お見合い7
春に始まった私の初恋はもう一度春を迎えられなくて終わり。同じ春に始まったサリアの恋は永遠の恋物語。
イルは生きている恋人を作っても妻を娶ってもきっとサリアの事を心の恋人と呼ぶ。
他の女性はもう亡くなっている彼が指一本触れていない顔も声も知らない女性に対して、同じ土俵に並べられているのもあってそこまでではないだろうけど私はこの劣等感には耐えられない。
彼も私とサリアのことだけは明らかに比較しただろう。なにせ最近ずっと欲しかった言葉をサリアがくれた、だから。裏返すと私は言ってくれなかっただ。
「弟子のかなり大事な時期に非常識行為で近づいて拐かして悩ませて困らせた事を謝罪していただきたいですが弟子は色々学んで大きく成長しました。なので謝罪は結構です」
デオンに見据えられて私の体は少し震えた。やはりこの人は怖い。
「えっ。先生。謝るのは俺……だけでもないです。彼女もです。二人でこの場の全員に謝罪するべきです。まずはそうします」
「そうだ。謝るのは自分と口にしたら張り倒して破門するところだった。どう考えても彼女には非がある」
「大変、も……」
デオンに軽く睨まれて首を横に振られたので私の言葉は喉に引っかかった。ほぼ同時にイルが立ち上がって移動して私に目配せ。
動かないでいたら彼に「メルさん、こちらへ」と促された。
彼がデオンと両親の間に腰を下ろした。私も父に背中を撫でられて少し動けるようになったのでイルの隣へ移動。
「未熟者で彼女が勝手に会いにきた時点で彼女を家まで送ってご両親に報告するべきなのにしませんでした。元々はそこが問題の発端です。大変申し訳ございませんでした」
背中を竹のように伸ばしたイルが深々と頭を下げたので私も慌てて頭を下げた。
「ネビー。違うだろう。彼女は未成年だ。女学生だと分かる状況で手紙を送られただろう。素性を明かさないってことは親に秘密。この文通お申し込みはその時点で非常識だ。自分達の尻を拭ける成人同士ならともかく」
そんな人山程いるのにこんなに睨まれることなの?
でも受け止めないと私はまた何かの副神様に蹴られて嘲笑われる。
「文通お申し込みではないです。助けたお礼と結婚前に思い出に散歩したいというお願いの手紙だったので返事をしました。俺が返事をしたことや内容は非常識だとは思いません」
頭を上げるとイルは毅然とした口調でそう告げた。私も頭を上げた。両親はすまなそうな表情だけどデオンの顔は相変わらず怖い。
「お前はそう思うんだな」
「はい。結婚話があるのに待ち伏せをして男をたぶらかしたり、手紙を送って散歩をしたいと書いた彼女は非常識です。親の許可もなくですから。かわゆいから危険です」
「弟子の言う通り私もその通りだと思います」
二人揃って辛辣。両親と共に謝る予定がこうなるとは。
「お礼の文言と素性を教えて下さい。それなら常識的だったと思います。預け先もお店で見張りのある下校中でした。待ち伏せはせめて複数人です。難しくても夕暮れ時にどこかに身を潜めては危ないです。信じていただけるか分かりませんが見回り兵官に預けました」
連続殺人鬼は捕まって死罪と聞いたけどそのように恐ろしい者の被害に遭っていたかもしれない。
待ち伏せの件は何回かイルに怒られたな。もうしないようにって。
物陰で男子学生を待って事件にあった、なんて話は実際にあるそうだ。転んで痛かったと暴漢されて命は助かったでは大違い。
「ですからメルさん、君は俺と一緒に頭を下げるのではなくて今のことを言って謝るべきだと俺はそう思います。許可を求めたのに勝手に会いに来た事もです。紫陽花は別々に見よう。そういう返事をしたのに無視しました。縁談相手の保険が本命話に変化していたのに隠して騙した事もです」
無表情気味のイルに見据えられて唇を動かしたら首を横に振られた。謝るべきだと言われたのに謝らない方が良いの?
