縁結びの副神の微笑み2
学費補助でないと専門高等学校には入学させないと言われて長男兄シアドに何をどう勉強しろと命じられた。といっても本当は学費は無関係らしい。そのうち俺に発破をかけてそうする予定だったとはシオン談。
後の時間は俺がしたい料理人修行。それだけにしたいのに商家に婿入り希望ならしろと経営関係の勉強も追加。
俺はメルを餌に単にあれこれ勉強させられているだけだ。しかも練習だと顔も知らない女性三人と文通させられている。
しかしこれは正解だった。毎回話題や龍歌が分からなくて調べた上でさらにそれに対する返事が必要で疲弊する。
メルなんて話していないし喋っていないし見てもいないからもういいや、と思うタイミングでシオンに彼女が所属する琴門教室の小さな発表会に連れて行かれた。
音楽の勉強と言われたけど過密予定気味の俺は爆睡。途中でシオンに起こされた。
「起きろ。メルさんの番だぞシエル」
「んん。別に……」
シオンが前から二列目を陣取ったので彼女の顔がわりと見える。量の多い光苔の灯りに照らされる真剣な眼差し。
俺は琴の演奏をそんなに聴いた事がない。お祭りの神社の奉納演奏や付き合いのある農家に父親達が行くのに旅行がてら連れて行ってもらえてその村で行われた奉納演奏くらい。
そういう演奏は琴門の上の人達の仕事。なので彼女の琴は下手。
それで彼女は「あっ」という声が聞こえてきそうな悲しそうな表情を見せた。失敗したのだろう。
ど素人の何の曲かも分からない俺でも今のは変だなと思ったから絶対に失敗だ。
(頑張れ……)
渋い顔だった彼女が少しずつ笑顔になっていった。それに伴い演奏が良くなっていく。この曲は何というのだろう。とても切ない旋律だ。
(頑張れ……)
またメルが険しい表情になって一瞬変な曲になったので思わず心の中で応援。彼女はまた微笑んで演奏が良くなって無事に終了。
とてもハラハラしてしまった。そのせいか彼女の演奏と曲が頭からまだ離れない。
「とても緊張していて一生懸命で可愛らしかったな。あの感じは顔に出る性格かもしれない」
兄は微笑ましそうな表情で彼女に拍手を送った。俺も慌てて懸命に拍手
「琴は上手くないというか凡庸だな。まあこの曲をこれだけ弾けたら十分ってところ。普通ってやつだ」
「上から目線でなんですか兄上」
「いやだって別に感激する演奏ではなかった。でもあの感じは可愛らしい。義理の妹候補があの感じは良い」
「別に俺は喋ってもいないし……。あの曲はなんて言うんですか?」
「積恋歌だ。初夏だとわりと定番。今は秋なのにな。背くらべの舞台用の曲」
「背くらべとはなんですか?」
背くらべも知らないのか。文学の勉強、読書をしろと言ったよなとシオンに怒られて反論したら読む文学がおかしい、それは単に男が楽しい話や仕事で使うような文学だと怒られた。
「なんでルロン物語も月夜のかご姫も紅葉草子も万年桜も背くらべも慈雨京雪華も恋衣草子も大興とりかえ物語も読んでいないんだ。一つくらい読め。この様子じゃあらすじや使えるところすら知らないだろう」
「……。なぜ指定してくれなかったんですか!」
「お前こそ文通でどんな内容を書いているんだ!」
ここから演奏者の質が徐々に上がっていくから真面目に曲を聞け、有名恋愛文学と関係のある曲もまたあるはずと言われて渋々起きていた。
でもすぐに耐えられなくなりまた爆睡。それでシオンにまた叩き起こされた。
「ミレイさんが演奏するから聴け」
「……兄上がお見合い中の方ですか⁈」
「運命的なことにメルさんと同じ教室だった」
世間ってそんなに狭いのか?
