スクーピー
「君、名前は?」
雨の中、石橋の上で蹲る少女に堪らず家を飛び出し声を掛けた。
「……スクーピー」
俺の呼びかけに少女は顔を上げてか細い声で答えた。しかし顔を上げた少女の右半分は酷い火傷のような跡があり、思わず目を丸くしてしまった。
「そ、そうか……」
整った顔立ち、白い肌、青い瞳。年齢は四歳か五歳くらいだとは思うが、見た目はラクリマのように美しい。しかし顔に残る傷跡があまりに酷く不気味で、気を抜けば直ぐにでも表情に嫌悪感が出てしまいそうなほど痛々しかった。
「君、お母さんとかいないの?」
既に全身ずぶ濡れになっているほど座り続けていた姿に、この子は孤児であるという確信的な思いはあった。しかしもし違えばただのヤバイ犯罪者になってしまう可能性もある為、少女の口から真実が聞きたかった。
「……ない」
少女はただじっと俺の目を見つめたままいないと答えた。それはまるで威嚇されているかのような圧を感じ、この子はもしかしてコミュニケーションの取り方も知らないのではと思ってしまった。
「そうか。じゃあ君は何処に住んでるの?」
「…………」
住むという言葉の意味が分からないのか、少女は一瞬だけ何かを考えるように瞳を左に動かしたが、何も言わなくなった。そこで言葉を変えて問いかける事にした。
「えっと……じゃあお家は何処にあるの?」
「……あっち」
家という言葉は分かるようだが、俺の問いの意味は理解出来ていないようで、目に付く家をあちこち指差し答えた。
「そっか……」
困った! この子はアドラやロンファン以上に厄介だ! どうする!
言葉は通じるが意味が通じない。恐らくこの子はほとんど親との時間を過ごしてはいない。今まで様々な変人と渡り合ってきた俺だが、このタイプは初めてだった。しかし! 伊達に変人相手に生き抜いてきただけの事はあって、ここで良い質問が思い浮かんだ。
「じゃあ今日は何処で寝るの?」
この質問の意味は理解出来たようで、少女はおもむろに立ち上がり橋の下を指さした。ただその時少女が立ち上がると、ワンピースの裾からぼたぼた雫が落ちるのを見て、とても悲しくなった。
「あっち」
少女の指さす方を見ると、そこはまだインフラ整備が整っていない昔の垂れ流しの下水道が見えた。
「どれ?」
「……あっち」
語彙力も無いようで、俺がただ流れる下水の何処と尋ねると、少女はあっちと言って下水が地下へ流れ込むトンネルの一本を指さした。
それはとても人が住めるような場所には見えず、これだけ浮浪者がいると言われるエリアでも、そこには人がいるような形跡すら見受けられなかった。
「そうなんだ」
覗き込むとここにいても悪臭が漂うほど劣悪な環境に、思わずえっ!? と声を零しそうになった。しかし少女を傷つけぬ為出来るだけ穏やかに振舞い、優しく答えた。
「他にも住んで……他にも一緒に寝てる人いるの?」
「……いない」
やはりこの子は孤児だ。それも俺が思うよりずっと酷い。これは俺の勝手な推測だが、恐らくこの子は顔の傷のせいで捨てられたのだろう。左側から見るこの子の顔は………そう思わざるを得なかった。
「ねぇ。今日は俺ん家で寝ない?」
「……うん」
「じゃあ家行こうか?」
「……うん」
あ、今俺変態だわ。今自分で言ってて犯罪者だと思った。
それでも体が冷えだす雨の中、これ以上この子に辛い思いをさせないと思うと、今は自分が英雄のようだと誇れた。
「手、繋ぐ?」
何でも良かった。とにかくこの子が少しでも寂しく無くなるのなら安い物だった。
「……うん」
表情はほとんど動かさない少女だったが、そう返事をすると俺の右に立ち、自分から手を繋いでくれた。その手は雨に打たれ続けたせいで冷たかったが、家に着く頃には柔らかくとても温もりがあった。ただ少し残念なのは、急いで家を出た為傘を忘れた事だった。
「だから駄目ですって! もしその子が浮浪者じゃなかったら、私達犯罪者になってしまいますよ!」