それから少し沈黙。誰も話さない。するとイルが声を発した。
「大変失礼ですが彼女は先生が口にした通り未成年です。このように育てたご両親が彼女と共に俺と先生に謝罪するべきだと思います」
デオンとイルの様子を見ていた両親が気まずそうな表情を浮かべた。首を横に振ったのはそういうこと。デオンはイルをジッと見据えている。
「結果として理性を失って共犯者になった自分に対して謝罪は要りませんがデオン先生にです。彼女と一緒にお願いします。未熟過ぎた自分が言うのはおこがましいですが娘さんを再度教育するべきです。自分は隣室で聞かれていたように先生が根性を叩き直してくれるので直します」
「是非お願いします。私はかなり腹を立てています。親が親だから子もなのでしょう。と言いたいところですが時間が無いし商売人は腹の中で皮算用ですので謝罪など要りません。二人とも元の席へ戻りなさい」
この師匠に育てられてきたからイルは真っ直ぐ竹のようなんだな。
「いえ、先生。自分の謝罪はまだあります」
「そうか」
「彼女は未成年で注意して間違いを正すのは成人の自分の方です。たとえ赤の他人でも俺は五人の妹の兄なので親心を少しは理解しています。しかし勝手に会いにきた彼女を口車に乗せてそこからズルズルしました」
イルは自分に厳しいな。口車に乗せたって距離を保って友人でいましょう、なのに謝るんだ。
「結果、自分の尻も拭けない未熟者なのに理性に負けて先生を頼ることになりました。このようにこの剣術道場の看板にも先生の顔にも泥を塗りました。デオン先生、大変申し訳ございません」
イルは再度深く頭を下げた。これはもう土下座だと思う。デオンが何も言わなからかイルは頭を上げない。
「話した通り私には君をそこまで追い詰めた責任があるから頭を上げなさい。それで君は距離を保って友人の範囲でとどめた。彼女のご両親から線引きや娘さんへの叱責などについて感謝された。自ら過ちを訂正しようと動いて先日も似たようなことを私が叱責する前に謝罪した。だから許す」
「はい。すみません。ありがとうございます。同じ過ちは繰り返しません。ご迷惑をおかけしますが今後もご指導ご鞭撻をよろしくお願い致します」
「次はないからな」
「はい! 破門されたくないので励みます!」
イルはデオンから両親の方へ体の向きを変えた。
「そのように自分がお二人の大事な娘さんを導くべきでした。なのに友人と言い訳して密会。事情を聞かずに現実逃避やそのうち自分にええ状況になるかもしれないと身勝手でした。大変申し訳ございません」
下げた。私が悪いのにイルは私の為に頭を下げてくれた。
彼は一般的な男性よりも律したし何もされていないししっかり線引きしてくれた。
我が家のこともシエルの事も慮ってくれて世間知らずの私に知識を教えてくれたり世間は怖いと叱ってもくれた。
なのにこんなに自分に厳しくいないといけないの?
彼と比較したら私はあまりにも自分に甘過ぎる。こんなのとても息がしにくい。苦しくてならない。
(今の彼に必要なのは内助の功。彼を支えられる人。先回りして察して彼の気持ちを楽にしてくれる人。私は本当に真逆……)
まもなく十六歳元服を迎える私と春に十七歳になったという彼なのに溝が広くて深い気がしてならない。
(とても厳しい師匠。六人兄妹で長男。親に色々隠されているから彼は家を背負っていると思っている。背負いたいと励んでいる)
父の病に同情してくれてイルが私を少し特別だと認識したからデオンは私の今後のために強めに叱責してくれた。
私はこれから世間に揉まれる。両親とおじと共にだったけど母とおじだけになるのは早いかもしれないからありがたい。
だけどあれは厳しいみたいな会話を両親としたけどあれでも温いのかもしれない。
