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8皿目 串

「お邪魔しまあす……」


 ガラリと引き戸が開く。


「おや、珍しいね。1人かい? それも、そんな様子で」


「ふぁい……ぐすっ……」


 顔に涙を宿した女性が1人、やってきた。






「おっさーん。やって――うおっ、優奈さんいるし」


「びえええええんっ! ずびっ!」


「泣いてるし、泣き上戸? それともおっさんが泣かせた? ダメじゃん泣かせちゃ」


「違えよ。俺じゃねえよ」


 藍斗やってくる。相変わらずの様子で冗談か本気で言っているのかわかりにくいような声。


「聞いた話だと昨日が――」


「あっ、わかった。大体」


 遼平が言い切る前に声で遮って、ポンッと手を打つと、彼は続ける。


「昨日がたしか結婚記念日だったんだけど、すっかりそんなこと忘れちゃってたってことろじゃない? 合ってる?」


 シンと静まり返る。藍斗は「合ってる?」と再度聞きたげな顔をしていたが、さっきまで泣いていた彼女――優奈はその声を止まらせた。


 そして、


「びえええええええええええええええええええんっ! ぐすっずびっ、うわああああああああああああああああああんっ! びえええええええええええええええええええんっ!」


 より一層ボリュームを上げて泣き出した。


「えっ、えっ?」


「藍斗、お前なあ。彼女持ちなんだったら少しくらい相手の心読めるようになろうぜ」


 呆気にとられている様子の藍斗。

 半目で「よくもいらないことをしてくれたな?」と睨みつける遼平。


「あのう……お邪魔します……」


「ああ、ごめん。果穂ちゃんも来てたのね。久しぶり」


 藍斗の後ろに隠れるようにしていた藍斗の彼女。この状況にかなりどぎまぎしているようだった。


「今のデリカシーに欠ける藍斗の説明でなんとなくわかったと思うんだけど、ここで泣いてる優奈ちゃんがね、昨日結婚記念日だったんだけど」


「このクズ以下の知能と記憶力しか無い私が、そんな大切な日をあろうことか忘れてしまってて。ぐすっ。うわああああああああああああああんっ! 私のバカあああああああああああああっ!」


