誘う
緊急事態!
まだ五月の半ばなのに朝からかなり暑いからかルロンが上半身裸。いきなり着物をはだけた。しかも道を挟んでだけど私の真横の位置。
(ハ、ハレンチ!)
顔や手が軽く日焼けしているのと同じく体も日焼けしているという事は普段から日に晒しているという事である。
着物の上からだと分からなかったけど筋肉が凄い。腕が太いし筋があるしチラッと見えたけど腹筋も割れまくり。
ハレンチ! と思いながら目が逸らさない。夏場の飛脚が心臓に悪いから勢いよく顔を背けるのにこれは逆でドキドキして目が離せない。
ルロンは友人らしき隣を歩く男性にスパンッと音が聞こえそうな速さと強さで頭を叩かれた。
(ルロンさんが殴られた!)
彼はモテ男疑惑なので私は勝手に名前をつけた。ルロン物語の主人公ルロン。心の中で彼のことをそう呼んでいる。
(着物を着た。皆してこっちを見た!)
目が合った気がしてドキッとする。自意識過剰なだけだ。やはり気のせいのようで彼は友人に体当たりをして困り笑いをした後に髪を掻いた。
気合いを入れて佃煮屋の従業員に彼にお礼を言いたくて、と尋ねたら息子ではなくて助けられたから荷物を預かっていると教わった。
既にもうダメになっているけど名前を知ったら終わりな気がしてルロンの本名は聞いていない。
私は直してもらった下駄を少し繕って「これはお洒落」と言い張ってそのままにしているし彼の手拭いも大事に取ってある。
手拭いがあればもう一度話しかけられる。その時に下駄を見て私を思い出してもらえるかもしれない。
「メルさんっていつも兵官学生さん達を見てませんか?」
「ふうあえっ⁈ ふぁい! つい珍しくて」
「先程の見ました? 私達を見て慌てて隠しましたけど筋肉隆々で格好良かったですね。兵官学生さん達って着物の下は皆さんあのようなのでしょうか。メルさんは華奢な方が好みですか?」
「ひ、ひゃあ! はし、はしたないです。朝からそのように」
「夕暮れからなら良いのですか?」
「ま、まあ。そのうち見るというか触るというか触られるというか……。男女はそうらしいので……」
「あはは。メルさんかわゆい。私はあの背の高い凛々しい色男さんが脱いでくれたら嬉しいです」
「えっ。あの、先程の方も格好良いです。同じく眉毛が凛々しいですよ」
「あら。メルさんはあのような……何? 特徴が無いというかあまり顔を覚えていません」
失礼!
しかしケイが彼を恋慕ったら困る。私とは違ってしがらみがない。ケイは積極的なので彼に突撃して恋仲になったら落ち込むのでこれで良し。ルロンを見つけないで欲しい。
私の恋敵——どうせ他にもいそう——は見たのかな、とルロンを見染めていそうな女学生を探したけど今日も彼女達の集団は見当たらない。
私みたいにいつも同じ人がいる、と発見したり発見されたりしないように定期的に通学路を変える団体もある。
私達の町内会はゆるゆる。なにせケイみたいにあまりしがらみのない家が多めなので見張りは身の安全の為が主な理由。
それでいて両親も私に特に見張りをつけない。多分私がずっとずっと良い子だから。
(でも私は悪い子になりたい。彼と話をしたい。片想いで見ているだけはそろそろ無理そう。片想いでも袖にされるのでも構わないけど。いや辛いらしいから……。せめてもう一回私を見て笑いかけて欲しい……)
嘘。とても嘘。横を並んで歩いてお喋りをして茶屋でお団子を食べたい。
どれにしましょうか。季節物が気になりますね、とか言い合いたい。
彼はド貧乏らしいので私がお小遣いから出す。一緒に食べたいからお願いと頼む。
桜の花見は出来なかったけれど他の花が咲いているから一緒に眺めたい。
(もうすぐ紫陽花……。雨の日なら傘で隠れられる! そもそもこの辺りや町内会辺りでなければ見られない?)
