虚の瞳
木々草々の間を、一陣の風が駆け抜けていく。しかして、それはただの風ではない。何ものも正体を見極めることが出来ないも、大体は察せられた。
「ユウト、待ちなさい!」
「や~だよ~」
姿はなくとも気配というか、周りを憚らずに追いかけっこをしているのでは、いかな者たちも誰かが速足で通ったのだと理解し気にもしない。
「待てと言っているのです!!」
「だから、偵察に行くだけだってば」
「相手は霊峰の主、偵察で済むはずがありません!」
といった次第である。
アシュティーナの心当たりについて、詳しく話を聞いた悠登は彼女の制止も聞かずに森を駆けているところだ。彼女の情報を照応の魔術で得た地理に当て嵌め、検討のついた方へ。大慌ての女神様の様子が、場所の正否をきっちり示してくれたので間違いはない。
「よっと――」
現れた急流の川を対岸まで飛び越える。その長さはどこぞの駅舎が縦にまるまる納まる距離だが、魔術を用いた跳躍力なら問題ない。はずが――
「捕まえました!」
「おわっ! えっバカ落ちる落ちる落ちる!」
どっぼーん。ジャンプの滞空により失速した悠登。追いついたアシュティーナに体当たりよろしく飛びつかれ、計算狂って水の中。新たに魔術を編む間もなく水を飲み、川を下り始めるところで力強く体を引っ張り上げられた。
「――ごほっ、ごほ。うぇえ」
「ゆ、ユウト! だだ、大丈夫ですかっ!?」
水を操って助けてくれたのだろうアシュティーナは、涙をいっぱい溜めて背中をさすってくれる。水を吐き出しながら片手をあげて応えるも、今度は申し訳なさそうに気を落としてしまった。
「あーびっしょびしょ」
「ごめんなさぃい~」
ぺたんと座り込んで肩を落とすアシュティーナ。
「いいよ、乾かすから」
問題ないと笑いかけながら、悠登は立ち上がって瞼を閉じる。次に瞼を開いた時には、ブレザーはすっかり元通り。
「わわっ、どうなっているのです? 火も使わずに、いきなり魔法陣が現れてみるみる……」
「面白いだろ? 共感魔術っていうんだ」
「共感、するのですか?」
「うん。水は川の中にあるもので、ここは陸の上。なのにびしゃびしゃは可笑しいだろ? だからこの場の状況に倣い、それに則した状態に変える。自然魔術の一種だ」
「どうしましょう。自然と言われても全然自然じゃありませんわ」
言葉のあやに不信を走らせる彼女だが、それは悠登がどうにか出来る話ではない。肩をすくめてお道化るだけだ。
ふわり宙へ浮かび上がった女神さま。彼女はおもむろに近寄ってくると、悠登の背中へ回って勢いよく抱き付いて来た。
「ちょっ、アシュティーナ!?」
「もう離しはしませんわ。まったく、ユウトはポンポンと魔法を使うのですから、こうでもしなければ止められません」
言葉通り離すまいと腕を回され組みつかれる。見ればアシュティーナの操る水の玉も、悠登の前方にてばっちり待機していた。彼女は悠登の背中にぐいぐい体を押し付けてくる。
これでもか、これでもかと。
「へぁっ!? わ、わかった、わかったから、放してっ!!」
背中に感じる、たいへん柔らかい感触。
「ダメです!」
「こっちがダメ、こっちがダメなの! も、もう勝手に行ったりしない、しないからぁっ!!」
気にしてしまえばもうアウト。全神経が背中へ。
「ダメです。……ユウト、希望があればおっしゃって下さって構いませんよ?」
「なにっ、きぼう? きぼうってなにっ!?」
「無論、私の胸の大きさです」
「あぁあああああああああああああああああくそぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
こういう時だけ女神の余裕をみせるのはやめて欲しい。そう切実に願うのは可笑しいだろうか。そして願っても願っても、叶えてくれる気は全くないらしい。
「ふぇっ、ごめんなざい。うぅ……」
「あーーー! 泣かせてしまいましたー!」
魔術一筋に生きてきた。修羅場もいくらかくぐってきた。しかし、こういったからかいに対する耐性は皆無なのだ。
それにしても、些か泣きすぎだろうと自身にツッコんだところで、己の内にある焦りに気が付いた。思った以上に余裕がなかったらしい。
アシュティーナが必死に止めに来た理由は、悠登の内面を心配してだったのか。
しばらく女神に身を預け、よしよしと頭を撫でてもらう。美しい指先が頭をなぞっていく毎に、悠登の不安は払われ思考が澄んでいく。
「ありがとう。だいぶ楽になった」
「そのようですわね。さ、とりあえずは私の泉に帰りましょう!」
「そうだな……ん?」
心の底から是を呈したからか、何も言わず悠登を解放してアシュティーナは背を向けた。
