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灯虫

 手が大きい気がする。それで彼の手は火鉢なのではないかという程掴まれた腕が熱い。これは単なる羞恥心による錯覚だろう。


「すすすすすす……」

「大丈夫ですか? ああ。鼻緒。少しすみません」


 彼は私を立たせてくれた。よっ、と子どもを抱っこみたいに持ち上げられたのでやはり力持ち。

 しゃがんだ彼の頭の上を見つめる。濡羽色(ぬればいろ)の柔らかそうな短い髪につむじが二つある。


(つむじが二つある人もいるのか)


 桜の花びらがそうっと彼の頭の上に乗った。思わず手を伸ばす。


(動いた!)


 彼が立ち上がったので手を引っ込めた。胸がバクバクし過ぎて吐きそう。

 下駄を片方履いていないから足袋が汚れると思って片足立ちなのでよろめいてしまった。およよ。よっと。


「どうぞ。あんまり綺麗じゃないですけど土よりマシだと思います」


 そう口にすると彼は腰に下げている手拭いを私の足元に敷いてくれた。


「すすす……。すみません……」


 彼の手拭いなのに踏んで良いのかな。そうっとそうっと左足を手拭いの上に降ろした。

 下駄を持ってくれているし懐から出した手拭き用の小さい手拭いを捩っているから鼻緒を直してくれるってこと。やはり彼は優しい。


「いえ全くもって悪くないです。末銅貨ありますか? 貧乏なんで惜しいです」

「は、は、はい。はい。ありがとうございます」


 懐からお財布を出して末銅貨を出して彼に差し出した。

 捩った手拭いに末銅貨を通して下駄の鼻緒直し。白くて端が少し解け気味の手拭いが蝶結びになった。


(何だかこれはかわゆく見える……)


 どうぞ、と足元に下駄を差し出された。


(履いたら去ってしまう……)


 先程お礼を告げたけど彼は下駄を直していて俯いていたので私は彼に笑顔を返してもらっていない。


「ん?」


 しゃがんだまま顔を上げた彼と目が合ってカチンと固まる。ギュウッと胸が締め付けられたせいか涙が出そう。


「あり、りがとうこじます……」


 噛んだ!

 嫌だ……。恥ずかしすぎる……。

 吹き出すように笑うと彼は立ち上がった。


(笑いかけてくれた!)


 目的達成。目的は達成したけどこうなると少しお喋りしてみたい。いつも楽しそうだし先程の会話もなんだか愉快だった。

 見なりもだけど話し方で私とは住む世界が違う人なのも分かったけど。でも私達はおなじ世界に生きている。

 我が家は奉公人達がいないと成り立たないから同じ世界の住人だ。そう前向きに考え直す。


「い、以前も助けてもらいました。言いそびれていて……。と、とう、登校時刻が同じで……。お礼を言わないとって。前からたまに見て……」

「かわゆいお嬢さんに見られていたとは得しました。ありがとうございます」


 照れ笑いをした後に彼は髪を掻いた。

 それで空に向かって真っ直ぐ伸ばした背筋でピシッとした会釈。今のはとても格好良い。


(助けられたのは私なのにお礼を言われた! かわゆいだって!)


 年の近い男性とこんなに喋る事がない。彼は周りをきょろきょろ見渡した。


「あれ。付き添いの方はいないんですか? 誰も来ないですね。俺は貴女を置いて帰ってええんでしょうか。日が暮れます。俺の妹達でさえ家の近くにいろって時間なのでお嬢さんはもっと危ないです」

「あの、その……」

「迷子ですか? あっ、兵官が居る。すみません! かわゆいお嬢さんが迷子です! 自宅まで送らないと危ないです!」


 彼は右手を挙げて左右に揺らした。


(か、かわ、かわゆいってまた言われた!)


 彼よりもかなり年上に見える地区兵官がこちらへ向かってくる。怖い。地区兵官の方が彼よりも怖い。がっしりしていて肩幅もあるし目が鋭い。


「じゃあ、ありがとうございました。いやぁ、気分がええ。かわゆいお嬢さんがお礼を言いたかったからたまに見てくれていたって得……。俺のことだから何かバカしてそう。ヤベぇ、逃げよう」


 またかわゆいって言われた!