紫陽花、紫陽花、紫陽花、紫陽花、紫陽花……一緒に見たいなぁと考えていたら下校中にまたしてもケイに同じ言い訳をしてルロンを待ち伏せしていた。
(ち、ちょく、直接話しかけて紫陽花を見たいですって誘うの⁈ はしたない! でも誘われないから誘わないと一緒に紫陽花を見られないしお話出来ない!)
隣の教室のシイラは下街恋人がいてもうキスしまくりらしい。しかも恋人は二人目。一人目も下街男性というハレンチぶり。ナナがそういう噂を仕入れたきた。
(子どもが出来なければ良いのよってそんな話ある? あるから噂話を耳にした訳だけど)
ふと思う。なんで結婚していない男女に子どもが出来るの。結婚前は子どもなんて出来ないから問題ないな。
(私は結納どころか半結納もしていないからそこまでは許される。遊びって言う。家の為の結婚はしないと言わなければ問題ない……)
ルロンと命名した通り遊び回っているなら素敵な人ではない、と自分に言い聞かせる為にルロンな訳だけど想像すると胸が痛い。
考えたくないのに私は二日に一度の頻度で寝る前に彼が空から降ってきた美人を横抱きにして素敵な優しい笑顔でキスとか、帯を持って転ばないように助けたあのかわゆい女学生に向かって素敵な優しい笑顔でキスという妄想が勝手に脳裏に過ぎってしまって部屋の畳の上や布団の上でゴロゴロして呻いたりしている。
(そもそも相手にされていない。好みなら顔を覚えてくれて登校中の私に気がついてチラチラ見られるとか何かある。何もない……)
紫陽花。思い出に紫陽花を一緒に見て欲しい。よくある話で家の為に好きでもない人と結婚しないといけないのでせめて紫陽花を一緒に見たい。そう頼もう。
(優しいからそのくらい付き合ってくれるかもしれない……)
私は少々潔癖気味なので浮気とか不倫や遊び回る男性は好まない。
自分もそうなるのはなんだか嫌。なので結婚したらその人を大事にしたい。
今は縁談前なので誰に対しても不誠実ではない。
突撃してルロンにヘラヘラ遊ばれるような感じになったら私はきっとルロンを嫌いになる。
嫌いになる方が私の人生の為になる。彼に話しかけたいからそういう言い訳ばかり探している。
(……手紙の方が良いよね。でも彼の立場からすると私に返事を渡す隙がない。登校中は絶対にダメでそのくらいしか彼と会う時間は……あっ。佃煮屋さん!)
言い訳を考えて佃煮屋を通して文通という手があった。
(誰? ってなるか。かわゆいって言ってくれたから直接の方が気にかけてくれるかな……)
ぐるぐる考えていたらルロン登場。校門を過ぎてこちらへ向かってくる。一緒にいる友人が前よりも二人増えたみたい。
コソコソ後ろをついていってルロンがいつも朝一人で歩いている所まできた。この間に友人達はどんどん別れたので他には誰もいない。
ルロンは早歩きなので小走りでないと人混みに紛れてしまう。佃煮屋で捕まえられる疑惑はある。
「あ、あの! 藍色の着物の……っ!」
完全に呼び終わっていないのにルロンが振り返った!
つい手を伸ばしていたから着物に触れてしまった!
「あっ……。す、すみ、すみません」
手を引っ込めて胸の前で両手を握りしめる。
(見た。私を見た。見てくれた)
彼は何回か瞬きをした。それから周りを見渡して首を傾げた。
「呼ばれた気がして気配もしたと思ったんですけどまさかお嬢さんですか? あっ。俺、何か落としました? いやしっかり持ってるな。手拭い……あるな」
私を見ないで持ち物確認って、この反応はあまりにも予想外で言葉が行方不明。
「草鞋も履いている。紐だしな。なんだ。かわゆいお嬢さんにどうぞって言われないのか。俺の願望か。つまらん」
ルロンは持ち物の確認をした後に足を待ち上げて草鞋も確認。
またかわゆいって言われた!