(それで半見習いとして働いていて火消し半見習いの経験もあって学生……。嫌がらせ……。しょうもないって笑って喧嘩ではなくて証明するって……。今さらだけど私と彼では人生経験が違い過ぎる……)
デオンは貧乏の原因はイルだと暴露して彼を凹まして更に成長させる予定。
人生で初めて見つけた恋人にしたいと思えた女性を亡くして傷心のところにこのような場。厳し過ぎる。
隣に座っているのにイルが遠い場所にいる手の届かない存在に思えてきた。
変なところや本人の言うようにバカなところもあるしデオン曰くお調子者らしいしずっと私と彼の目線は同じか少し高いくらいの気持ちだったのに遠い。
「密会男は不審者です。友人の範囲だったとあまり証明出来ません。証拠は彼女の証言と手紙に飼い犬の懐き具合。その辺りです」
「いえ、あの……」
両親もイルの態度や謝罪に戸惑っている。
「信用のない不審者で気分が悪いと思いますので謝ります。大変申し訳ございませんでした」
「しっかり育てたつもりでしたが弟子はまだまだ未熟者でした。最初に娘さんを家へ送ってご両親に報告しなくて大変申し訳ございません」
「話し合いくらいしても良い相手という信頼をありがとうございます」
「一蹴せずにそちらからこのように出向いていただき感謝します。弟子の証言を信用していただきありがとうございます」
下げた。イルも頭を下げたけどデオンが両親に初めて頭を下げた。
気圧され気味の両親と私はずっと動けていないし何も言えていない。
密会やイルを悩ませて成績や稽古をガタガタにした原因を作った我が家はまだ全然謝っていないのに先に謝られてしまった。
「こちらこそ大事な時期に大変申し訳ございませんでした。娘の育て方を間違えました。甘やかしていると思っていませんでしたが甘やかして育てた証拠です」
「大変申し訳ございませんでした。それから娘の過ちを正してくださったり色々とありがとうございます」
父と母の謝罪に続いて私も頭を下げて掠れ声で謝った。すみませんでした。萎縮してしまってそれしか出てこなかった。
一人でどうにか大黒柱になろうなんて考えた私は世間を舐め過ぎだった。
「思慮が浅いと危険な目に合って困るのは本人です。大切な娘さんに何もなくて良かったですね」
頭を上げたデオンは父を見つめて笑った。優しい微笑みというよりも嘲り笑いみたいに感じる。
(お前ら、俺の弟子じゃなかったら娘がどうなっていただろうな。縁談もぶち壊されていたかもしれないぞ。そういう意味かな……。デオンさんって本当に怖い人……)
デオンは父にイルを叩いて欲しいと言ったけど父の様子からして無理そう。イルに対して他に何を怒れば良いのか私にはサッパリ。
なのにデオンは大説教をする。イルがそれを望んでいる。彼は今話した以外の自分の過ちが沢山あると認識しているということだ。
「話の合間に話し合いました。そちらは娘と縁切り希望でこちらもです。恋人ですらない少し特別な友人。お互い先を望みませんでしたしこの仲ならやがて忘れるでしょう」
私は奥歯を強く噛み締めた。忘れるわけがない。一生忘れない。
ゴネても泣いても嫌だと喚いても私のこれまでの人生やイルへの言動でデオンに却下される。そこを乗り越えないといけない。
食らいつこうと思っていたけどサリアに負けた。大敗北。
龍神王は龍の民に告げた。人は四つの欲によって生かされる。飲欲、色欲、財欲、名誉欲の4欲である。
生来持つ悪欲を善欲へ変えれば我や我の副神が味方しよう。
(縁結びの副神様に私はずっと味方されていない。最初を間違えて自分でそれを直そうとしなかった……)
人はそんなに正しくなれない。私は私なりに自分を律したのに悪い事だったの?