俺の家と朝日屋はそんなに遠くないし桃の節句のお祭りも地元のお祭りだったから出会ったのだろうけどこんな縁まであるなんて驚きだ。
(なんで俺を連れて来たんだ? って疑問だったけど自分の縁談のついでってこと)
ミレイが演奏したのは銀鏡乱華という美しい調べの曲だった。年齢というか稽古年数の差かとても美しい演奏。
また何の話の曲か分からなくてシオンに尋ねたら慈雨京雪華の火樹銀花という章の為に作られた曲らしい。
雪の華という名称の作品なのに火って何かと聞いたら本を読めと言われて終了。
そもそも火樹銀花とはどういう意味か問いかけたらもっと勉強しろと呆れられた。
私立高等学校まで通ったシオンと俺を比べるな! と怒りたかったけどそれを言うと教育方針を決めたりお金を管理している親でもないのに気にしそうなので沈黙。
俺はちょこちょこ口を滑らせるので余計なことを言わないように気をつけている。
(ミレイさんは美人だけどキツそうだから俺はメルさんくらいの少し地味な顔だけど癒し系の……もうメルさんは無視って思ったのに何を考えてるんだ!)
高望みを確保する為の縁談練習をさせられているからメルは野心のない俺の単なる釣り餌。メルを放り投げたら自由になれる可能性あり。
疲れる日々だから放り投げようとしていたのになぜまた再会してしまったのだろう。
(サラって弾けるのも凄いけどあの一生懸命さは……)
シオンがミレイについてデレデレ喋り始めた。高嶺の花に正体がバレて袖振りされないか心配である。鼻の下が伸びているぞバカ兄貴。
後半になると連奏、合奏になり心地良いなとか好きだと感じる曲を発見。それから正楽譜の積恋歌も聴けて、へぇ、とわりと感動。気に入ったけどやはりなんだか切ない曲だと思った。
最後に合同演奏が行われて再度メルを発見。端の後ろの方にいるのにすぐに見つけられた。
そこですよ、と誰かに教えられているように光苔の灯りが彼女を照らしている。灯りの真下の方が輝いているはずなのに変な話だ。
発表会が終わると俺はシオンとミレイに会うことになった。
ミレイとミレイの母親と挨拶をしてそこからシオンが照れ笑いをしながら俺への口調とは違う丁寧な言葉遣いでミレイと雑談を開始。
(こんな猫被りで結婚生活は上手くいくのか? いや、その前に結納生活か。いや、その前に結納出来るかか。舞台を見上げていた時はキツめの美人と思ったけど柔らかい雰囲気……)
ミレイの後ろにメルを見つけたというか俺の視界に彼女が飛び込んできた。
似た顔立ちの女性——おそらく姉——と両親らしき男女と共に、若夫婦らしき男女と老夫婦が一緒。それで若夫婦は腕に赤ん坊を抱いている。この赤ん坊をメルが受け取って抱きしめた。
姉らしき女性と顔を見合わせたり赤ん坊を見たりしながらかわゆい微笑み。
(転んだ子どもにも優しかったから子ども好き? 別に子どもが好きだろうが嫌いだろうが……。かわゆい……)
シオンにかわゆいではなくて可愛らしいと使えと言われたな。南地区訛りを消すとよりモテるぞ、と指摘されたけど父も使うし友人達もそうだから直らない。直す気がないの方かも。
「シエルさん、行きますよ。すみません。弟は人見知り気味でして」
ははは、と歯を見せて笑う営業用笑顔のシオンが俺の背中に手を添えて背中をつねった。
(痛い、痛い! 猫被りで結納しても袖振りされるからな! この野郎!)
話をろくに聞いていなかったけどおぼろげにこの後シオンとミレイと彼女の母親と四人で甘味処というのは把握している。
会場を出て四人でお店へ向かう間、なぜか俺とミレイが横並び。これはシオンとミレイの付き添い付きのお出掛けなのにどういうことだ。
(しかもなぜ見張りの母親がかなり前を歩いてるんだ! おかしいだろ!)
俺はミレイに天気の話をされた。そろそろ冬が訪れるので少し冷えますね、である。
「はい」
家族以外の女性と最後に喋ったのはいつだ?
