4皿目 フォアグラ
その日はうっとうしいほどの快晴だった。夜になってもそれは変わらずギラギラと照りつける日光こそないものの蒸し暑い空には満天の夏の夜空が雲ひとつなく広がっていた。
もっとも、家々の光に包まれる市街地。曲がりなりにも繁華街のはずれ。もっと暗ければ見える星もまあ見えず、2等星、よくて3等星が限界。
さて、夏といえばいかな季節か。暑い暑いは聞き飽きたし、だからといって言わなくても暑くないわけがない。
学生なら宿題や課題に、大人からすれば電気代に憂う季節だろうか。
憂鬱な気分に浸るのも、それはまあ勝手だが、夏といえばこんな考え方もあるんじゃないだろうか。
夏といえば――嵐の季節。もちろん天候の。学校があるような普通の日には来ないくせに、夏休みには狙ったかのようにして暴風を引き連れて接近――おっと、学生にとっては悲しいことだったか。
まあそれ以外にも最近話題のゲリラ豪雨なんてものは突然に訪れてはさっさと帰っていくという。その点では夏の夕立だって同じと言えるだろう。
そういうところを踏まえれば、夏といえば急な雨の季節とも言えないだろうか。
そして、そうであるというのはこの日も然りであって。
ただ、そんな大雨暴風警報が発令されたのは「呑ん処」店内のみという超局所的な範囲に限ってのみというものであって。
もちろん、比喩である。
「あっふ、あふあふ、んごくっ、あっつい!」
「水鳥ちゃん、急いで食べ過ぎ。まだまだあるんだからゆっくり食べなよ。火傷するよ?」
クーラーが効いている「呑ん処」店内は結構快適だった。
そんな店内にはあるところから白い湯気が絶えずのぼっていた。暑い夏よりも熱そうな、煮えたぎる鍋。
「それにしても、おでんなんて作るのいつぶりだろうか。冬には作るけど」
「まあ、こんな時期におでんなんて結構珍しいですからね。見かけるのもコンビニとか、そうでなければ縁日くらいなものですし」
本日の水鳥の注文はおでんだった。茶色くなったゆで玉子にしっかりと出汁の染み込んだ大根。その他諸々。
もちろん、おでんなんてものは一朝一夕に作れるようなものではなく、ましてや来店して、注文して、そこから閉店までの数時間の間でなんて、もっとできるものではない。
「それにしても、予約制度ってやっぱり便利ですね。たまにしか使わないですけど、こういったとっても時間がかかるような料理でも頼めますし」
予約制度。水鳥の言う通り時間がかかるような料理。それ以外にもあらかじめ特殊な準備が必要な料理、来店してすぐに食べたいとき。
予約方法は2つ。
前回来店時(もしくはもっと前)に遼平に「食べたい料理」と「来る日にち」とを伝えておく(来店すぐに食べたい場合は時刻も)のが1つの方法。
もう1つは遼平のスマホにさっきと同じ旨のメールを送る方法。
水鳥は(ほぼ毎日来ていて頼むタイミングなど腐るほどあるにも関わらず)毎回メールで予約する。
まあ、予約の目的に遼平との連絡を取りたいという欲が混ざっているというのがあるからなのだけれども。
「まあ、予約制度は俺にとっても便利なんだがな。やっぱり来てもらったからには食べたいものを食べてもらいたいし」
そんなことは露ほども知らず、メールをただの予約だと純粋に受け取っている遼平。
そういうところも遼平らしいと思いながら日本酒を流し込む。熱いおもいはさっきしたので、今度は忘れずに息を吹きかけて冷まし、箸で割った大根を口に入れる。
それでもって日本酒。おでん。日本酒。おでん。呑んで。食って。呑んで。食って。
しばらく繰り返せば、まあ当然ながら皿から全てがなくなって、酒も全部がなくなった。
「んっふふー! 遼平さーん、おかわりぃー!」
「水鳥ちゃん、珍しく酔ってない? 体調が悪いのか、一気に呑み過ぎたのか?」
遼平が心配の声をかけるがまるで聞こえていない。遼平が「珍しく」と言うように、水鳥が酔うのは珍しい。
普段なら顔に全く出ず、呑んでも呑んでも平然として呑まれている様子などほとんど見せないというのに、この日は酷く酔っていた。
なにかいつもと違う。遼平はそんな嫌な予感に駆られていた。
「りょーへーさん。日本酒くらさいよー」
「水鳥ちゃん、今日はそろそろ水にしといたほうが……」
「らんれれすか? 私まらまら呑めまふよ?」
「いや、呂律が回ってないし、完全に酔ってるし」
「酔ってまふぇんっ!」
「その発言が酔ってることの代名詞なのっ!」
見事なまでの酔いよう。悪酔いの典型例。
それでもなお日本酒を催促してくる水鳥に日本酒を出すか否か。遼平が迷いながら嘆息をつくと、それに対応するかのようにドアが開く。
そんな機能はつけた覚えがない。
