59話・さようなら
「ノアにとってそれはどんなに怖かったことでしょうね。父に会わせてやると言いながら、こちらの言う事を聞けないならば足を打ち抜いて動けなくしてでも無理やり父親のもとへ連れて行くと言われたのだから」
「それはノアさまには父親が必要だと思ったのです」
「私達にとっては大きなお世話よ。私達にとって必要だった夫に密偵の女を近づけて、色仕掛けで奪う事をしておきながらまだそのような事が言えるの?」
「それは……あの御方が……!」
ノアにとって父親が大切だなんてよく言えたものだ。その彼から父親を取り上げたくせに。ねめつけると侯爵は渋面を作った。
その侯爵の態度に容易に想像が出来た。アントンは生真面目で仕事に忠実だが、視野が狭すぎる一面もあった。彼の下で働いていているうちの何人かがしょっちゅう異動願いを出すことがあり、その愚痴を陛下から聞かされていたらしい側妃である姉が、「あのお方は堅物すぎるし、完璧主義で自分のように他の者達にも出来る事を要求するから」と、苦笑いしていた事があった。
「あなた方も勝手ね。恐らくあの生真面目な夫が扱いにくいと分かったのでしょう? 夫に自分達の言うことを聞かせる為に、ノアを攫って人質にして言う事を聞かせようと思ったのかも知れないけど、お生憎様。あの人と私達はもう縁が切れていますの。あの人はあなた方に差し上げますわ。どうぞ、お好きになさって」
私の強気な発言に、侯爵はびくりと肩を揺らした。アントンはもうガーラント家当主からは縁を切ると言われている。あの人はもう二度と、ガーラント家の敷居をまたぐことは出来ないだろう。私達にとって他人となる夫の為に人質なんてとんでもない。夫は煮るなり、焼くなり、そちらで好きにして下さいと言えば、ハッターレ侯爵は言葉を搾り出すように言った。
「……宜しいのですか? あのお方はトロイルにとって……あなた方も恩恵に預かることが出来るというのに?」
「ハッターレ侯爵。なにか夢でもご覧になったのかしら? 今、あなたがいるのは牢屋なのよ。宮殿ではないの。あなたは罪人として裁かれている。そのあなたの発言次第によっては、マノン嬢や一族郎党皆が迷惑を被る事を御存知のはずよね?」
「……!」
「壮大な夢物語はお止しになって。あなたの今の発言はトロイル国を乗っ取ろうとしている者の発言にも聞こえますわ。あなたはトロイルの間者でしたの? ハッターレ侯爵家は我が国リギシアの高位貴族だと思っておりましたが?」
きな臭いトロイル国に支援をし、トロイルの密偵を国に引きいれたばかりではなく、しかもトロイル国の内情に首を突っ込んでいる場合なのですか? 自分の首の心配をしたらいかが? と、言えば侯爵は目が覚めたようにハッとした。
「我が子ノアをそのような下らない夢物語に巻き込まないで頂きたいわ。まだ夢から覚めないようでしたら、今すぐここで引導を渡して差し上げた方が良いかしら?」
「……!」
私は扇子を広げ口元を隠すと、侯爵に向かって「バーン」と、銃声を真似て声を発した。
「さようなら」
侯爵は瞠目した。




