪い受験者でなければ再試験を検討するという。
「地区兵官や警兵はそういう者こそ欲しいから採用されたら他の者よりも少し教育を贔屓される立場から始まるそうです。彼は自分の行いで良い未来を拾ったことになります」
龍神王様の説法の真の見返りは命に還るってこういうこと。
どこの誰か分かれば応援すると食い下がったけど教えてもらえなかったとシエルは腕を組んで悔しそうな顔をした。
「ああいう者は他の者達も背中を押すので大丈夫。彼の手前こそ支援して欲しいと言われました」
「合格発表日に探せるのではないでしょうか」
「その試験官にその方法で探せますか? と尋ねたら彼は半見習いだから屯所で上司から合否を言われるので来ないと言われました」
「それは教えてくれるんですね。それなら屯所へ……。兵官が多過ぎて顔だけだと難しいですね」
「俺達の六番地の六番隊の半見習い。それは教えてくれましたけど多過ぎです。見回りする彼にいつか会えると良いですねって言われました」
「年明けから準官かもしれないということですか」
「そうだと良いです。なんかこう、男に対して惹かれるってないのに彼のことは気になって応援したいと思ったから名前が分からず残念です。今回の試験で合格して欲しいです。ちょこちょこ探します」
どうしようかな、と思って私はその人は私の初恋の皇子様かもしれないと言うのはやめた。勘はしたけどそんな偶然はないだろう。
私はシエルとまだまだ深い仲ではないのでイルにこの新しい恋を邪魔されたくない。
イルは徐々に私の中で思い出や他人になっているようで、シエルがそれを察したようだから特にそう思う。




