理性と本能
どう考えても顔を覚えられたはずなので私はルロンに手紙を書く事にした。
お礼を告げて笑顔を返してもらう。それで満足ではなくてますます話したくなってしまったから。
まずお礼。とにかくお礼。ほぼ毎日見ていただと付きまといで怖がられるからたまに見かけてお礼をしっかり言いたかったという話にする。
ルロンらしくなかったので名前変更。私のせいで両親などが迷惑をかけたら困るので偽名で呼びますと綴る。
娘に手を出した〇〇はいるか! と学校に乗り込んだりしたら困る。名前が違ければ彼に辿り着きにくくなる。
彼は今日から勝手にイルさん。彼が知っているか知らないけれど私が知っている皇子様の名前の一つ。
見た目も中身も全く皇子様らしくないけど初恋の皇子様なので。昔々、太陽には色々な名前があってイルもそうらしい。そう本で読んだ。
いつも楽しそうに笑っている太陽みたいな人だからピッタリな気がする。
こちらの家の詳細などを知っているのに娘と散歩した、と私のせいで迷惑をかけたら困るのでこちらも偽名にして家の事などは教えませんと続ける。
でも本名。私はメルと呼ばれたいというか書いて欲しい。
お嬢さん好きのようなので本物お嬢さんとなら散歩したいとなるかもしれないので学校名は教える。
(結婚させられるからって言ってしまったから……。そう書こう)
お慕いしていますなんて恥ずかしくて書けない。もう見抜かれた気がするけど。
無難な龍歌……。知っているのかな。彼はそういう勉強はしているのだろうか。
(思い出に一度散歩して欲しいです。小雨の日に……。彼は毎日をどのように過ごしているんだろう?)
まずはそれを書いてみようと筆を動かす。女学校は平日毎日と土曜日の午前中。その後趣味会に参加したい人は趣味会。私は茶道会。
琴と三味線と茶道の手習があって家では商売や家業や家事の勉強がある。
土曜の午後は友人と遊んで良い日。友人付き合いはツテコネ作りでもあるけどそこは書かない。日曜日は親の仕事の見習いがなければわりと自由。
(土曜か日曜に少し散歩をするお時間はありますか? こう?)
忙しくて毎日稽古や半見習いで無理です。そういう返事が来たら諦めがつく。またコソコソ眺める。
今回で顔を覚えてくれたと思うので私に気がついた時に笑顔で会釈をして、やっぱり散歩くらいしたいぞと思ってもらうしかない。
(それで冬にお別れ……)
はぁ、と小さなため息を吐くと私は手紙を読み直して封に入れた。
あの佃煮屋は通り道と少しズレているけど下校中に佃煮を買いますと言って寄り道することは可能。
翌日の帰り道に前に質問した従業員に必死に話しかけて荷物を預けている人にお礼の手紙を渡して欲しいと頼んで「御礼」と書いた封筒を託した。
ついでに佃煮も購入。買って帰る分とは別にイルがド貧乏というのが気になるので手紙と一緒に彼が選んだものを渡して欲しいと依頼。
お金は今日払ってしまうので十銅貨以内でお釣りがあればお店か従業員の懐へと頼んだ。
紙代で負担をかけるのも悪いので手紙には返事用になる紙も入れてある。
勉強に使って下さいと書いたけど返事が欲しいというとても邪な気持ちだ。
一週間後とニ週間後に返事があるか佃煮屋の従業員に確認してなければ終わり、みたいな話を手紙に書いてある。それも返事を下さいという催促だ。
「三銅貨のおつりです。うちの商品はともかくお礼の手紙ねぇ。返事はいるんですか?」
「はい。いえ。はい。ありがとうと一言あったら嬉しいです……」
この従業員も若めの男性なので恋話みたいな内容は恥ずかしい。私は商家の娘なのに売り子仕事は苦手。
しかし本来はここまで人見知りしないしこんなに照れ照れしない。こんな態度になっているのは恋心のせいだ。
「返事があったらそこに風鈴を飾りますよ」
「えっ?」
「気になるでしょう? あと気の利いた一言くらいって言うておきます。代わりにまたご贔屓に。学友さん達にも宣伝して下さい。俺のおかげで売り上げが増えたって言われたいんで」
「はい。はい! 前回買った時に美味しいと思ったから宣伝します。新商品開発の際にわ……何でもありません」
