36話・もう二度と帰れない
呆然としたアントンに苛立つように少女が聞いてきた。
「買うの? 買わないの?」
先ほどまでは丁寧な言い方だったのに、少女はアントンにされた行為を不愉快に思ったようで言葉を荒げる。自分が少女と同じ年頃なのもあって、丁寧に接するのが馬鹿らしく思えたに違いなかった。
「買うよ。ここにある花、全部もらう」
意地を張ったように言えば、少女は目をぱちくりさせた。案外、可愛い顔しているんだな。と、少女に惹かれた。その頃には自分には実の妹のように可愛がっている許婚がいたが、彼女に対する想いとは別の何かがじわりと胸の内を熱くした。
「こんなに花を買ってどうするの?」
「母上さまに差し上げたいんだ」
「ふ~ん」
自分を守って亡くなった母親。本当ならこの世の中に生まれてくるのを厭われてもおかしくない状況だったのに、母は自分を生かしてくれた。アントンにとっては命の恩人だった。
「運ぶのを手伝ってあげる。貸して」
花を売ったらサッサと帰る気でいたはずの花売り娘は、アントンが抱え込んだ花束の半分を持ち上げた。
「どこへ行くの?」と、聞いてくる。
「この先の教会だよ」
と、答えれば黙ってついてきた。
「あなたのお母さんって……?」
「ここに眠っている」
アントンは一つのお墓の前に進み跪いた。その前にはすでに白いユリの花が手向けてあった。母の命日に花を手向ける相手なんて限られている。恐らく父が執事に言いつけて用意したものだろう。
父は自分が戦場にあっても、母の命日を忘れたりはしない人だ。母は最期まで父に愛されていた。それがアントンにとっては救いだった。
お祈りを捧げて立ち上がると、まだ少女がその場に残っていた事に気が付いた。
「つき合わせて悪かったな。もういいぞ」
「このあとどこ行くの?」
少女が不安そうに聞いてくる。自分は家出でもしてきたように見えたのだろうか? 他人の心配をするなんてよっぽど人が良いいらしい。
「屋敷に帰る。きみももう帰る時間だろう?」
さあ、帰ろうと手を差し出せば、少女は安心したようにその手を取った。
「ねぇ、あなた何と言うの?」
「僕はアントンだ。きみは?」
「私はアンナよ」
少女に聞かれて、自然と名乗っていた。あの日から紆余曲折を経て二人は再会した。これが運命と言わずして何なんだろう?
あの時の少女が、後妻に仕える使用人として目の前に現れた時には驚いた。
「あれからずい分と経っていたのに、あなたが私のことを覚えているだなんて思いもしなかったわ。だから声をかけられてビックリした」
「きみだって僕のことを覚えていたじゃないか?」
「それは……」
だってあなたは私の……というアンナの呟きは聞こえなかった。
アントンの胸元では細かい銀の装飾がついたペンダントが揺れていた。母親が残した形見のロケット。その中には美しい女性の絵姿が納められている。それが証拠となってアンナ達仲間を信頼させ、アントンはこの国に上手く入り込む事が出来た。
これで母親の仇を討ってやれる。その為にはリギシア国のガーラント将軍の息子であり、近衛総隊長職なんて邪魔なだけだった。
もう二度とリギシア国には帰らない。そう覚悟してこの国に渡ってきたというのに、時折、あの王都の屋敷が懐かしく思えた。あそこに住む住人達を思い出しては心が軋んだ。
仕事に専念していた時には、屋敷に帰るのも面倒に思われて避けていたというのに、こうしていざ、離れてみるとやけに恋しく思われた。我ながらなんて勝手なヤツだと思う。
二度とあの生活に戻れないと思ったら、急に惜しくなった。
アンナに言ったなら、自分から手放しておいて何を言っているの? と、馬鹿にされそうだが。
自分のことを分かって欲しいとは思わない。それでもあの温い、ままごとみたいな家族が非常に恋しかった。