それに続こうとして、踏んだ一歩。
大地のざわめきが足裏から伝わってくる。
「ユウト、どうしたの――」
「しっ!」
不思議な顔のアシュティーナ。悠登はその口を手で塞ぎ、手頃な木に向かって走る。何がなんだかわからない様子のアシュティーナを引っ張り込み、木の影と雑草の茂みに全身を隠した。
「あの、ユウト?」
「エレメントの気配が変わった。何か来る」
困惑しつつも、悠登に倣うアシュティーナ。
彼女は女神で精霊だが、特定の場に住まう者だ。かなり遠くまで来たために、感知能力が相当低下しているだろう。
悠登もまた困惑していた。
地球よりも直に感じられた、地のエレメントの異変。その意味を、完全に把握しきれずにいる。
じっと息を殺して、出来る限り身を小さく。エレメントの動揺は広がったと思えば不気味なほど静まり返り、周囲にも動物の気配は消え、植物の息吹すら止まっているかのように辺りは凍える。
「来るぞ」
到来の推測は当たった。
止まった世界で、動く者。
悠登が向かおうとしていた方向から、ぞっとするほどの冷気が流れ込む。
寒気ではない、濃厚な死の瘴気。
雷雲もなしに辺りは暗くなり、足元から闇に近しい霧が立ち上る。
しかし遅い。
まさしく牛歩のよう。
ゆっくりと、じわりと――――だが確実に。
ソレはやがて姿を見せた。
「えっ?」
アシュティーナの口から、意に能わずもれた音。
彼女は即座に息を止めるも、ソレはこちらを向いた。幸いにも二人の存在に行き当たった様子はない。
足を止め、こちらを覗く深淵にも近い虚の眼球。探す気がないのだろうか、向けるだけ向けて微動だにしない事がより不気味である。
悠登たちと、ほんの10メートルほどの距離にいるソレは、百獣の王ライオンに近しい見た目。
ただ、たてがみはどす黒い炎で形成され、その炎は全身の所々からも体表を舐めるように走っては消えていく。消えたのちはどす黒い瘴気へ変わり、辺りを犯す。
体長は、4トントラックなど目ではない。横になるには、横広の家一軒文の敷地が必要だろう。
悠登とアシュティーナ。
ひたすらに息を止めていたが、ソレは一向に動く気配がない。イチかバチか、魔術で逃走を図ろうとしたとき、ガサガサと全く異なる方向から物音が鳴った。のっそりと首をもたげてその方向を向いたソレは、再び牛の歩みを再開して遠ざかっていった。
「ぶはぁっ! あーヤバかった。助かったよありがとう」
「い、いえ。これしき、なんでもありませんわ」
二人が助かったのは、アシュティーナのおかげである。彼女は奴に気付かれないように水の玉を生み出し、全く別の地点へ送り込んで草木を揺らしたのだ。
奴が去っていった方向を眺めていた悠登は、礼を言って彼女を振り返る。何事もなかったことに安堵と喜びを持って彼女を窺った。だが、アシュティーナは持ち前の元気の良さを見せず、俯いて己の身体を掻き抱いている。
「どうかした?」
声をかけ、彼女の肩に手を置くとその身体はどうしようもなく震えていた。今度は悠登が彼女の身体に腕を回し、背中を柔らかく叩いて自分の存在を示す。
「アシュティーナ?」
ぶるぶる震え続ける彼女に寄り添い、間隔を窺って何度も名を呼んだ。
「ユウト、どうしましょう」
「ん?」
唐突に身を起こしたアシュティーナ。そのまま体当たりよろしく悠登にしがみついてくる。なんとかそれを受け止めると、
「あの者なのです」
「あの者? が、どうしたんだ?」
彼女が訴えようとする、その内容は、
「私の心当たりとは、あの者なのですわ!」
それはまさか、
「今のが目指してた霊峰の主?」
「はい!」
「いやいやいやいや無理だろぉおおおおお!!」
なるほど確かに、奴は悠登が目指していた方角から来た。なるほど確かに、あれは主というに相応しい。そしてあれならば、確かに戦えるかどうか聞いてくるわけだ。
強力な力は使役霊としてはいいかもしれない。だがしかし、あの邪気はいただけない。理性のほども見られなかったし、正直使役するには――
「待ってください、おかしいのです。私の知るあの者は、強く知性に溢れた、まごう事なき霊峰の主。それがあのような……瘴気を纏うなどあり得ませんわ!」
縋る彼女は、泉の如く青く澄んだ瞳から涙を溢れさせていた。なぜ、どうして、何があったのかと悠登に問うてくる。当然その問いに返せる答えなど持ち合わせてはいない。
ただ、わかっていることは、
「様子を見に行くしかない、か」
悠登はアシュティーナをなだめながら、霊峰のある辺りに目を凝らす。魔術まど使わずとも、そこには不穏な空気が見て取れた。
次回
悠登、初陣