16話・私って馬鹿ね
私はあれからノアに離婚のことを言い出せないでいた。朝起きて今日こそは彼に言おうと思うのに、「おかあさま」と、迷いなく慕ってくれる声と、あの澄んだ瞳を向けられると、その思いは霧散してしまう。
まだノアの母でいたくて、明日言おうなんて後回しにしていたのだ。そのうちアントンに言い渡された期限があと残り一週間という時になってそれは起こった。
「奥さま────」
「奥さま。どちらにおいでですか?」
ノアと手を繋いで庭の散策をしている時だった。薔薇の花が咲き乱れた花壇の向こう側から中年女性の侍女頭のクラーラと、老年にさしかかった執事のテオが私を捜しているのが見えた。クラーラは普段、おっとりしているし、何があっても毅然としているようなテオがこのように慌てているのは珍しかった。
「どうしたの? 二人とも」
クラーラとテオは顔色が悪かった。その二人の後からやってきたノア付きの侍女もなんだか様子がおかしい。ノアと目が合うと、その侍女は「ノアさま。そろそろお勉強の時間です。お部屋に戻りましょう」と、言い、ノアが大人しく従ったのをいいことに、私の手から彼を毟り取るようにして連れて行ってしまった。
「何かあったの?」
まるで侍女はこれから何が起こるか分かっていたような態度である。この場にノアがいては都合が悪いと考えて連れ出したようにも思えた。二人は侍女とノアが去ったのを確認するように見てから、私と向きあった。テオとクラーラは顔を見合わせる。二人の態度からこれから話される事はいい話題ではなさそうだ。
もしかしてアントンが帰って来て、さっさと私を追い出せとふたりに命じたとか? そう思いながら二人の顔を交互に見ると、テオが言いにくそうに言った。
「旦那さまが駆け落ちなさいました」
「……!?」
「申し訳ありません。奥さま。わたくしの監督不行き届きです」
テオが言った言葉に、あ然とした。あの仕事に実直なアントンが駆け落ち? 嘘でしょう? 相手は誰なんだろう? 信じられなかった。その私の前でクラーラが深々と頭を下げてくる。
「奥さま。どのような罰でもお受けいたします」
クラーラが自分を罰して欲しいと望んでいた。つまりは夫のアントンが駆け落ちした相手とは、彼女の責任を問うような相手ということになる。
「まさかその相手は侍女なの? 誰?」
顔をあげたクラーラが涙目になっていた。テオは苦渋の表情を浮かべながら私の問いに答えた。
「アンナです。我々も信じられない思いですが」
「アンナ? うそ……!」
頭の中が真っ白になった私の前で、「申し訳ありません」と、クラーラが泣き出した。夫は書置きを残していたらしい。それをテオから渡されて恐る恐る目を通した私は、事情を悟り自分の間抜けさに呪いたくなった。
夫は浮気していたのだ。それも私が一番、信用していた相手と。それを読み終えた時には自分の滑稽さに笑いたくなった。
「私って馬鹿ね」
「奥さま?」
私は気がつきもしなかった。疑いもしなかったばかりか、相手の事を深く信用までしていたのだ。アンナは真面目で忠実だった。彼女のその態度からまさか夫を取られる羽目になるだなんて思いもしなかった。
現実から背けるようにして私はその場から駆けだした。一刻も早くこの場から消え去りたい気持ちに駆られた。どこにも行くあてなんてないのだけど。
背後から「奥さまっ」と、呼びかける声がしたけど、振り返る気にすらならなかった。