「とまあ、なんの準備もできず、その後悔からこの結果というわけ」


 疲れている様子の遼平。遼平が疲れているのはいつものことだが、今日はより疲れているようだった。


「じゃあアレ? おっさんはあの人待ちなの?」


「ああ、俺がどうこうするよりも、圧倒的に効果的だろ?」


 どうやら、誰かを待っているようだったが、今の会話からはそれが誰なのか、最近始めてきたばかりの果穂にはわかりそうもなかった。


 とりあえず、グズっている女性が1人、本日の「呑ん処」にいた。






「遼平さん、ここに優奈が……やっぱりここだったか」


「お、やっと来たか。待ちわびたぞ」


 勢いよく開け放たれた入り口。そこには1人の男が息を切らせて立っていた。走ってきたのだろう。


「ほら、優奈さん。お待ちかねの人がやっと来たよ」


 藍斗が優しく声をかけると、優奈は涙まみれでぐしゃぐしゃの顔をゆっくりと起こす。


「葵さ……ん、ずびっ」


「お前、なんて顔してるんだよ。ちょっと待ってろよ、たしかここにティッシュが……あった。とりあえず鼻かめ」


 取り出されたポケットティッシュから2、3枚ほど中身が抜かれる。受け取った優奈は鼻に当ててかむ。


「それから……ほら、動くなよ」


 タオルハンカチを取り出して、丁寧に顔を拭く。優奈は葵に言われた通りに動かないでされるがままである。


「とりあえずこれでいいか。ああ、すみません遼平さん。妻がご迷惑をおかけしたようで」


「いいよいいよ。それよりも昨日のことを相当気にしているみたいだから、話聞いてあげな」


 そのあたりでやってくれて構わないから。と、適当に促す。


 遼平たちがそっとフェードアウトして、できるかぎり2人きりに近い状況になったところで葵が口を開く。


「あのな、優奈」


「ごめんなさいごめんなさい葵さんごめんなさいごめんなさい」


 葵が話しかけたかと思うと、それを遮るかのようにして優奈が謝り始める。完全に萎縮してしまっているようだった。


「ごめんなさいごめんなさいごめんな――」


「優奈っ! ……少し落ち着け」


 葵が声を荒らげて言った。葵はどちらかといえば、というかかなり感情の起伏が見えにくい人間なのだが、今ばかりは珍しく、わかりやすく怒った声を出していた。


 そんな声に気圧されたのだろう。「ふぁいっ!」と反射的に答えていた。


「俺は……優奈のことは好きだけど、卑屈になってる優奈はそんなに好きじゃない」


 真剣な顔をしていたからなんの話かと思えば、好きの話だった。小学生が言いそうなくらいに子供じみた、そんな物の言いよう。

 ただ、それだけの言葉に、優奈の顔が一気に青褪める。


 再度大泣きを始めようかというような、そんな顔になった優奈。意識せずにまた「ごめんなさい」と謝ろうとする。


 けれどもそれは、葵が頭に手を当てて撫でたことで止まる。


「だからさ、もっと元気に笑って。俺はそっちの優奈の方が好きだから」


 優しく話しかけるその言葉に、優奈は必死に涙をこらえた。

 とにかく、彼に笑顔を見せようと。


 けれども高まる気持ちは抑えきれずに、ついには決壊した。


 優奈は、大好きな葵の胸へとしがみつき、思いのままに泣きじゃくる。まるで子供のように。

 けれども、その涙を咎めようとする人は、ただ1人もいなかった。


 それが、悲しみによるものではないと、誰もがわかっていたから。






「本当にお騒がせしました。ほら、優奈も」


「お騒がせしました」


「いやいや、大丈夫だよ。それよりも気分は落ち着いたかい?」


 遼平がそう聞くと、優奈は首を縦に振って肯定した。


「そりゃあよかった。」


 ガラスコップを5つ取り出して、氷、冷えた麦茶を注ぐ。

 明るい茶色のコップをそれぞれの前に置いたところで、


「それじゃ、おっさん。そろそろ注文いい?」


 今までの空気と違った、まるで拍子抜けした声。


「あ、それなら俺らも」


 葵もそう言って藍斗のノリにのってくる。

 なにを頼むかは、それぞれ2人で相談しているようだった。


 そして、遼平は気がついた。

 いつもなら、この時間帯なら水鳥が来ていそうなものだが、珍しくまだ来ていなかった。


 つまりは、ここにいる中でリア充でないのは自分だけだという事実に。


 そう思うと、なんとなく悲しく思えてきた。

 ついでに悲しみや寂しさを共有する相手がいないことに、虚しさも覚えた。






「はい、お待たせ」


 紙を敷いた皿に狐色した串が乗っていた。横に置かれたのは黒色の液体の入った容器。


 パチパチパチと、店内にはそんな音がしていた。それも2種類。


 1つは、今さっき葵と優奈の前に出された皿、串カツ。リズミカルで途切れることなくなり続ける、軽い音。


「おっさーん、まだー?」


 もう1つは藍斗がちょうど今催促している皿。こちらは串カツと違い、不規則に、時折聞こえてくる、炭の火の弾ける音、焼き鳥。


「待て待て。鳥は焼けるの時間がかかるんだよ」


「つってもよー、腹減ったんだよ」


「藍斗くんっ! ま、待とうよ。ね? ね? 遼平さんは串カツに焼き鳥に忙しいんだから……!」


 あわあわしながらも果穂が藍斗をたしなめる。そうこうしているうちに、出来上がる。


 串カツが。


「はい、揚がったよ」


「ありがとうございます」


