もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう
1914年から朝日新聞に連載された『こころ』、その最終章。
主人公の友人であり同居人であるKの言葉です。
Kはある夜に、下宿の自室で手首を切って自殺します。
机に置かれていた遺書には「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」とだけありました。残りは世話になった主人公への礼、下宿の奥さんへの詫び、死後の片付けと国元への連絡の依頼、それぞれがごくあっさりとした文句で書かれています。
作中に描かれているKの無骨さそのままといった遺書でしょう。
しかし墨が余ったせいか、最後に一文、書き添えられたものがありました。
「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」
下手なこと言えないですね。とてつもなく完成度の高い一文です。
Kの持っていた葛藤。その意味と無意味さを、こうも見事に表現するとは・・・流石としか言いようがありません。
また、主人公がKの部屋を覗いてKの遺体と遺書を発見する描写が実に見事です。
主人公は遺体を見て立ちすくみました。動く能力を失ったのです。そうして「取り返しのつかないことになった」と理解し、ガタガタと震え出します。
しかし、机の上の遺書が目に入った途端にエゴが勝り、動く能力は復活し、夢中で手紙を開けます。自分に不利益なことが書いていないと確認すると、「助かった」と胸をなでおろすのです。
日常描写なんですよ。遺書に目を通す動作も、そこに対しての思考も冷静過ぎます。そして手紙から目を上げてふすまが赤く染まっているのを見て、露わになる恐怖感。人間の人間たる描写、凄まじいの一言です。
さて問題の一文ですが、これの汎用性の高くないですか?
ほぼ全ての人間が遺書にこの言葉をいれても、全くおかしくないですよ。
個人的な話、私が遺書を書く際にはこれを最後につけ足そうと思っています。いや、遺書自体書くことないですけどね。もし、そのような事態が訪れたらってことで。
でも、例えば、私が100歳になった時に余命一か月を宣告されたら書いてしまいますよ。
他にも・・・そうでですね、「今の、この生活が続くだけの人生ならば、たった今死んでしまっても大差ないな」って感じている人って多いと思うんですよ。私とか。そういった方々も使える汎用性の高い一文だと考えています。
もちろんですが、夏目漱石が、この謎の汎用性を求めて執筆したわけでは100%ないんですけれども。
この言葉を『こころ』と同じような使い方をするのはかなりレベル高いですよ。まずKに近づかなければならないんでね。まあ、無理があるでしょう。現代の日本でああいった人間は育つことはないのですから。作中の明治中期ですら異端扱いですからね。
最後に。詩的ですよね、自問自答しているさまが。こんな言葉、出てきやしないです。