小等校は男女共学だけど校舎は別で俺は女の子と遊ぶような友人達とつるんでいなかった。
それで遊ぶ時は外で遊ぶか我が家。しかも俺は料理人修行にわりと夢中。そこから中等校へ上がったら男しかいない世界。それでますます料理人修行に夢中である。
なので俺の生活に喋るような女性は全然いない。
「お顔立ちは似ていますけどシオンさんとはまた雰囲気が異なりますね」
「お調子者のバカ兄上ですので……」
うげっ。しまった。気をつけていて最近かなり減った口滑りが出た。
昔から色々世話をしてくれる優しい兄が結納前に袖振りは……また引きこもるのか? あれは見たくない。
「まあ、シオンさんはお調子者さんなのですか?」
「えっ。ええっ。はい。いえ! 違います! あのようでし!」
でしってなんだ。噛んだ!
慌ててシオンを手で示して首を大きく横に振った。
「今日は私のことを何か言っていましたか? その、演奏ですとか」
「……」
言いまくりのデレデレだったけど、どれをどう伝えるのが正解なのか不明。サッパリ分からない。
(助けて兄上。事前に打ち合わせしろよ! 兄上の縁談を俺がぶち壊すとか嫌だから先に言えよ!)
俺に微笑みかけていたミレイは前を見据えてシオンの背中へ憂いのような眼差しを向けた。
「か、髪……」
「鏡ですね。少々お待ち下さい」
「ちが、違います! 髪。髪です。髪型です」
手提げから鏡を出すような仕草をしたミレイはその手を止めて俺の顔を軽く覗き込んだ。
シオンの背は高くて俺もそのうち追いつきそうだけどまだ女性のミレイの方が背が高い。
「はい。髪型でしたか」
「横流しもええけど、一つ結びもええけど、なんでもだけど、今日はとく、特別、かわ、かわゆいと言っていました……」
なぜ俺がこんな恥ずかしい話をしないとならない。世話焼き兄のためだとギュッと拳を握る。
「可愛らしいでした。あ、兄が使う言葉はそっちです」
俺と目が合ったミレイはみるみる頬を染めて前を向いて片手を顔の前で揺らした。うちわで扇ぐように。
「それは……。張り切りましたので良かったです……」
女性ってとんでもなくかわゆい生き物!
(うわぁ。うわぁ……。知らない生き物。同じ人間?)
肌はもちもちスベスベしてそうだし唇はぷるぷるでまつ毛は長い。
(メルさんはどうだっけ? 同じような感じだったな。顔立ちはまるで違うけど男とは造りが違う。違うのは知っていたけど今の顔は……)
あのメルは俺と顔を合わせて笑ってくれるのだろうか。笑わせるには喋らないとならない。
それで今みたいに褒めないと今のとんでもなくかわゆい笑みは現れないだろう。
(兄上が言う練習ってきっとそのため)
俺は今メルの前に立ってもまともに喋れない。不恰好だしつまらない男と思われて優しそうなメルに気を遣われて解散して二度と会いたくないと言われそう。
楽しくなかった、疲れただけってそう言われる……。
(痛い。胸が痛い。そうなったら辛い。メルさんなんて別にもうええって思っていたのに……)
「あ、あの。自分は兄と違ってあれこれ勉強不足で慈雨京雪華という文学があると今日知りました」
「そうなのですね。シオンさんとは少し語りました。今日の演奏会に来てくださるといってくれた時に」
「雪の華が見えるようだと言うていました。銀花だと。自分も作品に興味が湧きました。ありがとうございます」
「銀花が……。はい。ありがとうございます。せっかくなので心地良いとか聴いて良かったと言われなくて張り切って練習しました。良いことを聞けました。ありがとうございます」
なんの御礼?
またかわゆい笑顔!
「その、兄が何かしましたか? 先程少し悲しそうというか気になるとか困るような顔でした」
緊張しているけど意外に喋れるな。彼女もシオンに照れた様子だからか?