「わーってるよ! だけど雨降ってんだし少しくらい良いだろ?」
「駄目です!」
少女を連れ帰ると案の定エリックは猛反対した。しかし雨に濡れて体の冷えた少女を先ずは温かい風呂に入れて上げたくてそれどころでは無かった。
「まぁとにかく話は後だ。せめて風呂に入れるくらいは良いだろ?」
「駄目ですよ! もしこの間にも両親が探していたらどうするんですか! それにその子……」
「とにかく風呂だ! わりぃエリック、バスタオル用意して置いて!」
「あっ! まだ話は終わってませんよ!」
悪魔のエリックに人情を語っても無駄なのは分かっていた。何より今は早くこの子を寒さから解放する方が先だった。そこで床が濡れるのもお構いなしに少女を連れてバスルームへ向かった。
「なぁスクーピー? スクーピーはお風呂に入った事はあるかい?」
「……ふろ……知らない」
これにはそうかもしれないという思いがあったため、それほど驚かなかった。だが、髪から雫を落としながら知らないと答えた事には、少しばかり寂しさを感じた。
「そうか。お風呂はね、温かいお湯が出る場所なんだ。だからスクーピーは寒いだろ?」
「……さむい…………ブルブル」
寒いという言葉は知らなくても何となく俺の質問の意味が分かったのか、考えるように瞳を左に動かし逡巡すると、スクーピーは体を小さく揺すり寒いと答えた。
「じゃあ直ぐにお風呂に入ろうか。まだお湯は溜まってないけど……まぁとにかく先ずは服を脱ごうか?」
「……うん」
俺は正しい事をしているはずだ。なのに今再び自分で言っていて自分は変態だと思った。…………いや、俺は正しいはずだ!
そんな正義だか変態だか分からない狭間で葛藤していると、スクーピーはまだ羞恥心も芽生えていないのか、俺の目の前で早速ワンピースを脱ぎ始めた。
これにはさすがの変態の俺でも一瞬止めようと思ったが、正義の変態感の前では何よりも風呂が優先された。しかしスクーピーが頭からワンピースを脱ぐと、下水で寝泊まりしていた名残の悪臭と、泥だらけの体には下着の類は一切付けていなかったのを見て、もう自分が変態かどうかより、スクーピーにここまで酷い人生を送らせた親に怒りを感じどうでも良くなった。
「もうリーパーさん! 何……」
丁度そこへバスタオルを抱えたエリックが現れたのだが、エリックもスクーピーの姿を見ると絶句してしまった。
「わりぃエリック。話は本当に後にしてくれ。先ずはこの子を風呂に入れる」
「……分かりました。だけ……濡れた衣類は洗濯機に掛けておいて下さい。私はその子の服を買ってきます」
「ありがとうエリック」
「……いえ」
そう言うとエリックはバスタオルを置き、静かに出て行った。
エリックが友で本当に良かった。なんだかんだ言っても俺の気持ちを汲んでくれる。もしエリックがいなければ、俺は……まぁこの子に出会えたから良しとする。
「じゃあスクーピー、こっちに来て」
「……うん」
俺自身も既に雨で濡れていた為、そのままの格好でバスルームへ入った。
「じゃあちょっと待ってて、今お湯を出すから」
「……うん」
スクーピーは警戒心が無いのか全く疑うことなく指示に従う。それに俺の言葉には必ずうんと返事をする。そんな寡黙な姿が幼い頃のヒーと被り、余計に心苦しかったのだが、スクーピーは相当寒いのか、小刻みに体を震わせていたのを知ると、そんな事を考えている場合じゃないと慌ててシャワーの蛇口を捻った。
「ちょっと待ってて。もう少しでお湯が温かくなるから」
「……うん」
蛇口を捻るとボイラーが唸る。しかしいくら科学の力が優れていても魔法にはまだまだ勝てないのかなかなか水が温かくならない。
「もうちょっと待ってね」
「……うん」
手を当て何度もシャワーの温度を測るがまだ温まらない。その間もスクーピーの震えは大きくなる。こうなるともういっそスクーピーを抱きしめて直接温めて上げたくなる! しかしそれはもう正義以前にセクハラだ! 頑張れボイラー!