 えええっ⁈

 ほぼ毎日見ていて人に優しくしているとか楽しそうな笑顔しか見た事がないのになんで⁈

 やはり足が速い。人混みなのもあってすぐに彼の姿は見えなくなってしまった。


(て、手拭いがそのまま)


 兵官が目の前に立って「どうしました?」と問いかけられた。兵官がチラッと私の足元を確認。


「い、いき、息が詰まるので付き添いなしで家を出て散歩です。あの、助けられました。下駄を直してもらっていたら日が落ちかけです」

「最近抱きつき魔が出てるから見回りがてら送ります。付き添いや見張りで息苦しくても自分の身の安全の為です。怖い思いをしてからでは遅いので昼間にしましょう」

「は、はい。はい。その通りです。すみません。ありがとうございます」


 この地区兵官も笑うと素敵な笑顔で優しいみたい。

 下駄を履いて手拭いを拾って土を払った。地区兵官と並んで歩きながら手拭いを折り畳んで抱き締める。穴があいていたので後で縫おう。


「その見なりで本来付き添いがいるなら女学生さんですよね。制服らしき袴姿ですし。学校でも教わっていると思いますが路地に引きずり込まれる可能性を減らすために道の真ん中を歩きましょう」

「はい」

「それからとにかく声を出しましょう」

「はい」


(彼がいる!)


 斜め右前方に彼を発見。

 佃煮屋の息子?

 お店から出てきて剣術道具袋と竹刀袋を持っている。彼は従業員に会釈をして遠ざかっていった。


(この佃煮屋の息子ならド貧乏なはずがない……)


 家まで兵官に送られた私は使用人に帰りが遅いから探しに行くところだったと心配された。

 誤魔化して庭へ行って彼の手拭いを洗濯。


(我が家のものに紛れてしまうと困るから部屋に干そう)


 自室へ行って箪笥(たんす)の上に広げてみた。それで琴の練習。来週結婚相手候補の家が営む料亭で両親が商談をするのでその時に私は華添え演奏をする。

 婿入りしてもらうけど私も向こうの家の為に働くので演奏したりお茶会に関与したりする事になるから徐々に教養を確認されるって事だ。


(桜、桜、はなびらひらりと舞い落ちる……)


 桜吹雪(おうふぶき)は春の定番で恋物語の曲。春と秋は恋の季節。

 春と秋が恋の季節と呼ばれる理由は春は万年桜、秋は紅葉草子という古典文学が由来。

 枯れ木の桜の精が人になり人と恋に落ちて幸福になる話と身分格差故に駆け落ちしようとして失敗して永久を誓って入水自殺する真逆の話。

 万年桜は幻想的な景色の中で優しい者が優しい者と結ばれて幸せになる憧れの恋物語で誰もが安心して浸れる物語。

 紅葉草子は紅葉の色のように燃え上がった恋を最後の最後まで諦めない物語で不自由な結婚を強いられる者達に人気。つまり私。


(万年桜の時期に紅葉草子みたいな恋をしてしまったというか……。なりたい……。破局も心中も嫌だけど私も彼に慕われたい……)


 二度と見ないで、もちろん話しかけないで、目を閉じるしかない。

 なのに文通したい。お喋りをしたい。また笑いかけて欲しい。


(かわゆいって言われた。また言われたいな。噂のキ……っ! それははしたない! 下街恋人や噂のそれははしたない!)


 演奏をやめて顔を覆う。私みたいに既に結婚相手の候補がいるどころか確定の同級生は結納済みなのでもうキスを済ませていたり、悪めの女学生だと親を無視して文通して男子学生と恋仲になっていたり、学校が近いのもあって兵官学生と交際している女学生もいるにはいる。


(私も仲間入りしようとしている!)


 かわゆいお嬢さんだから家まで送ると言って口説いてくる人ではなかった。たまに登下校中に友人達と共に下街男性に絡まれる。見張りが追い払ってくれる。稀に男子学生の時もあるけど。

 お嬢さんと火遊びしたい男性は若くても年寄りでもいるから男性には気をつけないといけない。

 お嬢さんでなくても若いとか、美人とか、女性というだけでとか色々らしい。

 私には分からない噂の男心というもの。恋がなくても心がなくても色はあり。危険なので気をつけましょうと教わっている。

 恋も色もよく分からないと思っていたけど今なら理解可能。キスとか手を繋ぐとか興味津々。


(手拭いを返すくらいは良いよね。年末までの片想いなら許されるかな……。片想いくらい許されるよね……)


 手拭いを返す。可能ならまたお礼を言う。それでもしかしたらまた「かわゆい」と褒められて嬉しい。幸せ。それで終わり。

 彼の通う学校は浪人しなければ一年制。学費免除のド貧乏なら浪人は不可能のはず。

 どこから通っているか分からないけれど彼は十二月末であの学校にはもう通わない。私も女学校を卒業する。もう彼を見られなくなる。


(あの優しい笑顔で触れられて、紅葉草子のあの場面みたいにキ、キ、キスは素敵。きっと素敵。とても素敵……無理。なにこれ、どうしよう……)


 片想いは許される。婚約していないから両想いも許される。ただ未来がないだけ。


(思い出に少しくらい遊ばれたい……。はっ! なぜそんな発想⁈ 私はおかしい!)