「えっ。いえ。その。いつも私にそんなに興味が無さそうな気がしていまして。今も母と一緒です。でもその考えは先程までです……」
「興味がないってデレデレ褒めまくりで格好悪かったのに急に格好つけ……」
げっ。また口滑り! ダメだ。こんなに緊張していると変になる。
「……それは良いことを聞きました。その。コホン。その辺りの話を知りたいです。お調子者のこともです。たまに楽しい愉快なところを垣間見て、私はその……です」
へえ。格好つけの猫被りではなくて隠しきれない素の方が気になるのか。変わった女性だな。
美人に生まれた分なにか不足しているのだろう。確か四女とはいえ華族のお嬢様だからそうでないと世の中不公平だ。
「昔、不注意で犬の尻尾を踏んでしまって噛まれてから兄上は犬嫌いです。犬と会わせたら少し格好つけが減る気がします」
「まあ、シオンさんは犬嫌いなのですか」
「はい。上の兄上も幼い頃に追いかけられて嫌だと。自分は好んでいるので犬を飼えないから不満です」
「シオンさんは猫も好まれないですか?」
「猫は知りません。噛まれた話は知らないので……。いや、触っていました。自分が小さい頃にシエル、お前も来いよって。猫は伸びるぞって。こう、持ち上げてくれました」
「父が猫の毛でくしゃみが沢山出るので家を出たら猫を飼いたいという気持ちが少しあります」
「ええ気がします。猫はネズミを取ってくれます。犬と同じく猫もかわゆいです」
わりと慣れてきた。俺はそんなに人見知りしない。これならきっとメルとも……。
(だから別にもうええっていうメルさんが何でまた出てくる⁉︎)
慣れてきたのでそれとなく兄は世話焼きの弟想いだぞ、みたいな話題を提供していたら甘味処へ到着。
お店ではミレイと兄が二人で着席して離れた席に俺とミレイの母親になった。付き添い付きのお出掛けってこうなるのか。
(これは気まずい)
と、思ったのにそうでもなかった。ミレイの母親は会話上手で毒にも薬にもならない話題を振ってくれて微笑んでいるから結構気楽。
料理人修行の話題や料理の話を振ってくれたからこれは話しやすい。
「メルさんは何にしますか?」
「お姉さん。何にしますかって指差ししておねだりしているではないですか」
「えへへ。メルさん。半分こしましょう」
「半分なら私が一つ決めるのですよ。二つは決めさせませーん」
背中に声がぶっかって俺は食べようとしていた味噌雑煮の餅を口に運んでいる途中で停止。
(メル?)
少々失礼します、とミレイの母親に告げて厠へ行く振り。店を出てすぐ隣だったと思ったのでそのまま背後の席の横を通り過ぎた。
(同じ店ってそんなことあるのかよ!)
メルがいた。家族四人で着席していた。少し口を大きめに開けて楽しそうに笑っていた。
(決めさせませーんって……無邪気でかわゆいな。あんな妹がいるんだから二つ選ばせろよ姉)
別に厠へ行きたかった訳ではないので少し時間を潰して席へ戻った。
ミレイの母親がしてくれる会話に相槌を打っているけど俺の耳は後ろを向いている。
あれだけ練習したけど今日の演奏は失敗したとか、稽古で出来なかったところは上手く弾けたけど代わりに間違えたことのないところを間違えたという話題だ。
「こんなに、こんなにそばにいたいのに〜」
メルが歌った! 積恋歌の旋律だ。小さな歌声で途中から鼻歌に変化。
「さらって、という気持ちで弾きましたけどお姉さん、どうでした?」
「難易度を下げているのにさらに失敗なのでそれどころではなくてハラハラしていました」
「えー。残念です」
さらって? 背くらべはさらう話なのか?