が、願望? つまらんって何⁈
「ああっ! まさか俺に何かお礼ですか? 前にそういう事を言われたんですよ。かわゆいお嬢さんがありがとうございますって。あれは得しました」
……。もしかして私がかわゆいのではなくてお嬢さんは全員かわゆいってこと?
「誰に感謝されても嬉しいけど慎ましいかわゆいお嬢さんだと三倍気分がええです。なので違うと思うけどそういう事にします。得をありがとうございます」
照れ笑いを浮かべると彼は私に背中を向けて鼻歌混じりで歩き出した。
(多分それは私の事。いやあのかわゆい女学生かも。全く覚えられていない!)
ペラペラよく喋るな。
かわゆい、は私ではなくてお嬢さん全体に掛かっている気がする。そうか。私が褒められた訳ではないのか。浮かれ損ってこと。
「あの、お待ち下さい! あの!」
掠れ声が出た。心臓が口から飛び出してしまいそう。駆け寄ったのと彼が止まって振り向いたのでぶつかってしまった。
両肩に手を置かれた!
見上げたから目の前に顔がある!
「き、きゃあ!」
「おうわっ。つい。すみません。避けたら転びそうだし当たったら触ってもらえるって事だから不可抗力なら触っても許されるぞ、的な」
彼は私から手を離して両手を挙げたまま少し後退りした。
女性にむやみに触れてはいけないという考えの人?
それで触りたいんだ。不可抗力だから触ってしまえって私は触られた。離さないで良いのに彼の両手は私の肩からすぐに離れた。
「まさかですけど何か用ですか? 俺に? 何もしていないですよね⁈ 今の前は誰ともぶつかっていないので怪我させてもいないです。落とし物もしていないです。本当かな。してないよな」
彼は驚き顔をした後に私を上から下まで見て再度持ち物確認と草鞋の確認をした。
「あじゅさいを……」
また噛んだ!
嫌だ……。恥ずかしすぎる……。
彼の顔を見られなくて俯いて両手で袴を握りしめた。彼の黒い足袋を眺める。古くて色褪せていて毛羽立ち気味。かなり使われている足袋だ。
彼から返事はないけど不審者だ、と立ち去りはしないみたい。
「いえ、紫陽花を……」
「……アジサイ? アジの祭り! 美味い季節だから魚屋の呼び込みですか? 偽者お嬢さん売り子ってことか。本物お嬢さんに見えるから財布の紐が緩みそうで恐ろしい。腹は減っているけど金がないです。営業なら他の奴にどうぞ」
「ち、ちが、違います! 学生です!」
この人の発言は色々分からない。思っていた人と違うというか、こんな台詞は予想不可能だ。
「学生? 女学生さんなら本物のかわゆいお嬢さんです。この時間に本物お嬢さん……迷子ですか? どなたも来ないから迷子ですね。ん? 先月もいた気がするな」
それは私。やはり顔を覚えられていない。先月と似た発言なので彼の中ではお嬢さんが夕方近くに一人でいると迷子みたい。
「おれ、お礼を。お礼です。こちらの鼻緒の……」
「鼻緒のお礼? 結んでありますね。……ん? んー。なんかあったかも。あった。極力喋ったり見てはいけないかわゆいお嬢さんが迷子で鼻緒が切れて転んで俺は眼福至福の癒しみたいな事が前にありました」
「……」
「ああっ! 迷子のお嬢さん! あまり見ないようにしていたし今も顔があまり見えないから分かりませんけど同じ方ですか?」
顔を見合わせたし優しく笑いかけられたけど見ないようにしていたんだ。
今の私は俯いているから私よりも背の高い彼から顔が見えないのは分かる。
「は、はい。はい。洗った手拭いをお返ししたくて、いつも無理でして……」