そんな俺の期待に応えてくれたボイラーのお陰で、やっとシャワーから湯気の立つ温かいお湯が出た。それでも家のボイラーは出足は安定性に欠けるため、再度湯加減を確認した。
「よし! じゃあスクーピー、シャワーを掛けるよ、手を出して。熱かったら言ってね」
「……うん」
恐らくスクーピーはシャワーを知らないと思い、先ずは手にお湯を掛けた。
「どう? 熱くない?」
「……うん」
「じゃあ体にも掛けるよ? いい?」
「……うん」
表情や仕草からも湯加減は程良いようで、スクーピーの表情が僅かに和らいだのが分かった。そしてスクーピー自身も嫌がる素振りを見せなかったため、出来るだけ脅かさないよう胸元からシャワーを当てた。するとこんなに汚れていたのかと驚くほど茶色い湯が足元に流れ出した。
「どう? 気持ち良い?」
「…………」
気持ち良いという言葉も分からないようで、スクーピーは答えを探すように頭を左、右と動かし、結局見つからなかったようで無言で俺の目をじっと見つめた。
「ああそうか。じゃあ……もっと掛けて良い?」
もう言葉では難しいと判断し、シャワーを少し前へ出し続けるかどうかを尋ねた。するとスクーピーはうんうんと頷き、「うん」と返事をした。
「じゃあこれに座って」
「……うん」
座るは分かるようで、バスチェアを差し出すとスクーピーは腰を下ろした。だがやはり風呂には入った事はないようで、俺の方を向いて座った。
「あぁごめんスクーピー。あっちを向いて座って。そしたら今度は背中から掛けて上げるから」
するとスクーピーは分かったと小さく二回頷いたが、意外と度胸はあるようで、俺に頭を向けポンポンと叩き、頭から掛けろとアピールしてきた。
「ん? 頭から掛けても良いの?」
「……うん」
「そうか。じゃあゆっくり行くよ」
「……うん」
こういう経験は全くないため、恐る恐るスクーピーの頭にシャワーを当てた。すると案の定俺が下手くそだったようで、頭からお湯を被ったスクーピーはプシュプシュ言いながら顔を物凄い勢いでこすり始めた。
「あぁ! 悪い! 大丈夫かスクーピー!」
スクーピーにとっては相当強烈な初体験になってしまったようで、大丈夫だと何度も頷き頭を上下させるが、プシュプシュが止まらない。それでも嫌な経験では無かったようで、落ち着くと再度頭から掛けろとアピールしてきた。
ただ、頭から流れ落ちるお湯は今まで以上に茶色く、人はここまで汚れる事が出来るのかと思うほどの色をしていた。そしてあれだけ激しく顔を擦っても痛い素振りを見せないスクーピーに、顔の傷は相当昔のもので、一体どれほど過酷な扱いを受けて来たのかを思うと、やるせない感情が沸いた。
だがその後しばらくしてシャワーに慣れて来たスクーピーを洗い続けると、次第に生まれ持った美しい色白の肌が顔を出し、バスルームを出る時には煌めきすら感じる銀色交じりの白髪を見たとき、この子は天に愛されて生まれて来た存在なのだと崇めたくなるほどの姿に、少しだけ穏やかな気持ちになれた。