「おー、久々に来たけど、相変わらずの様子だね」
「なっ、玲子テメッ……今日来るとか聞いてねえぞ!?」
嘆息から豹変、嘆息もろとも息を呑みこんだ遼平は現れた人物を見る。
「あらなに、客に向かってその態度って酷くない?」
「お前こそ……予約はどうした?」
玲子と呼ばれた女性は唇の下に人差し指を置いて数秒。
「ああ、すっかり忘れてたわ。ごめんなさいね」
「ほんっとテメエ……舐めてんじゃねえぞ?」
相当に疲れた声をしている。まあ、疲れた声の遼平はいつものことなのだが。
「で、フォアグラできる?」
「できる。置いてある」
即答だった。
「できるんだ。置いてるんだ」
「どっかの予約もせずにふらっとやってくる誰かさんの好物だからな。いちおう」
少し驚いている玲子に遼平はわざとらしい口調で言った。「あら、誰のことかしら?」とシラを切る玲子だったが、冷たい視線が突き刺さる。
「っていうのは冗談で、今度俺が食べようと思ってた」
「あら、それは悪いことをしたわね。じゃあ別のでも――」
「いいやいいよ。個人の分なんだから、仕入れ直せばいいだけだし」
「れえれえ、フォアグラってらんれしたっけ?」
「フォアグラってのはアヒルやガチョウのレバーのことだな。世界三大珍味の1つだ」
「まあ、レバーって言っても無理やりに太らせた脂肪肝なんだけど。フォアグラって味はいいんだけど、育て方がちょっとエグいのよね」
「ああ、たしかにな。強制給餌はなかなかアレだからな……」
強制給餌、ガヴァージュとは、端的に言うとアヒルやガチョウのオスを動けない程度の檻に閉じ込めて、無理やり餌を食わせて、食わせて、食わせて。脂肪肝という病気にして、死ぬ直前で屠殺。
もちろんそんなやり方では健康状態は良くないだろうし、やはり中には嘔吐をして、吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死したり、内臓がイカれたり白内障になったり。実際死亡率は普通の鳥と同様に飼育されているものと比べて10倍から20倍になっているという。
そのやり方の残酷さに一部の国では生産を禁止している。
「まあ、やり方知ってて、それがエグいって知ってても、濃厚で旨いからどうしても食べたくなるのよね」
「それに関しては俺も同感だ」
「ろうやって育てるんれすか?」
首を傾げる水鳥。口を開きかけた遼平を玲子は制止する。
「この世界には知らぬが仏ってこともいっぱいあるの。そう思っておきなさい」
そう、あまり気持ちのいい話ではない。ならば、知らないほうがいいのかもしれない。
もっとも、めちゃくちゃにフォアグラを消費する人なら話は別として。
「ふぁああい。ああ、そうらった。りょうへーさん、おれんとお酒のろかわりー!」
なぜだろうか。さっきより酔いが酷くなっている気がする。そう思う遼平だった。
ただまあ、このまま放置しておくと水鳥は泣き上戸モードに突っ込んで自己否定を始めるので(経験あり)遼平はさっさとおでんを入れる。
酒は……一瞬お冷を酒として出そうか迷ったが、この状態でもそれは流石にバレるだろうと、さっきより少し度数の低い日本酒を用意した。
「よくもあの喃語を理解できるのね」
「喃語ではないだろう。それに酔っ払いの相手は馴れてるからな」
「なるほどね。ああ、私はさっき言ったようにフォアグラの……そうね、ソテーにしましょうか。それからもののついでだし水鳥ちゃんにも小さめのやつあげて」
「いいんれすか?」
「いいのいいの。食べたことないんでしょう? ものの試しよ。ああ、飲み物はワインでお願いね。白の……種類は任せるわ」
適当だなあと、遼平は思いつつ少し安堵する。テリーヌとか言われなくて助かったと。
まあ、テリーヌだと時間が圧倒的にかかるということを玲子も把握している……ということにしておこう。
遼平は冷蔵庫からフォアグラを取り出してまな板に。
適当な厚さに切って、塩コショウをふりかけて味付けをする。
片面には小麦粉もつける。
フライパンをコンロにかけて火をつける。バターを冷蔵庫から出して適量をナイフに取る。
赤ワインを取り出して小さな鍋も取り出す。
鍋もフライパン横で火にかけ、赤ワインを入れて煮詰める。
フライパンの縁にナイフをこすりつけるとジュウウと音を立ててバターが滑る。多めのバターはすぐには溶け切らず、遼平が傾けるに従ってフライパンの上を踊るように動く。
「やっぱバターはいい匂いだねえ」
「香り付けはバターに限る……とは言わないが、たしかにバターはいい香りだからな。重宝している」
フォアグラをフライパンに乗せながらそう応答する。小麦粉をつけた面が下。