チラッと顔を上げたら彼は私を見ないでそっぽを向いていた。それでしかめっ面をして首の後ろに左手を当てている。
「手拭いなんて気にしないで下さいと言うべきところですが俺はお嬢さんが洗ってくれた手拭いは嬉しい……洗うのは手伝い人か。お嬢さんは洗わないですね」
お嬢さん好きなのこの人。私が想像していたモテそうな下街男性と全然違う。
またチラッと顔を上げたら彼はまだそっぽを向いていて口元に左手を当てて眉毛はハの字。右足を少し地面にスリスリしている。
照れている。私に照れてくれている疑惑。なんだか少し冷静になれた。
「箱入りお嬢様達とは違いますので洗濯くらいします。特に借り物ですから」
「ほうほう。そうなんですか。俺からするとお嬢様とお嬢さんの区別はつきません。いや、箱入りお嬢様は箱入りだから見ることがないのか」
「……」
「つまり歩いているだけで尊い淑やかお嬢さん達はわりと普通というか洗濯くらいするんですね。洗ってくれたとは嬉しいお知らせです」
ペラペラ喋るから会話に入る隙がない。噂の下街男性とやはり違う。実際の下街男性から見たお嬢さんは尊くてかわゆくて淑やかで見たり触ってはいけない存在。
そうなの?
それなら遊ばれるって噂はどこからきたの?
下街恋人はハレンチとか隣の教室のシイラはキスしまくりって話はなに?
「迷子ではなくて、まち、待ち伏せ、待ち伏せです。お礼を言いたくて」
「えっ!」
「き、今日は手拭いは無いです。忘れました……」
「忘れたのに待ち伏せ? 待ち伏せ? 俺を? 俺? あー、まあ、たまにあるというかお嬢さんはないけどまあ。はい。でもお嬢さんだし俺……鼻緒か。おお。危ねぇ。それはそれ。これはこれだ。人としてお礼ですね」
……。たまに待ち伏せがあるってやはりモテる人なのかな。お嬢さんが彼に恋的な好意で待ち伏せした事は今までなかったみたい。私が初めて。彼の初めて。
そうなのか。あの女学生は身動きしていない事になる。
「いえ……。待ち伏せです」
「へっ?」
「あの。結婚させられるので……」
「ん?」
「今は自由で……」
「えっ?」
「今だけ自由で……。散歩して欲しいです……。紫陽花です。花の……。魚ではなくて花です。沢山咲いたら……。散歩を……」
「……散歩? 俺と散歩? 鼻緒のお礼に俺と散歩してくれるって事ですか? えー。えー⁈ ええー!」
頼んだのは私なのに彼へのお礼として受け取られた。訳が分からない人だな。話すのが楽しくなってきた。
「いえあの、お礼ではなくて……。なぜ散歩がお礼になるんですか⁈」
「むしろ喋ってくれているのがお礼の勢いです。少し関与したとか眺めて想像した感じでお嬢さんはかわゆい生き物だと思っていたけどとんでもなくかわゆい生き物ですね。そうかぁ。結婚前にお礼に散歩してくれる……ん?」
彼は鈍感っぽい。なのにたまに待ち伏せされている自覚があるならその女性はどれだけ積極的なの。今の私はとんでもなくはしたないのに。
(とんでもなくかわゆい生き物って何。私が褒められたのではなくてお嬢さん全体の話……。謎。下街男性って……。下街男性でなくても同年代の男性はこうって事⁈)
様々な文学にこのような男性は登場しないけどな。
「結婚前で自由だから俺と散歩したい? ん?」
「……」
チラッと顔を上げたら彼は荷物を持ちつつ腕を組んでしかめっ面。彼の耳がみるみる赤く染まっていった。
気がついた?
「み、見かけ、たまたま見かけたので佃煮屋さんに手紙を預けます! 自分がハ、ハレンチ過ぎて限界です!」
これはもう無理。私は一緒懸命逃亡した。