7皿目 おにぎり
この日の遼平は、憂鬱だった。
まだ開店前だというのに1人イスに座ってため息なんかついている。
店内は静かだった。時計が秒針を刻む音以外に聞こえてきそうにない。
時たま外から自転車が走る音や子供の声が聞こえるが、せいぜいその程度。
店内は静かだった。炊飯器の電子音がやけに大きく聞こえる程度には。
聞こえてきたその音に、遼平は深くため息をついた。それはもうとても深く。
すぐには向かわない。10分ほど蒸らす必要がある。その間もやはり静かだった。
ただ、炊飯器から漏れてくる米の炊けた匂いは食欲を掻き立てそうだった。
遼平にはどうも食欲は沸きそうになかったが。
10分経って、ゆっくりと腰を上げ、炊飯器を開ける。
中には白く粒だった米が所狭しと揉み合い、キラキラと光を反射させていた。
1升炊きの炊飯器の釜の、そのギリギリまでぎゅうぎゅうに。
俗にいう「限界炊き」だった。この炊飯器の限界炊きは11合とちょっと。10合で1升なので、1合と少し多く炊ける。もちろん正しい使用法ではない。
遼平自身、炊飯器に負担をかけるのは好きではないのでこれをすることは普段ならまずない。
つまり、今日は普段通りではいかないのだ。
ちなみにではあるが、一般的には1合で茶碗2杯分のご飯と言われているので、だいたい22から23杯分程度はあるといことになる。相当な量だということはこれでわかるとお思う。
杓文字で下からひっくり返すようにして軽く混ぜる。熱気が手にかかって相当に熱いが、割と熱さには慣れがあってそこまで熱く感じない。
棚から櫃を引っ張り出してきて、釜の中身をきれいそのまま櫃へと移す。
米が中に残っていないことを確認してからミトンを持ち出して、それらで釜をシンクまで。
本当ならば自然に冷めるのを待つべきなのだろうが、やはりのこの日はそのままではどうもいかないようで、蛇口の水で強制的に冷やす。
釜にはよくないだろうが、仕方ない。
スポンジと取って、冷めた釜の中を軽く洗う。水ですすいでからさっきと同様にあらかじめ量っておいた11合ちょっとの米と水を注いで炊飯器へ。
蓋をしてピッピッとボタンを押すと予約が完了する。
また静かになる。
今度はテロンという電子音――もとい遼平の携帯の音。
メールだった。
『今仕事終わった。6時過ぎにはつけると思う』
たったそれだけの文章だった。ただそれだけの文章に、遼平は今日1番のため息をつく。
まあ仕方ないだろう。これから起こる、鬼のような作業を思えば。
1升という、お世辞にも少ないとは言えない米が、いや、それよりもはるかに多い量の米が、
たった1人に食いつぶされると思えば。
まあ、ため息の理由がわからなくもない。
「やっほー遼平さん! 来たよ!」
「来やがったな、遂に」
あからさまに遼平は嫌そうな態度を取る。あからさまに取ったにも関わらず全く気付いていない様子なのでもはやどうしようもない。
「で、やるのか?」
「うん、よろしくお願いしまーす!」
来店した女性はそれはもう嬉々とした様子で、もうすでに満身創痍にも見える遼平とは正反対だった。
「ったく、麻衣は相変わらず楽しそうでいいよな」
「うん、毎日とっても楽しいよ!」
純粋に反応する彼女、麻衣。純粋なのは構わないが、それが時に人を癒し、時に人の精神を蝕むということを覚えてほしい。切に願う遼平だった。
「それじゃあ、まず初めはどうする?」
「うーん、シンプルに塩だけで……2つお願いします!」
とりあえず来店したからには注文を取らねばならない。とはいえ予約があったので、なにを作るかまではすでに決まっていて、その先、中身を決めるための注文。
「塩を2個……ね。了解。ちょっと待っててね」
遼平がそう答えるとすぐに皿を麻衣の前に差し出す。ただし、なにも乗っていない。
麻衣はそれになにも疑問を抱かない。以前、まったく同じ予約をした時もそうだったから。そうでないと困ったから。
遼平は両手を軽く濡らし、その上で左手に塩を振りかけた。
右手で米櫃に入ったご飯を杓文字で掬い、左手へと適量とる。
量にして、だいたい茶碗1膳分。
そうして遼平は手に取ったご飯を握る。両手で握る。形成するように握り、握り、握り。