「私は音楽にすらなりません。ドンチャン琴って言われていました。あはは。二度と弾きたくない」
「お母さん。私が学校を卒業したらお姉さんと手習を交代ですよね?」
「その通りです。ニライさん。自主練習する約束ですよ」
「はーい」
「はいは短く」
「はいはい」
「ニライさん。メルさんを見習いなさい。手本になって欲しい側なのに全く。草餅を没収しますよ」
「はい!」
「お父さんがニライさんを甘やかすからです」
「いや俺は叱っているぞ」
変な姉疑惑。メルのふふっという笑い声が聞こえた。声しか聞こえないから是非顔が見たい。
(違う違う。面倒くさい事をさせられるからメルさんは無視。若い女性はかわゆい生き物だから今練習で文通している相手もきっと……)
落下音とメルの「熱っ」という小さな悲鳴がして俺は思わず振り返った。
「申し訳ございません!」
「火傷はないですか⁈」
店員がお茶をこぼしたっぽい。しかもメルの方へ。彼女は右手を軽く振っている。それで店員が慌てた様子で謝って冷やす水を持ってきますと俺の横を通り過ぎて行った。
(真っ先に店員に火傷はないですかって……)
メルの手を隣にいる母親が確認している。この後のことはあまり覚えていない。
紅葉街道を散策してシオンとミレイが川へ行って楽しそうに喋るのを遠くから眺めて一人でぼんやり。それは記憶にある。
ミレイの母親は俺よりもさらに二人から遠い位置で監視出来るか出来ないかくらいの場所にいた。
帰り道にシオンが鼻歌混じりで変な歩きをしながら俺の肩をバシバシ叩いていた記憶もある。
しかしそれよりも俺の頭の中はメルの笑顔と声とあの「火傷はないですか⁈」という台詞でいっぱい。
気がついたら家にいて自室の畳に突っ伏していた。
(メルさんはもう別にとか無視……)
無視とか無理そう。
俺は冬の始めに十五才になる。年明けから専門高等校生になる予定。学費補助は無理そうだけど両親は特に気にしていない。
(格上達に並べられたら負ける……。今日の会話……。さらってってなんの話だ。難易度を下げているなんて分からなかった。背くらべの名前すら知らなかったから会話にならない……)
目に焼き付いているので妄想メルを目の前に立たせてみる。体を起こして正座して「可愛らしい髪型です」と言う練習。
「か、かわ……無理。そんな恥ずかしい事を言えるか! 心臓が止まる!」
とりあえず机に向かって筆記帳にシオンに言われた文学作品を思い出しながら記入してみた。あまり覚えていない。
恥ずかしいけど頼るしかない、とシオンの部屋へ移動。シオンは枕を抱きしめて布団の上でゴロゴロしていた。なんだこいつ。
「おー。シエル。おー! お前は兄想いだな! いやあ。多分結納してもらえる。なにせ紅葉の川浮かべで……」
枕を放り投げて立ち上がって俺の髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら笑っていたシオンは途中で停止。
「お前、どうせ紅葉の川浮かべも知らないだろう」
「はい」
「ちはやぶるは知っているか?」
「バカにしないで下さい。秋の景色を詠んだ超有名古典龍歌です。盛り付けにも使えます」
「シオン、あれは景色かつ恋龍歌だぞ」
「えっ? いやあの、その、勉強をしようと思って読むべき本を再確認に来ました……」
俺の語尾は小さくなっていった。景色の歌が恋龍歌ってどういうことだ。意味不明。
「いたんです。後ろの席にメルさんがいて……」
別にもうどうでも良いくらいに思っていたのに演奏やその後でやはり気になってしまって助けて欲しい。自分にはこれが足りないとつっかえながら口にした。
「よし。父上に相談しよう」
ソイス家の調査は進んでいるし桃の節句からこの秋までの俺の努力も示せている。
来年は兄達の教科書で勉強して再来年専門高等校に入学して一年間学生。
その前、来年元服年に料理人見習いから新米料理人と認められるように励みなさい。
父は俺にそう告げた。シオンは相談しようと言ったけどとっくに筒抜けだったようだ。
(年末に試験を受けろって言っていたのに来年末に受けろってなんなんだ)
文通お申し込みは家を通す。父親同士で商談する仲なので年明けに頼んで我が家と俺を軽く調査してもらって申し込んで良ければ申し込む。
そこらでどうぞ、の文通お申し込みの大半は上手くいかないらしい。とんとん拍子の人もいるらしいけど我が家とソイス家の関係だと家同士が良いと言われた。特に母対策。
「失敗でも努力は無駄にならない。他の女性と文通で気持ちが逸れると思ったのに偶然同じお店にいてしかも隣の席とは縁があるのか愉快だな。あれこれ励みなさい」