我が家の味噌や醤油を従業員に宣伝してどうする。私は唇を結んで会釈をして「お願いします」と告げて逃亡した。少し待ってもらっていた皆と合流。
それなら私も、みたいに私とはそんなに親しくないマイ達が小物屋に寄り道。私はケイとお店の外でお喋り。
「幼馴染さんの浮気疑惑は解決しました?」
「放置しようと思っています。口頭半結納なので約束を破ったら不誠実だけどお咎めはないです。私も別の方と文通することにしました」
「えっ⁈」
「私は若干箱入りお嬢様気味のメルさんと違うでしょう? 四六時中見張られている訳ではないので八百屋におつかいに行った時に隣の町内会の方が枝文を贈ってくれたの」
「まあ。雅でした? 私もゆるゆるの見張られていないお嬢さんです。お嬢様ではなくて」
「メルさんは稽古漬けと本人の性格ですね。ええ。素敵な文でした」
龍歌に絵を添えた文通お申し込みの枝文。枝は紫陽花だったそうだ。
紫陽花は花が沢山咲いて集まっているので多くの幸せがありますようにという意味のある花。
二人で幸せをいくつも作りたいです、みたいな気持ちな気がして嬉しくなりそう。
(羨しい……。あっ。シエルさんに返事)
イルで頭がいっぱいで忘れていた。帰宅して琴の稽古に行くまでに時間があるので慌てて手紙を読み直し。
初夏で暑くなってきましたねという話に私の演奏を軽く褒めるような内容だった。
(うーん。紫陽花が咲くので楽しみです。褒めてもらえて嬉しいです。そんな感じで良いか)
この人に恋をしなさい。未来の夫です。そう提示されてお見合いや結納になったらいっそ楽なのに。
男性慣れしていない私は口説かれたらあっけなく惚れる気がする。
(向こうが格上で選り好み中。息子の結婚は急がないから私を確保しておいて良縁探し。兄がいたら役に立つ家に嫁ぎなさいとか、それこそ区民に慕われる火消しや兵官と結婚はお客さんが増えるから良いとかあるのに二人姉妹で役割分担……)
不思議なことにイルは困っている人に遭遇しやすい。他の人が気がついたり助ける前に彼が気がついて駆けつけるのかもしれない。
人をサラッと助けて優しい笑顔を浮かべるから人に好かれるのは当たり前。
ド派手な活躍をして浮絵になってモテモテ人気者になる兵官、いわゆる花形兵官ではなくてその裏に隠れる地元の人達にあの兵官さんがいたら安心、みたいな存在になりそう。
(私の恋敵のお嬢さんはそういう家かな。許される家……。私は経営を背負っていく立場……)
彼は警兵を希望しているかもしれない。農村地区で好かれて美味しい物を得たり、自然が沢山で美しいから暮らしたいとか。
(馬や赤鹿で駆け回りたい人かもしれない。凄いな。努力して人生を切り拓いているなんて……)
家を背負って励む人も同じか。シエルは料亭を三つも営む豪家の三男。我が家の婿になる場合は一店舗と我が家の両方が背中に乗る。
(嫁入りではなくて婿入り。そういえば向こうの家の得はなんだろう。特別な味を出す専用の醤油や味噌作りとか? うーん。頼まれた深い仲のお店とはそういう事をしているしな)
シエルというかダエワ家は我が家を乗っ取りたい?
私は恋ではあたあた、おろおろしているけど家の事だとわりと勝ち気。そう育てられた。姉なんてじゃじゃ馬。乗っ取りなんて絶対に許さない。
従業員達の役に立って生活を守れるなら乗っ取られて構わないけどそんな甘っちょろい話はないので違うだろうから許さない。
琴の稽古へ行って、イルは手紙を受け取ったかなという事で頭がいっぱいで下手な演奏をして先生に怒られまくって帰宅。
夕食時に父から「そろそろお見合いに移行しようという話が出ている」と告げられた。
「そうなのですか? 向こうの家は我が家を保険にしてあちこち探したいのですよね?」
「ああ。ご両親はそうなのだが本人が我が家が良いと言ってくれているそうだ。昔から我が家の醤油や味噌を好んでくれている」
「そうなのですか?」
「まあ、あと、それでお前を以前から気に入ってくれている。だから少し格上からの縁談なんだ」
衝撃的な話を聞かされた!