しばらく握れば、最初はなんの形もない塊だったご飯がきれいな三角形のおにぎりへと変身していた。
最初の皿へとそいつを置くと、遼平はさっさと同じ行動を繰り返す。
「で、塩の次はどうするんだ?」
「むぐむぐ、んぐっ、次はね、あむ、もぐもぐ、んごくっ、梅おにぎり5つ」
「了解。あと、返答はあとでもいいから食べながら言うのやめような。行儀悪いからどっちかにしろよ」
はーい、と。こういう時、純粋な子は扱いやすい。吸収が速いから。
ただ、排出も早いのが難点ではあるが。
案の定、前回も同じことを遼平は言っている。
遼平はさっきと同じ調子で作った塩おにぎりを皿に置くと、すぐに麻衣の手が伸びてくる。
遼平は軽く戦慄した。そうして過去を思い出し、彼女の恐ろしさを再確認する。
麻衣――彼女は、一見普通の女性である。ただ、彼女の胃、もとい消化器官は無尽蔵という言葉ですら語り表わせられそうにない。
ブラックホールを思わせるような、そんな代物だった。
それでいて、食べるスピードは韋駄天のごとく速い。実際、半合もあるおにぎりなので決して小さくはないのだが、それが見事数秒で消え失せていた。
本人曰くでは、ちゃんと味わっているらしい。
気を取り直して遼平は次の注文に差し掛かる。次は梅おにぎり。
ご飯を手に取るまでは塩の時と同様で、そこからが違う。ラップのかかった皿からあらかじめほぐしておいた梅干しの身を取り、ご飯の上において包むようにして握る。
そこからは塩の時と同じ。握って握って握って。
「はい、梅おにぎり」
「ありがと!」
さらに置くとすぐさま取られる。遼平は残り4個の梅おにぎりの作成に取り掛かり、麻衣はおにぎりを頬張る。
ここまでに食べる速度が速いと、どうも作業的な側面、フードファイト的な側面が見えてきそうなものだが。
しかしそう見えないのが不思議なところである。だからこそ、遼平が嫌々ながらもこの注文を引き受けたのだ。
遼平がこの「呑ん処」を開いている理由の1つに、お客さんが望む料理、おいしい料理を提供したいから。というものがあった。
遼平だって料理楽しみ方は人それぞれであって、フードファイトや大食い選手権のようなものだって1つの楽しみ方だと理解はしていた。
ただ、理解はしているものの、どうしてもそういう作業的な食べ方には抵抗があった。それをされることにもあまりいい気分はしなかった。
けれどもこの麻衣という女性は不思議なことに、本当に味わっている。冗談は抜きで、このスピードで味わっている。原理はわからないが、驚愕に値するスピードで食べながらに、料理の味を味わっている。
というのも、麻衣が食べている時の様子は本当においしそうに食べており、見ている側のお腹が空きそうなほどだった。
その食べっぷりは、さながら「呑ん処」で1番とも言える。
おにぎりを握りながらに物思いにふける遼平。依然、手はものすごく熱い。
塩おにぎりの時からそうだったのだが、米櫃に移して数十分ほどでは到底冷めるわけもなく、手のひらはめちゃくちゃに熱いままである。
「次、おかか4個!」
「了解!」
もはや遼平自身結構疲れてきていた。その証拠に遼平がやけくその時に発動される空元気が現在発動されている。
普段の気怠そうな声ではない。
「来たよー」
「おー、藍斗か。すまんが結構待ってもらわないとかもしれねえ」
「ああ、大丈夫だぞ。入った瞬間だいたい察したから」
お疲れさま、と。哀れみをいっぱいに込めた視線を遼平へと送る。
ポンと皿におにぎりが置かれ、即座に消え失せる。もちろん藍斗はこの現象を知っている。
「ちなみに、今日の注文は?」
「握りたてのおにぎり、お腹いっぱい」
ちなみにすでに最初に米櫃に入っていた約11合のご飯はすでに消え失せ、第二陣のご飯が現在米櫃には入っている。
「ねえねえ麻衣さん。おにぎりおいしい?」
「うん、おいしいよ」
遼平への助け舟のつもりか、それともただ単にいつも通りの遊び半分のような心持ちか。どちらにせよ、遼平にとって非常にありがたいこととなった。
「じゃあさ、食レポっぽいことっやってみようよ」
「食レポってアレ? 料理を食べてこんなところがーとか評価しかない批評をするやつ?」