乗ってすぐにさっきよりも大きな音でジュウウと鳴く。食欲をそそる。
遼平が箸でフォアグラを少し持ち上げ、裏の焼き目を確認してからひっくり返す。
茶色の焦げ目が軽くついている。
そのうちにさっきの鍋からブクブクと泡が浮いてくる。そこにフォンドヴォーと呼ばれる出汁を入れて、更に煮詰める。
ちょうどいい頃合いになったフォアグラを更に上げて、フライパンに残った油を鍋に入れる。
塩コショウで味付け、最後にバターを入れて揺らしながら溶かすモンテをして。
少し考えてからトリュフをみじん切りにして入れて。ソース完成。
皿に乗っているフォアグラにかけて。
「はい、おまちどうさま」
目の前にいる女性2人の前に、遼平は皿を差し出した。
「ワインはソーテルヌな。甘いけど大丈夫か?」
「ええ、甘いのも好きよ」
ソーテルヌ――世界三大甘口ワインの1つ。蜂蜜のような甘みを持つ極甘口のデザートワイン。
「水鳥ちゃんも飲むかしら? ソーテルヌ」
「わらしはー、日本酒があるのれ、らいじょーぶれふ。おかわりぃっ!」
「そう。ならワイングラスは1つね」
「了解了……え、水鳥ちゃんまだ呑むの?」
いつの間にやら、さっきの日本酒がカラになっていた。おでんもカラ。
「呑むー! まらまら呑むー!」
さすがにそろそろ心配になってきた遼平だっが、まあ、ここは飲ませてやろうと思った。
この調子なら、次の酒を開けたところで糸が切れたように眠りこけるから(経験あり)。
「んーーーっ! やっぱこれよねー、濃厚な感じの脂っ!」
「なんか、独特な感りの味れすね」
「まあ、好き嫌いは分かれるな。水鳥ちゃんの言う通り独特なのはたしかにそうだし。曲がりなりにも珍味と言われるくらいだし」
洗った手をタオルで拭きながら遼平はそう言う。拭き終わったらタオル掛けてにかけて冷蔵庫。
「私はこの脂が好きなんだけど、苦手って人も多いからね」
「苦手っていふよりか、あんまり食べたほとないろうな味だなあって」
「ねえ、遼平。ホントに水鳥ちゃん大丈夫?」
さすがの酔いように玲子も心配になってきたのか眉をひそめる。しかしそれに「大丈夫大丈夫」と遼平は返した。
「見てなよ? あと数分もすりゃさっきまでが嘘のように眠るから」
「ホントに? 私にはとてもそうなりそうに見えないんだけど」
大丈夫大丈夫。なんなら賭けるか? と、余裕の表情の遼平がいた。なんと言っても同じシチュエーションほ経験済み(それも1回だけではない)。
「それにしても1つ疑問なんだけど、フォアグラと日本酒って合うの?」
「さあ、知らんな。俺は試したことない。なんなら今試すか?」
キンキンに冷えた麦茶を注ぎながら遼平はそう尋ねた。
「いや、いい。今日はそういう気分じゃない」
手のひらを遼平に向け、首を少し振ってみせた玲子。ふと横を見てみると「すう、すう」と小さく寝息を立てている水鳥がいた。
顔を戻してみたら、少しドヤ顔の遼平がいて、ちょっとイラついた。
「休憩室に寝かせてきた」
「おつかれー」
こうやって酔い潰れて眠りに誘われる人が時々いるため「呑ん処」には休憩室があって、布団が敷いてある。
「泥酔してるからって襲っちゃだめだよ?」
「誰が襲うか」
襲われて、既成事実ができたらそれはそれで嬉しいのかもしれないけど。なんて玲子は思ったりしていた。
事実、水鳥は遼平から異性として見られていないと悩んでいるわけだし、ある意味それは真実なわけだし。
もしも本当に襲ってくれたら面白そうだなと思いながら「ふふん」と鼻で笑う。
「なんだよいきなり笑って。気味が悪い」
「いいや? 面白そうなことを思いついたからさ」
遼平は「面白そう」というその言葉にあからさまな嫌悪感を見せた。
「ねえ、アヒル繋がりでさー、皮蛋作れない?」
「なんでそうなるんだよ、てか今日のフォアグラはガチョウだから繋がりもなにもないし、なによりピータンなんてテメっ、どれだけ時間かかると思ってやがる?」
「えー、でも食べたいしー」
呆れてものも言えない。そんな表情の遼平は。しかしお人好しの遼平は。
「いつ来るんだよ。その時には作っておくから」
「あ、作ってはくれるんだ。やっさしー」
「予約しろっつってんだよ。それならなんとかできる。そもそも予約制度だってテメエの無茶ぶりに対応するための制度だったんだから」
なんでも、注文して貰ったものを出せないのがなんだか申し訳ないし、なにより負けたような気がして悔しいから。だそうだ。
(ほんっと、ツンデレさんなんだからなー)
またも「ふふん」と鼻で笑って玲子はワインに口をつける。遼平はまたも半目で睨みつけているが、全く気にする様子はない。
「あっまーい!」