自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか
1909年から朝日新聞に連載された『それから』、その第6章からの文章となります。
主人公の長井代助は30歳にして職に就かず、高等遊民として生活を送っていました。
就職活動中の平岡と飲んでいる際に代助の生き方について議論が始まります。以下、平岡の台詞です。
「君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」
働かないことを日本や外交のせいにする代助を突き放します。かなりのパワーですよ。
攻撃された代助も黙ってはいません。そうして、この高等遊民論はまだまだ続いていくのです。
さて、『それから』では高等遊民たる代助に対して、様々な議論や批判がぶつけられます。
では、この高等遊民とは一体どういったものなのでしょうか?
なんとなく知っている単語で、なんとなく意味は分かるけど・・・そういった方は多いのではないのでしょうか。私もその一人です。軽く調べる限りでは明確な初出は分かりません。また、高等遊民の定義にしてもバラつきがありますし、それを発している人間がそもそも「誰?」という状態だったり、実に得体の知れない言葉です。
高等遊民を主人公にした『それから』ですが、「高等遊民」という単語は最後まで出てきません。とはいえ、漱石が知らなかったというセンは難しいところです。『それから』の3年後に発表された『彼岸過迄』では「高等遊民」という言葉に対してちょっとした問答がされています。お手上げです。ただ、『それから』に対する書評では「高等遊民」はかなりの頻度で使われているワードなので、そういった方々により広まっていったと、私は一人納得しようと思います。
それにしても『それから』ほど高等遊民の生態を書いた小説はありません。そういった見方をすればなお貴重な作品と言えるでしょう。生活だけでなくその思想も確固たるものがあります。これが非常に面白い。
代助が議論を交わすのは平岡であれ、文学者志望の寺尾であれ同じ学校を出た友人です。漱石が単に「学校」という言葉を使うとき、それは東京帝国大学を指しています。最高レベルの教育を受けた人間同士がやりあう「働く・働かない論争」がつまらないわけがありません。
代助は東京帝国大学の中でも、かなり良い成績だったことになっています。その彼もまた名文を残します。
「無論食うに困る様になれば、いつでも降参するさ。ただし今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験をなめるものか。インド人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」