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とある街外れの一画に、周りとは比較にならないほどの敷地を持つ家がある。純日本家屋の古めかしい趣をこれでもかと湛えたそこからは、どこか神聖な空気を感じさせ、近所の者たちから寺社仏閣に携わる家だろうと噂されていた。
朝陽を受ける時間帯は特に静謐さを漂わせるそこの門扉から、一人の少年が欠伸を噛み殺しながら姿を見せた。まだ新しい制服を早速着崩し、イヤホンから音楽を流して歩き出す今時の少年は、この朝霧家の長男で、名を悠登という。
高校生になったばかりで、まだまだ慣れない早朝の電車通学に苦心する姿は、どこでも見かけるものである。
彼は眠気眼をこすって歩く。
普通にしていれば切れ長の瞳が映えるいくらか端正な顔立ちも、朝のこの時は台無しだ。小柄で細身の身体も今は猫背を全面に押し出し、着崩したブレザーも相まって単純にガラが悪い風体となる。
キビキビとは正反対にボケっとただ前を向いていた。
だからという訳ではないが、彼の反応は致命的に遅かった。
悠登の足元に発生した魔法陣。
認識した時には、すでに発光の頂点で、
「なんっ!?――」
日本現代魔術の筆頭と名高い朝霧家の長男は、何の抵抗も出来ずに謎の魔法陣へと飲み込まれていった。
――☆――
突如現れた魔法陣。
溢れる光に呑まれた直後に悠登を襲ったのは、強い浮遊感であった。
「えっ、なん……ぅうわぁあああああああああああああああああああ!?」
あまりの眩しさに一時失った視力が戻ってくるも、見えた光景に絶句は出来ない。光に眩んだ瞳が、今度は景色にやられそうになる。
絶叫するも耳元は風を切る轟音がうるさく、手足は風圧に言う事を聞かない。
ここは上空。
雲をも見下ろす高高度。
眼下を流れ行く雲の間からは雄大な大地と豊かな大海原が。
「なんっっっじゃこりゃぁあああああああああああああああああああああああ!!」
およそ飛行機が飛ぶような高さである。何かの魔術に掛けられたと思ったが、まさか転移系の魔術であったとは。
あの魔法陣に悠登は見覚えがなかった。日本だけでなく世界的に名を馳せている朝霧家。その者をしても、構図や走るスペルに全く覚えがないというのは、些かおかしな話との判断がつく。
困惑に困惑が重なり、思うように思考が働かない。
そんな悠登を知ったことかと雲が迫る。
いや、下を悠々と漂うこじんまりした雲にこちらから突っ込んでいこうとしていた。
(やっば! えーっと今なら……)
古くから実在するともおとぎ話とも言われる魔法魔術。秘められし大いなる御業の中から、現状を脱する最適解はどれか。
そう時間をかけずに悠登は動き出した。
風圧に抗い、手刀を成した右手で宙に五芒星を描く。それは悠登の魔力により光の線をとり、消えることなく輝きを放つ。
「幸いなれラファエルよ。汝我が下に豊穣の風をもたらせ」
かくて詠唱が投げ掛けられた。
五芒星は輝きを増し、至る所から光の枝葉が伸び始める。
伸びて繋がり、伸びて散る。
それは新たな図式を生み、散った燐光は文字へと変じてスペルを刻む。
詠唱とともに、五芒星はその姿を変えて――
現れたるは、雄大かつ可憐な加護の呪印。
示したるは、風の大天使ラファエルの印章。
これは、大いなる者を呼び出し加護を受けることで万象を操る、護符魔術の一種である。
――――が、
「あれ? え、ちょっと待っ……」
真っ白な雲。
ぼふん。
「―――ぶはぁっ! なんでっ!?」
敢え無く雲を突っ切ってしまった。
詠唱は終わり、図案も完成している。なのに、どうしてか力が得られない。
混乱する悠登だが、状況は着々と悪化しているのだ。不発の理由を問うどころか、目を点にしている暇もない。その理由はもちろん、
「あぁあやべぇどんどん近づいてるぅっ!?」
雲に突入した時点で相当降りてきたことになる。いつの間にか雄大に広がる大地が壁のように迫っていた。
「来たれラファエル! 王のなかの王アドナイの名において!」
焦りに促されるまま、叫ぶように召喚の呪文を唱えた。神の名を用いての詠唱はかなりの威力を持つのだが、事態に変化は生まれない。
高度はどんどん下がっていく。
(嘘だろ、よりにもよって街かよ!)
次第に目下の詳細が見えてきたと思えば、悠登の直下には巨大な街が広がっている。いや、おそらくは都市であろう。
どうやらこのままいくと、悠登は都市の中でも最も高い塔に串刺しになるようだ。
まぁなんであれ、この程度の事態も打開出来ずでは現代の魔術師の名折れである。
息を吸い、瞳を閉じる。
「秘儀参入。永遠なる無限の光へ」
厳かな言葉が放たれた、その瞬間、
――停止する。
空間、時間、世界の全て。
悠登以外に動く者、物体は存在しない。切り裂いて来た空気までもが停止している。
止まった中で、世界は仄かに灯りを立ち上らせ、陽炎のようにゆらゆらと揺らぐ。
否。
ここは先ほどの世界ではない。
朝霧悠登という魔術師の、内的世界である。
悠登は己の内でぐるぐると首や腕を回す。それから軽く屈伸運動をして、
「んじゃま、久々に開きますかね」
精神世界により、可視化出来る悠登の魔力。全身を煌かせるそれを眺めつつ、ゆっくりと目当ての物に呼びかけた。
「聖霊偽書」
魔術師がその身に刻みし魔導書。
詠唱であり名称である、鍵が放たれ、閉じられたページが開け放たれた。
それすなわち、解放の意。
悠登の身体から記されし者たちが一斉に飛び出していく。
大きな魔法陣、小さな魔法陣。
複雑な魔法陣、簡素な魔法陣。
古めかしい魔法円、美しい絵の描かれた魔法円。
マス目を擁した魔方陣、そのマスにあるは数字。
六芒星、五芒星、四角、三角、丸に点。
立方体に三角錐に円錐に球体。
シンボル、呪印、印章、紋章。
数字、各種言語。ルーン文字に天使文字。
悠登を中心とした周囲の上下左右にずらり、
更には中心に立つ悠登の身体もびっしりと。
(認識阻害と……あれ、浮遊はどこだ? えっ、あれ、マジでどこやった!?)