わりとそっけない手紙しかきていないのにそうなの⁈
「それは驚きしかないです」
「会わせたら心が傾いて他の良縁の邪魔になりそうだから息子のお見合いを渋っていたけどお前は悪くないとか、我が家で手を打つとか、そうみたいだ。こちらも宣伝したけど」
会って口説かれたら良いと思っていたのに悲報だと感じた。我が家に得の多い縁談だからお見合いに移行したら断りにくい。特にイルが良いなんて話は無理。
イルが良いと駆け落ちしたり家を出たらダエワ家は怒りで我が家に被害があるかも。ダエワ家と付き合いのありそうな顧客が離れる。これは従業員達のために絶対にしてはいけない。
(遅い。この話がもっと前なら……。なんで今というか乗り気なの……。格下保険は普通保険で終わりで本命にならないでしょう……)
玉の輿だからお願いとイルに頭を下げて私と一緒にこの家を背負ってもらう道や慕われ兵官として顧客を増やしてもらう道は私の覚悟とイル次第。
私は私の為に励めるけど巻き込まれるのは家族や従業員でイルには重たい。苦労する。
彼と深い仲ならともかく何の気持ちも抱かれていないから縁なし、面倒そうと逃げられて終了。
「急がずゆっくり親しくなって結婚が良いです」
その間にシエルに縁談が来て我が家は断られてしまえ。
「卒業後に早めに結納して我が家の事を学んでもらって俺達と修行。お前も向こうの家の事を修行。結婚自体はその様子を見てと思っている」
早めに結納って全然ゆっくりじゃない!
「メルさん。共栄みたいな話でお相手に慕われているなんて良い話だと思うの。縁があるってこういう事だわ。ずっと調べているけど良さそうな方よ。真っ直ぐそうで」
「はい。お母さん。ダエワ家との縁談でまさかお気持ちもなら私もそう思います」
「俺と母さんはずっと調べて彼は良いと思っている。いつも手紙を楽しみにしていただろう。ようやく会わせてもらえるぞ」
私はとんでもない嘘つき娘だ。でもダエワ家は嫌なんて言えない。
残りの食事を急いで食べてごちそうさまと告げて居間を後にした。自室の隅で膝を立てて座って体を丸める。
(思い出作りをしてもらうだけだから……。恋人になりたいではなくて散歩ともう少し話したいだから……)
学費免除ということは兵官にならなかったらお金を国に返さないとならない。ド貧乏らしいイルには無理な話。私の貯金では返せない。
両親に頭を下げまくっても許される気はしない。その分のお金は事業投資や従業員の分。自由に結婚したいから我が家のお金を減らすなんて従業員達が怒る。引き抜かれたり転職されたら困りまくりだ。
(お姉さんはおじさんがしている現場をまとめる役を背負った。私が一人で切り盛り……。彼には区民に慕われる兵官さんになってもらって顧客増やし……。残っているのはこの道……)
つまり私が励む話。その間、家族や従業員からの圧に負けてはいけない。
(恋人ですらないから負けそう……。既に気持ちが負け気味……。しかも向こうの家に我が家や私を売り込んでいるから私の恋狂いで破談は不誠実でやっぱり家業に打撃……)
お風呂に入って勉強をして布団に入ってぐるぐる思考。
(もう見ない。手紙の返事が来ても読まない。風鈴が飾られても無視する。それだ。それしかない)
翌日から私は登校中にイルを見るのをやめる事にした。意識するほど気になってしまうけど耐える。
けれども佃煮屋の軒先をつい確認してしまう。
もしも彼から返事があったら私と話してみたいとか、散歩くらい良いと思ってくれた証だ。
その翌日の下校中、佃煮屋の軒下にもう風鈴が飾られた。これは予想外の早さ!
私の足は全く言う事をきかなくて、理性なんて弾け飛んで、転びそうになりながら佃煮屋へ行って手紙を受け取ってしまった。