(いや違う。私を律してくれたのはいつもイルさんだ。紫陽花は別々に見よう、友人でいよう、離れて座ろう、誘ったのに手を離したのも、抜け出そうと言い出した私を叱ったのも……)
裏切りには反目。信頼すれば背中を預ける。
(大事な弟子のとても大切な時期に私は彼に迷惑をかけた。デオンさん視点だと反対は当たり前……)
希望絶望は一体也。救援破壊は一心也。求すれば壊し欲すれば喪失す。真の見返りは命へ還る。
還ってきた。私にはしっぺ返しが返ってきてしまった。イルとの未来はあったのにあれこれ自分でその芽を潰した。
「他に何かございますか?」
デオンの発言に父が「娘がこれまでの感謝と謝罪をしたいと申しています」という返事をした。
「あの、イルさん。単に敗北宣言です。サリアさんと戦う気力がないです」
イルは気まずそうな表情をした後に困り笑いを浮かべてくれた。
「すみません。あの髪飾りを贈ってしまいました。戦われても無理です。俺は君にずっと言われたかった言葉を彼女に贈られたから他の女性よりも君は無理です」
予想通りだけどハッキリ言うな。私だとより、はその通り。私と比較して彼女への気持ちが勝ったから初めての恋人の座を与えた。
死者に義理立てとか同情ではなくて単に強く慕った。
「ええ、そう言われると思いました。父はサリアさんと同じ病気だそうです。両親は最近で私は土曜日に知りました」
両親も話し合ってイルならきっと今の関係が終わっても私のその後を気にしてくれる。
嫌々言っていたシエルと結婚したのかとかその後は大丈夫なのかなど。
なので私達はこの話を伏せるのはやめる事にした。彼は私に同情してもそれで意志を変えたりしない。
聞きたくなかったと怒ったりもしないし傷ついてもそれも経験だと飲み込む性格。
私は彼と他人になるけど大切な人だったから隠してずっと他人でしたなんて突きつけたくない。
「ええっ⁈ おか、お体は大丈夫ですか⁈ 先生! 南上地区にある健康の副神様で一番有名な神社ってどこですか⁈ そもそも半見習い勤務後にサリアさんに買いに行くつもりで聞こうと思っていました! 桜で頭がいっぱいで御守りって考えがなくて!」
「後でにしなさい」
イルは土曜から今日まで寝たのかな。それで今夜もどこかへ走るつもりだった。南三区どころか南上地区ってもはや大旅行。
父は微笑んでゆっくりと首を縦に振った。
「ありがとうございます。もう御守りを持っているので同じ副神様の御守りは持てません。中途半端な年齢なので長生きして他の病や事故で亡くなる可能性もありますし、前兆が現れるとサリアさんのようにということも。今のところ前兆はなくて大した症状もありません」
「サリアさんの事を知って楽観視はやめることにしました。というよりも出来なくなった、の方です」
「それは、それはええことです。悪いことだけどええことです……。あー、結納を早めたのは……」
デオンは父を見た後に目を大きく見開いてデオンを見据えた。
「先生。あの質問……」
「娘想いのご両親なので私に君の事を尋ねにいらっしゃった。君が前のめりなら釣りをしてくれた気がする。あれこれ君の人柄について質問して下さった。出世とかそういうことではなく」
「そうですか。大事な娘さんを残すからそこを気にするご両親なら今の縁談相手もきっとそういう目線で調べています。そうですか。その上で家族で話し合って俺よりもその相手を選んだならきっと……。袖振りしたのにされた気分で胸が痛いです」
すみません、とイルは私に頭を下げた。一矢報いたってこれかな。
「しょうもない密会男は選ばれないということだ」
「はい。家族想いで気遣い屋のメルさんが選んだのは自分への気持ちも大きい既に後ろ盾や金がしっかりある男です。俺はもっと手前です。ほら先生。今の俺ではわりと素敵めなお嬢さんに選ばれないですよ!」
私を家族想いで気遣い屋と評してくれるんだ。しかもわりと素敵め。
初恋もどきで若干特別な私がそれだと、心の恋人になったサリアは素敵な女性と表現するのだろうか。
「励むしかないな」
「そもそもずっと選ばれていないです!」
「結納前だから天秤にかけられていて負け続けのまま敗北で終わりということだ」
「うわあ……。はい。そうです。商家の娘さんだしかわゆくて癒し系の選べるお嬢さんは結納前に釣りをバシバシした方がええです」
「あやふや将来よりも既に成している男。理性をなくして密会を決めた男は信用ならない。まあ当然だろう」
