89話・衝撃の出来事
この屋敷で働いている者は、アントンに上手い事、吹き込まれて洗脳されたみたいに信じ込んでいる。この状態で私が何を言おうと聞き入れてもらえなそうだった。
怒りで身が震えそうになった時だった。部屋の外が騒がしく感じられた。使用人達が誰かと揉みあっているようで、時折、侍女らのキャーキャー言う声が聞こえ、そのうちこちらに向かって騒々しくなって来た。
「お待ち下さいっ。なりません、この先は……!」
「行かせてっ。あの男に用があるのよ」
「御用ならこちらで伺います」
「もう、そこ邪魔っ。退きなさいよ!」
声からして怒鳴っている女性を、数名の男性の使用人達が引きとめようとしているようだ。その声の主には簡単に想像がついた。厄介な女性が来訪したと思っていると、部屋のドアがバターンっと開かれた。
「アンナ?」
「許せないわ。アントンっ。私よりその女を取るだなんて」
アンナは鬼のような形相で突っ立っていた。両手で銀のナイフを握り締めている。結い上げた髪の毛は所々、ほつれが見えて乱れていた。別人のように頬がこけていて驚いた。
その彼女がアントン憎しと、こちらに向かってかけてきた。
「止せ。アンナ!」
「……!」
私は一瞬、何が起きたか理解出来無かった。アントンに強く腕を引かれたと思ったら、自分のお腹の脇をアンナのナイフによって刺されていた。急激な痛みに耐え切れず、私は意識を手放した。
「ユリカ! 良かった。目覚めてくれて」
「ユリカさま。ご気分は如何ですか?」
私が意識を取り戻したのは二日後の事だった。薄絹が垂らされた寝台の中。こちらを窺う顔が二つ。何事もなかったかのような顔をしているアントンに、涙ぐむミール。
目覚めたばかりで頭が上手く回らない状態の私は、とにかく体を起こそうとしたのだけど腹部が痛んで起き上がれなかった。
「つ……!」
「無理をしては駄目だ。きみは私を庇ってアンナに刺されたんだから」
「アンナに刺された?」
「覚えてないのかい? アンナが私にナイフを突きつけてきて、きみはそれから守るように私を庇ったんだ」
しおらしいアントンの態度に違和感を感じると、彼は記憶とやや違う事を言い出した。あれは庇ってなんかいない。私を盾に使った男が何を言う? アントンが私の腕を引っ張り自分の前に私を突き出したのだ。あの時のアンナは物凄く驚いたような顔をしていたように思う。
何も知らないミールは安堵したようにほほ笑みかけてきた。
「ユリカさま。ご無事で良かった。このまま目を覚まさないかと心配致しました」
「アンナはどうしたの?」
「アンナならあの後、捕らえられて牢屋に入ったよ。興奮が酷くて数人の屋敷の男達と取り押さえた。もう安心していい」
「ユリカさま。もう大丈夫ですからね」
「私は少し用で屋敷を空ける。ミール、ユリカのこと任せたよ」
ミールの肩を軽く叩き出て行くアントン。その姿にいつかの自分が重なった。私が離縁を言い渡された日。その行動はやはり彼にとっては何でもない事だったのだ。私は所詮、夫にとって単なる同居人でしかなかった。
「ユリカさま?」
痛みを恐れて身を起こせない自分の身が恨めしい。ベッドの中から顔だけ動かして、アントンの背を見ていたらミールが名残惜しいと受け取ったようだ。
「ユリカさま。旦那さまはすぐお戻りになられますよ」
私がきっとアントンのことを心配しているとミールは勘違いしているのだろう。私はアントンが恐ろしい男に思えてならなかった。心底ここから逃げ出したいと思った。