「父上も兄上もありがとうございます」
「しかし恋事音痴というか世間知らずというかこの年でどういうことだ」
「さあ? 父上、シエルは興味が無いと無視する性格だから友人達の話題も興味が無いと右から左なのでしょう」
「俺もそう思う。興味の無い事も全て興味のある事に繋がっている。何度か叱ったがこれで身に染みただろう」
「はい。あれこれ興味を持つようにして励みます」
約一年間メルと文通をしている間に母の野心を削ぎ落とす。格下だけど掘り出し物で良さそう。まずは保険を見つけたという話にするそうだ。
母が推す女性の方が気になってメルに興味を失ってもそれはそれで構わない。我が家はソイス家やメルを絶対に欲しい訳でもないからだ。
逆に俺の気持ちが前向きでメルもそうなるようなら、二人が上手く行きそうなら家業をくっつけていく。
文通の様子が良さそうなら簡易お見合いになるのでその頃に同じ学生だと良いだろう。
俺が通う予定の専門高等校だと平家、商家、豪家、華族と混じっているし年齢層も幅広い。
出掛けるのに学校の友人達から流行りを聞いたり友人達の姉姉妹の話などで色々な価値観を尋ねられる。
来年学生でも良いのに再来年学生ってそういうこと。
年末の試験に受かって我が家が所属する組合の学費補助も少し獲得して年明け二月に文通お申し込みをして良い事になった。
一方的に出会ったのが桃の節句なので三月と思ったのに二月末には父にもう手紙を渡していた。
メルからの返事が桃の節句の日に俺の手元に届いた。最初の手紙はあれこれ工夫しても中身はお願いしますという内容でしかないので、返事も同じくお願いしますだけの予定。
それは知っていてこの文通お申し込みは親同士で根回し済みだから断られないのは既定路線なのに全身汗だくみたいな状態で手紙を開いた。
手紙はなんだか綺麗な紙で梅の香り。必死に頭を使って無理で長男兄に頼って年が明けましたねという龍歌を作った俺に、彼女は梅の文字の入っている龍歌を返してくれた。
誰かに尋ねないと意味がイマイチ分からないという不甲斐なさ。
(梅のハンコに絵……)
たまご型のお雛様にぼんぼりが二つ。三つで縁起数字って事か?
(お内裏様はいないのはなんでだ? 二人で一組だよな)
何にせよこの手紙は大事に大事にしまっておく。それで本番の最初の手紙について悩まないと。二通目からが本番なのでずっと悩み中。
俺と彼女の家の状況だと最初は当たり障りのない内容で教養があると伝えるものらしいけどそれで既に難しい。
シアドとシオンのどちらに相談するか悩んで龍歌ならシアドだな、と時間を見つけてシアドに尋ねたら梅の龍歌は梅が綺麗で香りも良いですね、みたいな意味だった。
紙は旧煌紙といらしい。旧煌紙が何か分からなくて知らないと告げたらシアドに怒られてまた覚える事が増えてしまった。
「なぜお内裏様がいないってお前とまだ何もないからだろう。上手くいくと来年、再来年などにお雛様とお内裏様で並べてくれると思う」
「へえ。そういう意味だったんですか」
「単なる推測だから彼女に尋ねても良いけどこれをいきなり質問は野暮だから実際に会って雰囲気が良くなった頃に上手く言うと良いと思う」
いつか用の話題提供や前向きさを表現したお世辞みたいなものと教わった。
なんだかなぞなぞみたい。おまけにすぐ聞くななんて難しい。
分からないから聞いたのに、た口にしたら自分で考えて自分なりの答えを出してから質問しろとか商家の息子なんだからあれこれ考えろとお説教開始。
シオンにしないでシアドを頼ったらこうなるな、と思っていたのにシアドにした俺は失敗野郎だと思った。シアドもシオンと同じく世話焼きでありがたいけど説教は疲れる。
シアドにお前も縁談の年になったんだな、最初は練習や思い出で終わる事が多いから気楽になと頭を軽く撫でられた。
これは嬉しかったし優しい笑顔や落ち着いた雰囲気を改めて格好良いと思った。
桜が満開になった頃に俺とメルは顔合わせになぅた。
母が励み出した俺を格上お嬢さんと縁結びとウキウキしているからメルとの顔合わせは同じ日に別々の席で陽舞伎観劇。演目は万年桜。
予習して話の内容を気に入ったけど俺はずっとソワソワしながら少し遠いメルの様子を確認して観劇よりも彼女の豊かな表情鑑賞。
俺は去年よりも背が伸びたし昔から容姿をちょこちょこ褒められる。
でも彼のような見た目の方はとても無理です、と言われたりしないかかなり不安だった。格上の家相手にそんな事を言えないのは分かっているけどすこぶる不安。
後日、父が俺に「メルさんは嬉しそうな気がすると言われた」と告げたので有頂天。俺はその日階段から落ちて捻挫した。