 これが噂の恋狂い。恋は狂って変なことをしたり破滅したり大変な事にもなると言うけど「何が?」と思っていた。

 文学は大袈裟とか自制すれば良いと思っていたのに違うみたい。

 またしてもあまり眠れない夜を過ごして登校時間を迎えた。


「メルさん、昨日はどうでした?」

「ふえあえ⁈ はず、恥ずかしいしはしたないので校門前で待つなんて無理で帰りました……」


 ケイに「ふーん」と顔を覗き込まれた。


「顔が赤いですよ」

「遠目ですが姿を見られました。それを思い出したからです……。陽舞伎(よぶき)観劇で横顔を少し見た以来だったので」

「お互い両親が決めかねているのに大丈夫ですか? 破断というかお見合い話が消えたら禁断の恋になってしまいます」

「まあ、そうです。なので見るだけにしました」

「そこそこの商家だし姉妹二人だと大変ですね。我が家は兄が二人もいてそれなりに自由というか」

「ケイさんは幼馴染婚の予定ですから。その方が気楽です。決めてくれて彼と夫婦になるから仲良くしなさいねと言われて優しくし合う方がきっと苦しくないです」

「そうでもないですよ。目移りというかなんだか嫌な気配。家関係が少ないと気持ちが薄れると離れられるから困りもの。はぁ」

「男性関係はちんぷんかんぷんで役立たずですけど作戦会議をしましょう」

「今日はお稽古日だったと思うので明日家に来てくれたら嬉しいです」

「はい」


 ケイの両親は寺子屋経営者で長男が既に一緒に働いている。次男は中等校の教師を目指して勉強中。ケイは女学校の講師になると言っている。

 なのでケイは家の為にこうあるべき、みたいな結婚はしなくて良い。家族が調べて悪い男でなければ問題ないだろう。


(自由気味だとそれはそれで悩むのか)


 私は昨日の佃煮屋だ、と思って視線を移動させた。


(また出てきた!)


 彼は剣術道具袋も竹刀袋も担いでいない。それで剥き出しの勉強道具と竹筒を手に持っている。

 彼が従業員と笑い合って手を軽く挙げて歩き出した。つまり私達は道を挟んで同じ方向へ歩くことになる。


(途中まで一緒に登校風……)


 しばらく歩き続けていると彼の方が前へ進んだ。それで別の方から歩いてきた女学生が道を曲がりながら彼を見つめるのを発見。


(昨日のかわゆい女学生!)


 距離があるけど彼女の頬は少し赤く見える。彼女は少し彼を見つめてフイッと顔を背けた。


(私と同じ? 見てはいけない。慕ってしまうから見ては……また助けてる!)


 私の目の前には迷子や鼻緒が切れた人や転んだ人や喧嘩を始める人なんてちっとも現れた事がないのに彼の目の前に人が落下。

 彼は露台が壊れて女性が落下してきたのを見事腕の中におさめた。


(よ、よこ、横抱き! うら、(うらやま)しい……)


「メルさん、今の見ました? あのように受け止めるなんて驚きです」

「は、はい。はい。驚きです」

「初老の方と若い男性では恋物語になりませんね。若い男女なら文学みたいなのに。あのような出会い方をしてみたいものです」

「私は困るのでしない方が良いです」


 彼はサッと初老女性を地面に立たせると「どうも」みたいに手を挙げて歩き出した。また素敵な優しい笑顔。


(やっぱりあのかわゆい女学生も彼を見てる!)


 遠ざかっていくからもうその表情は見えない。その彼を軽く追いかけたのは昨日一緒にいた友人らしき兵官学生。

 ここで彼とお別れ。道が違う。私と彼の人生みたいに別れ道。


(彼はいつか空から降ってきた人と恋をして夫婦になるのかな。鼻緒が切れた人かもしれないし転びかけて帯を持たれた人かも)


 あまり特徴のない顔で色男ではないし他の体型や髪型なども目立たない。

 だけど奇妙な事に彼は誰かを助ける人のようなので私や女学生みたいに誰かが見つけてあの優しい素敵な笑顔に心を奪われる。

 

(つまりモテそう。モテる男性は遊ぶらしい。特に下街男性。男子学生も文通で何股という人がいるらしいし……。キ、キスを二人として女性が喧嘩をした話も聞いた)


 それならモテる下街男性はどんな事をするのだろう。


(ルロン物語なんてあっちへフラフラ、こっちへフラフラ、そっちでも慕っていますと言って手を出しまくり。そうか。彼は私とは違って噂のキスをした事があるしもっとかも……嫌。とても嫌。遊ばないで欲しい)


 火に飛びこんで焼け死ぬのに炎の明るさに引きよせられる虫がいる。私はその気持ちが少しだけ分かる気がした。

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