60話・悪魔のほほ笑み
「あらら。この方、気を失われてしまったわ」
「奥さまも悪魔ですね。侯爵失禁していますよ。よほど怖かったみたいですな」
「私が悪魔?」
私とハッターレ侯爵とのやり取りを見ていたフィーの部下達が、「凄い」と、あ然としている中、私の護衛として同行していたキランは、背後から声をかけてきた。その隣で控えていたドーラも言った。
「奥さまの悪魔のほほ笑みには誰も敵いませんよね」
「悪魔の笑み?」
「お忘れですか? 奥さま、前にも侯爵に向けて笑いかけていたじゃありませんか。ノアさまが侯爵に撃たれそうになった時ですよ」
あの時は奥さまの後を追うのが大変でした。と、前置きをしてからドーラが教えてくれる。
あの日、仕出かした事を私はすっかり忘れていた。侯爵に投げつけた靴先で顎を掬い上げ、顔を覗きこんだ時に、「あら、奇遇ね、私もそう思っていたところよ」と、挑戦的に笑いかけていたことを。
それが侯爵には忘れられない出来事になっていて、今もトラウマになっていたようだ。あの時は侯爵の事を許せない思いでいっぱいで。挑発的に言ったとは思うけど、他から見れば笑い掛けていたように見えていたとは知らなかった。
その事を知ってどうしようと思っている私にドーラが促す。
「奥さま。もう用事はお済みでしょう? 後のことはこちらの方々に任せて帰りましょう」
牢の中では、フィーの部下と世話人が気を失った侯爵の後始末に追われていた。ここにいても私のやれることはない。すごすごと引き返すことにした。
「どうしよう。ドーラ。私のほほ笑みがそのうちノアに怖いと言われて、嫌われちゃうかもしれないわ」
「大丈夫ですよ。ご安心下さい。そんなことぐらいであのノアさまが嫌うことはないですよ。フィーさまだって私達だって平気ですから」
「本当?」
あなた達が私のことを悪魔のほほ笑みと言ったのに? 牢屋から帰ってくる馬車の中で、不貞腐れる私にドーラが言った。誘惑の一言だった。
「奥さま。この近くにお菓子の美味しいお店があるんです。お寄りになりませんか?」
「えっ? 本当? 行く行く! ノアに買っていくわ」
さすがドーラは私の扱い方を心得ている。って、使用人に転がされてしまう私って、ちょろいのかも知れない。でもハッターレ侯爵と話していてなんだかどっと疲れた気分だし、甘いものでも食べて癒されることにした。