「そうそうそれそれ……って、別に悪いところを言ってもいいんだよ? 批評なんだし。別にテレビで放送するわけじゃないんだから視聴率は別に気にしなくてもいいんだから、素直に答えたらいいんだよ」
「うーん、あんまりそういうことやったことないからうまくできるかどうかわからないけどやってみるよ」
遼平は出来上がったおにぎりをまた皿に置いた。
そして、麻衣はそのおにぎりを手に取り、「おほん」と咳払いをしてから語り始めた。
「見てください、このきらめく米、すでに握られているにも関わらず、はっきりとしている粒立ち!」
まずは見た目を語って。そして今度はひとくち、だいたい半分か3分の1かというくらいのところまでを食べる。
「中に入っているのはおかかです! 醤油と鰹節の旨味が周囲のご飯へと染み出していて、素朴ながらもアクセントの効いた、絶妙な味わいです!」
ありがたいことに、遼平はおかか4個(のうち作り終えていなかった2個)をこの間に作り終え、つかの間の休息タイムを手に入れていた。
「そしてなにより1番はこのご飯でしょう! 口に含むだけでもわかる米の旨味、甘み。気をつけないと1つ2つとパクパク食べていけそうです!」
現に食べているのだが。と、男2人は苦笑する。
「それじゃあ、いただきます……ってこんな感じで良かったの?」
「うんうん、とてもよかったと思う。美味しいんだなってことがめちゃくちゃ伝わってきた」
主に表情から、と。言おうかどうか迷って、結局そこは押し込んだ藍斗。
パクパクッと残った半分くらいのおにぎりを口に放り込む。もぐもぐしている彼女に遼平は問う。
「さて、おかかも握ったわけだが、次はどうする?」
ごくんっと、さっき言われたのもあってきちんと飲み込んでから言う。
「うーん、やっぱりご飯の味を楽しみたいから、シンプルにおにぎりで!」
「それって……塩おにぎりってこと? それとも……」
「あ、塩はなくて大丈夫です。なんにもなしで、お願いします!」
純粋にご飯だけで作ったおにぎり。それが麻衣の好物だった。前回も、同じく頼んでいた。
遼平は手を洗い、多少手に残った塩を落とす。
そして杓文字でご飯を掬い、手に取ると握る。
握る握る、やはり握る。きれいな三角形になるまで。
「個数はどうする?」
遼平がそう尋ねる。すると彼女は少し考えてから言った。
「じゃあ、10個で!」
ピシッと、遼平の表情が固まった。
しかしまあ、やるしかないのだろうと割り切り、出来上がったおにぎりを皿に置く。
案の定、すぐに消え失せる。
「さて、やるか」
もう、結構空元気も発動し、その上自棄モードも混じり始めている。
残り作成おにぎり数、9個。
「ふー、疲れたー」
「ごちそうさまでしたー!」
疲れ切ったのか、緊張の糸が切れたのか、遼平は前方の調理台に上半身を預ける。
麻衣はお腹いっぱいになったのか、そうではないのか。それはわかりそうにはないが、イスの背もたれに倒れかかり、満足げにそう言っていた。
米櫃には、ご飯がちょこっとばかし残っている。彼女1人の胃の中に、2升は軽く消し飛んだ。
「そういえば、気になったんだけどさ、麻衣さんってそれだけ食べるなら、普段から食費がすごいことになってるんじゃないの?」
「ああ、それはね、普段は頑張って節制してるの。でもね、どうしてもお腹いっぱい食べたくなったときににこうやって来たりしてる。食べ放題の店に行くこともあるけど、こうやって握りたてのおにぎりがいっぱい食べたいとかだと、普通の店じゃ叶わないからさ」
たしかにその通りだろう。藍斗は納得した。
先にある通り、彼女の胃袋はブラックホールと形容するに値するほど、常軌を逸した容量を持つ。それを満たす……とまでは行かなくても満足させるだけのおにぎりを作ってくれるなんてお人好しの店、お人好しの店主などそうそういないだろう。
「ああ、そうだ。待たせて悪かったな。なにを食べたい?」
遼平は上半身を起こして、そう尋ねる。
悪い笑顔をたくわえた藍斗。もうなんと言うのかは予想がつく。
「じゃ、おにぎりで」
「そいつばっかりは勘弁してくれ」
遼平の言葉が、若干かすれて聞こえた。