「俺が簡易お見合いのお申し込みをしても拒否されます。娘さん想いならそうです。俺も妹にそんな男は嫌です。謝って食い下がったらとか、少しは娘さんに興味が薄めで隙があるかもしれないなんて浅はか過ぎでした……」
デオンが誘導するから私が袖振りしたみたいな空気になった。それで父はイルを検討する気があったのに断固拒否したみたいな雰囲気でもある。
「龍神王様の説法を忘れたのか。ド忘れバカだからな」
「その通りでバカです。なんでしたっけ。龍神王様は言った。いや告げた。えーっと……。あー、命は帰ってきます。つまり命はなにかしらでずっと死にません」
「違う! それはお前のサリアさんへの気持ちだ。それは良い事だが真の見返りは命に返る。自らの行いは自らに返る。因果応報ということだ!」
違う! の台詞は落雷のように激しく強かった。私への叱責の時よりもとてつもなく恐ろしい。
「返ってきました! コソコソ密会男には大事な娘さんを、素敵めなお嬢さんを絶対に渡さないってその通りです! うわあ、はい。全部直します。また袖振りされます。今度はもっと本気の予定なのにそうなったら更に惨め過ぎます……」
サリアの件で落ち込んでいるところに父に謝罪させてさらに追撃って容赦ない。
もっと本気だから、私のことも本気。更に惨めなら今も惨めってこと。正直者だから分かりやすい。一矢報いたし溜飲も下がった。
私は確かに他の女性よりも特別な存在である程度は惚れられた。初恋もどきは彼の自己認識のおかしさだから私は彼の初恋の女性。
「成績を上げてくれたり気持ちを支えてくれた女性なのにまだ何もない助けられる側の支えにならないお前では足りないという判断だ。娘想いのご両親はそう決めた」
「そうです。中途半端野郎なんて切ってずっと調べて家族に迎えようとしていた男をまず信用します。俺もそうします。俺はそこにメルさんの気持ちを盾に我儘を振りかざすつもりでしたが、やっぱり俺も俺を許せないです」
「親想いのメルさんもご両親に安心を用意したい。自分の気持ちはゆっくり飲み込んで以前から文通している好青年と交流したらしょうもない未熟者への気持ちは忘れる。思い出になる」
「はい。ずっと選ばれてないです……」
本当に袖にされた私が袖にしたみたい。デオンと目が合ってビクリとしたけど優しい眼差しで柔らかく微笑まれた。
「信じて待つ。ずっと信じて待つ。そう思える材料が無かったってことだ」
「はい。だから俺の我儘です。本当にしょうもないです……」
「君はまだまだ誰かに支えられる側だ。自分でももう分かっているように。次の縁談は早くても三年後と言ったようにその通りだ」
「はい……。メルさん。短い間でしたが苦楽を共にしてくれてありがとうございました。勉強など色々助かって存在が支えの時もありました。直すべきところは直して大きく成長します」
寂しげな表情で笑いかけられた後に竹のような姿勢で会釈をされた。肩の荷が下りたとか、ホッとしたような顔にも見える。
三分の一の気持ち、迷惑で面倒で苦しいから逃げよう。それが終わったからだろうか。
(でも三分の一も本心。祝言案まで出た。次はもっと本気だから私も本気。本気の気持ちには本気しか返せない人だしな……)
唇を動かして声を出そうとしたけど震えた。瞬きをすると夕暮れの中で燃えていた銀花が咲く。
「しひて行く……。人をとどめむ桜花いづれを道と惑ふまで……」
散れ、までは流石に言えない。
「えっ? しひて?」
今すぐには分からないと思って思わず嫌味。どうか桜花なんて彼の道が分からなくなるほど舞い狂って散って……。
桜の君はサリアのことだ。彼の心の中で永遠に咲く桜並木。ひらり、ひらり、ひらひらと優しく彼を導き続ける。そんなもの全部散ってしまえ。
両親、特に母が咎めるような目をしてデオンも顔をしかめた。けどデオンはまた少し笑ってくれた。今度も優しい笑い方だ。散れ、と言わなかったからかな。
「でも咲き続けます。その桜は散らないです。貴方が進む道はきっとこれが似合う、と先に私が言いたかったです。おまけに覚悟も気持ちもない甘ったれなので亀の桜にはなれませんでした」
「えっ。亀の桜? えーっと。あの……」
「来年から教養面の勉強もしなさい。お嬢さんが降りてきてこないとこのように会話出来ない」
「はい、先生。ちょこちょこありました。分からなかったところを余裕が出来たら調べようと書き付けしてあるのでこれも増やします」
鶴は千年亀は万年。私もサリアのように万年桜になりたかった。彼女も生きて万年桜になりたかっただろうからお互いさま。
(優しくない。見ていない手紙の桜の蕾は私への当てつけな気がする。だって彼女は桜の君の隣に誰かいると知っていた。一緒に咲くな、か先に散れだ……。私は亡くなった人に対して最低な発想……)