 食べるのに必死で追加に気づいていない優奈に変わって葵が受け取る。


「それにしてもさ、おっさん。そんな炭火焼きのセットとかあったんだな」


「まあ、一応な。夏場になったら特に土用の丑の日前後に鰻の注文が入ったりするから、対応するために。やっぱり提供するならできるだけ美味しいものを提供したいじゃん?」


 へえ。と、藍斗が感心の声をあげる。


 炭火の上に並べられた肉の表面からジワジワと脂が浮いてきたかと思うと滑って落ちて、炭にかかる。ジュウウという今にも食欲をそそりそうな音。


「はい、これくらいでいいだろ」


「お、来た来た!」


 若干焦げ目の入った鶏肉たち。主に白色した串が置かれる。


「塩焼き?」


「そうだ、好みで山椒とか七味とかいけ」


 いつも通り箸の近くあたりに置いてあるだろ? と言っているような遼平の視線を藍斗は受け取る。


「そういえば、串カツをタレ以外ってあんまりないけど、焼き鳥って塩焼きだったりタレ焼きだったりするよね。好みも大きく分かれるし」


 藍斗が皮の塩焼きを咀嚼しながらそう言う。「俺は塩焼きのほうが好きだけど」らしい。


「そういえばそうだな。ちなみに俺はタレのほうが好きだぞ」


 これは葵。


「まあ、好みの問題もあるが、一般的には脂が多いもの、代表例なら今藍斗が食べてる皮だな。こういうものは塩焼きが好まれる傾向にある。逆にレバーやハツのようなクセや臭いが強いものにはタレ焼きが好まれたりする。まあ、あくまで傾向だけであって、結局は好みなんだがな」


 ちなみに個人的にはハツは塩焼きの方が好きだ。と、遼平がつけ足す。


「あー、たしかにレバーの塩焼きってあんまり見ないですね」


 串カツを相変わらずむさぼり食べている優奈がもしゃもしゃしながら言った。

 行儀が悪いと葵からたしなめられていた。


「なあ、おっさん。串カツこっちにもくれない? さっきから果穂が串カツに釘付けなんだよ」


「あ、ふぇっ!? いや、そんなこと――」


「ああ、それなら焼き鳥をこっちにもください」


 男2人がそう注文する。遼平は小さく笑って「あいよ」といらえを返す。






「ごちそうさまでした」


「ごちそうさまでした!」


「あい、お粗末様でした。また来てくれよな! 今度は、2人一緒に暖簾くぐってくれ」


 ニッと笑ってそう告げる。苦笑いの優奈が出て、扉が閉まる。


「ふあー、それにしてもあの2人はたまにああいうことがあったりするけど、ホントに仲いいよな。」


「俺からすりゃあお前らも十分仲いいぞ。リア充め」


 半目の遼平。全くもってそういう気はなかったのか、あっけらかんとした藍斗。


「いやまあ、やっぱりあの葵さんの言葉遣いはすごいなあ。何回か見てるけど、いつ見ても惚れ込みそうだわ。おっさんもあれくらい言えたらモテたろうに」


「いらないお世話だ、うるさい」


 ケラケラと笑いながら藍斗は煽り気味。遼平の顔が引きつっているのに気がついているのだろうか?


「……とくんもそれくらい言えたら、もっとモテる」


「え? なんか言った? 果穂」


「藍斗くんも、それくらい言えたら、もっとモテるのにって。そ、その、藍斗くんほら、か、かっこいいし」


 顔を真っ赤にさせて果穂がそう言っていた。今にも頭から湯気が立ち上りそうなほどに。たとえるなら、茹で蛸に似ている。


「言われてんぞ? 藍斗」


 さっきの仕返しか、遼平が珍しく悪い笑顔だった。しかし、全く気にしていない様子で、


「え、なに言ってんだよ。そんなの必要ないじゃん」


 藍斗はそう言ってみせた。なんのことやらさっぱりのようで、藍斗を残した2人はポカンとしていた。


「別に俺には果穂がいるから、モテたいとか思わないし。なにより不特定多数に好かれるより、果穂に好きって思えてもらえるほうがずっと嬉しいし」


 サラッと言った。まるで当然だろう? と言わんばかりの表情で。

 しかし、その言葉の影響は思ったよりも大きくて。


「はうあ、えっ、ひゃっ! その、えっ、あのえと、あああああっ! そのでふひゃっ!」


 さっきまでですでに茹で蛸寸前だった果穂を、完全に茹で蛸化させ、その上思考回路をショートさせて焼き切ったり。


「俺、こいつがリア充になれて俺がリア充になれてない理由の一端を垣間見た気がする」


 遼平から、メンタルをぶんどってしまったり。


 本人は全く意識しなかった、いわば無意識爆弾は。


 見事2人に命中し、戦闘不能に追いやっていた。






 十数分後、未だ新たな客は来ていなかった。


「ったく、最近の高校生は怖いねえ」


「なんの話をしてるんだよ。おっさんがさらにおっさん臭くなるぞ?」


 店内には復帰した遼平と、未だ呆然としている果穂と、この状況の犯人、爆破犯の藍斗はひょうひょうとそう言っていた。

 無自覚なのが、また怖い。


「そんなことより、今日は遅いね。水鳥さん」


「なんだ、待ってるのか? それならもしかすると今日は諦めたほうがいいかもなあ」


 キョトンとする藍斗に遼平が答える。


「ほら、多分ここまで遅くなっても来ないってことは、多分」


「ああ、残業……ね。俺、社会人なるの嫌になってきた」


「そんなことで嫌になられてもなあ……水鳥ちゃんの務めてる会社はマシな方だぞ? たいてい定時で帰れてるらしいし、給料もそれなりにいいらしいし。こうやって残業するのはゴタゴタがあったときだけらしい」