現代の魔術師には必須となった魔力魔導書だが、やはり思春期男子の性だろうか、整理整頓はまるでなっていなかった。文字やスペルを抜いてもおよそ数百はあるものの中から、必死に探していくもこういう時に限って見つからない。
(あーくそ! 浮遊はコスパ超悪いから使わないんだっつの!)
そんな事実に投げ出したくなるも、今最も確実な魔術は他にない。コスパとは、単に魔力消費量の多い少ないだが、浮遊の魔術は浮いている限り魔力を消費し続けるという、完全魔力垂れ流しの秘儀である。
それに比べ、当初の護符魔術においては、魔力の元を呼び出した者に依存してしまえる。術者が自身の魔力を必要とするのは、大いなる者を呼び出すまででよい故に空を往くには大抵こちらを使っていた。浮遊の術は完全に仕舞い込んでおり、いつから使っていないかもわからない。
(あぁもう、整理しとくんだった……って見つけた!)
泣き言を吐こうとしたところでようやく見つけた光明に、悠登はさっそく魔力を通して術を発動させ、瞼を開いて現実と同期する。
「ふはぁー、助かったぁ~」
自由を取り戻したことで姿勢を正し、大地を下にして立つように宙を踏む。うーんと伸びをして、そのまましばらく脱力していたかったが、その前に一つだけやる事があった。
悠登は瞳に魔力を流し、注意深く周囲を窺う。
魔法魔術の存在は一般人には知られてはならない。東西南北どこの魔術師にも共通する絶対ルールであり、万一見られた場合はその場で処理が鉄則である。処置が遅れれば総出で目撃者を潰しに行かねばならないため、規模によっては罰則や請求等々で借金地獄もあり得てしまう。
名家とはいえ、お小遣い制の悠登にとっては借金など飛んでもないのだ。
「航空機は見なかったし、レーダーに捉えられた形跡もなし――」
よく悠登の瞳を見れば、微かに魔法陣が浮かんでいることに気付くだろう。どんな物事をも見通すと名高い千里眼もまた、『聖霊偽書』に載っている魔術の一つである。
「んー、まぁすぐにわかったけど、日本じゃないな。教会に塔、レンガの平屋根……ヨーロッパかな。でもなんか、ビルも電柱とかもないっていうか?」
どうやら目撃されてはいないようだが、街の構造に違和感を覚える。電柱は景観を意識して地面に埋めたのかもしれない。それにしても文明の産物が見受けられないし、真円に近い形をする都市の外周には高く強固な壁が築かれ囲んでいた。
その壁はまさしく外敵から都市を守るものと思わせる。
「まぁまずは降りてみっか」
上空からの観察に利があるという訳ではない。むしろ、浮遊に認識阻害、千里眼と魔術を同時使用している状態では、無駄に魔力を消費するだけである。
ひとまず千里眼を解き、人気のない場所を探しながら高度を下げていく。先ほどは街の構造や建物ばかりを眺めていたが、降りていけば相当人通りが多いことに気が付いた。
入り組んだ路地にある空き地。
悠登は人知れずその地に降り立った。
全ての術を解き、ともかく通りを目指して歩き始める。
細い路地には人気がなくとも、生活の息づかいは聞こえた。しかしながら、
(石造りの建物ばかりだけど……エアコンの室外機もない、電気の灯りも漏れてこない。なんなんだここ?)
違和感はどんどんと膨れていく。
鋭い目つきで辺りを探りながら進む悠登の耳に、賑わいの雑踏が聞こえてくる。何故だかその賑わいに胸がざわめき、すぐに駆け足を始めた。
ほどなく前方から光が射す。
悠登は思いきり飛び出した。
その瞳に映ったのは――
剣を腰に下げた大男、杖を持ちローブを被る者、衛兵なのか鎧を着こむ者、町人らしき猫耳娘、職人っぽいが背が悠登の腰の高さほどしかないおっさん、めちゃくちゃ重そうな金属製の槍を肩に担ぐ竜人間、軽装のエルフ耳の美人、ビキニアーマーのおねぇさん。
ぽん、と両手を打った。
「なんだ、異世界か」
異世界転移という話は学校で友人から聞いたことがあった。アニメなどが大好きで、特にファンタジーには目がない友人は、休み時間になれば熱心に語ってきたものである。
「あぁだから加護がなかったのか。そりゃラファエルなんていないもんなぁ」
なるほど納得と何度も大きく頷く。流石に呼ばう天使や神が不在にしているとは、想像だにしていなかった。
立ち止まってブツブツ呟く悠登に、道行く者たちが不審な視線を寄せているも構わない。
悠登は、肺が限界になるまで深く深く息を吸う。
そうして、
「なんっっっじゃそりゃぁあああああああああああああああああああああああああああ!?」
なりふり構わない全身全霊の大絶叫が通りに劈いた。その後には、人の波がぽっかり引いた空間に、膝から崩れ落ちた一人の少年の姿があるばかりであった。