でも悔しい。悔しくてならない。死者にはもう勝てない。彼の妄想で理想化したサリアには誰も勝てない。
応援だけしてくれて励まし続けて信じるだけの人間なんていない。ズルい。そう思う私は最低だ。
(ずっと独り身になってしまえ……。モテて遊んでも心は満たされないとか……。ルロンにはならないな。私の勘は当たるからルロンからイルに名前を変えたからならないな……)
ルロンかもしれないとか初恋の皇子様なんて名前を付けた時点で私の負け。
同じように春に出会って彼の優しさや笑顔に惹かれたのも同じはずなのに桜の君なんて発想は私にはなかった。
桜の君の名称は思いついてもその理由こそがイルの心を掴んだ理由だ。
「イルさん。今までありがとうございました。色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ええ、あれこれ迷惑をかけられたので友人以上恋人未満のここで逃げます。いや袖にもされました。謝られる事は何もされていません。俺は自分の意志で一緒にいて迷惑をかけられました。迷惑をかけられたいから離れなかったです」
私は俯いていたけど大きく目を見開いて顔を上げて彼を見つめた。彼はまだ困り笑いを浮かべている。
「お互い背中を向けたのでこれからは歩いていくのは別々の道です。寂しいけどメルさんと二人三脚は終わりです」
別の女性と二人三脚で寂しくないくせに! と叫びたくなるけど私にもこれから向き合うシエルという存在がいる。
袖にされても初恋の君に操を立て続けてことはしないで私も自分の万年桜を探すからおあいこ。
胸が張り裂けそうなのに小さな小さな小さな恋だったってこと。
「背中を向けたら真逆へ進むので……」
会えないのか。会うこともないのか……。私は泣いてばかりだ。
「道は真っ直ぐではなくてうねっているからどこかで交わるかもしれません」
俯きかけたけど顔を上げた。困り笑いが私やサリアが見つけた優しい笑顔。
「俺は花咲ジジイになるから見回りなどて見かけたら挨拶をします。本名ではなくてまたイルさんと呼んでくれてええですよ。意味が分かったので気分がええ気がします」
「あっ……。大事な話をしているのに押し付けた偽名を呼んでしまってすみません」
心の中でも全然ネビーと呼んでいない。
「気分がええ気がすると言いましたよ」
「そうでした。また呼びます。きっと見回りで見かけますから」
「はい。悪い奴がいるとか事件で困ったら家族で屯所へどうぞ。年明けには必ず地区兵官になります。下っ端には権限がないですが上へ行く予定なので特別な人は特別扱いします」
「はい。その時は助けて欲しいです」
そうか。終わらないのか。私達は同じ街で生きていく。
住まいは遠いけど年内は登校中に彼を見かけるし広い広い六番地全体を守ってくれるのが六番隊だからどこかで会うかもしれない。
特別な人か。そう言ってくれるんだ。
「父は忘れると言いましたけど忘れません。また会えても、会えなくてもずっと忘れません」
「俺はド忘れバカなのでたまにあれこれ忘れるけど大切な人の事は忘れません。でもたまに忘れそうです。仕事に夢中で気がつかなかったり」
「相変わらず正直ですね」
「なのでイルさんで気がつきそうです。イルさんとメルさんの偽名はル揃いだから何かあるのかなと思っていました。共犯者だからお揃い。メは何かなって。芽が出るようにかなぁとか。俺の願望からそういう考えでした」
なんの芽が出て欲しかったのか分かる。
「メルは古い言葉で海だそうです」
「へぇ、それをその時の手紙の返事に書いて欲しかったです。カニとか落書きしたのに。俺なんて親父の祖父がネービだからで意味の無い名前です」
「おじい様の名前からなのですね。妹さん達は二文字なのになって思っていました」
「意味はあるのかな。古い言葉ではなにかあったとか。古い言葉なんて初耳です。いつか余裕が出たら勉強します。龍歌も勉強します」
手を伸ばしたら届く気がして「離れたくない」と口を開きそうになったら彼に首を横に振られた。
「ありがとうございます。いつも励ましてくれて、助けてくれて、元気にしてくれてありがとうごさいました」
お辞儀をするとイルはそのまま頭を上げなかった。ずっと頭を下げ続けている。もう私との最後の雑談は終わりという意思表示だろう。
両親が挨拶をしてデオンが挨拶を返して解散になってもイルは顔を上げず。
襖が閉まる時に「さようなら」と小さな声が聞こえた。