 まあ、病気とかって可能性もなくはなかったのだが、2人ともに前日に水鳥に会っていて、ものすごく元気だったから、自然と除外されていた。


「そういうこった、ほら、そろそろ時間も時間だし、帰った帰った。お前だって果穂ちゃんを送らなきゃだろ?」


「ああ、それもそうだな。でも、送らなくてもいいかもしれない」


 はあ? と、遼平が間の抜けた顔をする。

 

 時計の針は、いまにも8に差し掛かりそうだった。

 そんな時刻に、女子高生を。彼女を1人で帰らせるのかと。


「おーい、果穂ー! 起きろー!」


 声だけではまだ気づけないようで、わっさわっさと揺さぶられ始める。

 それでいてやっと、気がついた。


「はっ、あっ寝ちゃってた」


「よし、起きたな。帰るぞ。……泊まってくでいいんだよな?」


 ピシャリ、と。空気が固まった気がした。


「えっ、へっ、ふぁっ! ふひゃあああああああぁぁぁぁ……。」


 起きたばかりだった果穂は、そう言ってまたも気を失う。見事な即落ち。


「おいおいおいおい、起こしたばっかの人間を気絶させてんじゃねーよ」


「ええ、これ俺のせいなの?」


「それにしても、お前。泊まってくかってそれは……」


 疑いのキツい視線。向けられた藍斗は気づくや否や、急いで弁解を始めた。


「あっ、別に襲おうったって気持ちはないからな! ついでに補足しとけば俺はまだ童貞だし、なんならやるのは最低でも高校出てからだと思ってるからな! 泊まるのだって、果穂側の親御さんの許可とってるし!」


 なかなか必死だった。ちなみに、藍斗の両親には許可とってないし、もちろんながら泊まることを知らない。


 遼平は半分疑いの目で「最近の若者は進んでるんだなあ」と、棒読みしていた。


「まあ、やるならちゃんと避妊しろよ。あと性病対策。」


「だからやらねえっつーのっ!」


 なんというかもう、遼平はどうにでもなれと思えてきていた。


 あまりの、虚しさに。






「びえええええええええええええええええええんっ! ぐすっずびっ!」


 どこかでこのくだりを見たことがある。遼平はそう思った。


 翌日のことだった。本日最初の客は、最強の常連、水鳥。


 そして、泣いているのも、水鳥。


「やっどごれだよおおおおおおおおおっ! きのうはすびばぜえええええええんっ! ざんぎょうのばがああああああああっ! わだじのばがあああああああああああっ!」


 とまあ、そんなわけである。なんでも昨日は珍しく仕事でポカをやらかしたらしく来れなかった、ということらしい。


「おっさん、やって――おっさんら水鳥さん泣かせちゃだめじゃない。」


「いやいや、俺のせいじゃないじゃんっ!」


「いや、おっさんのせいでしょ!」


 えっ、えっ、と。互いに意見の食い違っているようで、


「アー、ソウダッター。今日ハ果穂ノ家ニ行コウト思ッテイタンダッター」


 あからさますぎる棒読み。それに、遼平が叫ぶ。


「おいおいちょっと待て! せめてこの状況をどうなんとかすればいいかくらい教えてくれっ! たとえば誰なら泣き止ませられるとかっ! 昨日みたいにっ!」


「うーん、葵さんと優奈さんを基準にしたら泣き止ませられる人物は……」


 少し考えてから、藍斗はいたずらげに言った。


「うん、おっさんしかいないわ。じゃ、頑張ってー!」


 悪い笑みを蓄えて、藍斗は店から逃げ出た。咄嗟に追いかけようとしたが、遼平はやめておいた。


「ほら、泣き止んでくれないとオーダー取れないぞ? で、なにが食べたいのさ?」


 遼平は、水鳥の頭をポンポンして慰めながら、そう聞いた。

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