3皿目 枝豆
「ほい、王手。たぶんこれで詰みじゃないだろうかね」
「あ、ほんとだ。ぐぬぬ……サシさん、少しくらい手加減してくださいよ」
「いつだって全力で攻める。それが楽しいんじゃないか。まあとりあえず遼くんは手加減どうこうよりも意図がバレバレな指し方をするのをやめたほうがいいぞ」
サシさんと呼ばれた老年の男性は笑いながら手近に置いてある小鉢から枝豆を1房取り出して中から豆を取り出す。
きれいな黄緑色したそれは、小説やマンガなどでしばしばエメラルドグリーンとよばれるそれそのものだった。
「お邪魔しまーす。あ、指原さん。いらっしゃってたんですね。お久しぶりです」
「水鳥ちゃん、いらっしゃい。なんにする?」
いつもの通り音を立てて開く扉。今回入ってきたのはおそらくこの店の1番の常連、もはや客から有名人認定を受けている水鳥。
彼女も彼女でほぼ毎日店に通っているせいか、たいていの常連客達とは知り合いだったりする。というか、遼平ほどではないが客のことを覚えている(客なのに)。
「えっと、じゃあそうですね、飲み物はビールにして、それから……」
水鳥名物、長考。彼女が玉子焼き以外を注文するときは必ずと言っていいほどに長考を挟む。返して言えば長考が始まれば玉子焼きが来ることはない。
今日はなにが来るのか。遼平にとってこの長考はそれを考えられる割と楽しい時間らしい。
「うーん、うーん」
案の定うなり始めた。遼平も指原も、その必死に悩んでいる彼女の様子を見ながら和んでいた。
目を閉じて、右や左やに首を傾け、腕はというと組んでいたり、頭を抱えていたり。かと思うと指先で空中に円を描いていたり。
とにもかくにも必死に考えているということがひしひしと伝わってきていた。
「おっさん、やってる?」
「藍斗か。やってるぞ」
「おお、水鳥さんもやってるねえ。毎度おなじみの長考。ってことは今日は玉子焼きじゃないのな」
入ってきたのは藍斗。水鳥同様、客の中でもかなり有名。まあ水鳥ほどではないけれどもしょっちゅう訪れていることと、やはり高校生だということだろうか。
ちなみにではあるが、藍斗の彼女がいるという事実をつい最近聞いた遼平は「自分は高校生にすら負けているのか……」とぼやきながら現在まで引きずっている。
案の定、水鳥からの好意には気づいていないので、ある意味救いようがない。
「藍斗くんじゃないか。どうだい、くんもこっちに来て一緒に指さんかね?」
指原は三本指でつまむようなしぐさをして、それを上下に動かしながら誘う。
「サシさん、俺そんなに得意じゃないですよ? おっさんと一緒でサシさんに教えてもらってやり方知った組ですから。教室で先生やってるような人には到底かないっこないですよ」
「そうそう。そうですよ」
藍斗はそう言って苦笑いをする。遼平もそれに乗るようにして賛同、こちらもまた苦笑い。
「まあいいじゃないか。とりあえずやろうじゃないか」
「結局やるんすね。まあいいですけど」
指原に誘われて、藍斗が彼の座る席に近づく。隣の席に座ると先の対局でバラバラになっていた駒たちを最初の様子に戻す。
水鳥はまだ考え中。しかしまあ、いつもの通りである。
「ああ、サシさん今日は枝豆だったんすね」
「どうじゃ、ちとばかり食うか?」
もう少しで並べ終わりというところで将棋盤の横に置かれた小鉢に気が付く。
「いやいいっすよ、悪いですし。自分で頼みますし」
「おお、じゃあ藍斗は枝豆でいいのか?」
「おう、よろしくおっさん」
「ああああああああああああああああああああああああああああっ!」
絶叫。瞬間走ったすべての音を無に帰さんばかりのその声は、
「決まったか」
「決まったな」
「さて、なににしたんじゃろうか」
3人が口々にそういう。水鳥のこの絶叫は長考時にまれに起こる。そして起こるのは決まって注文が決まった時。
「私も枝豆でお願いします」
安直。なんというか、安直。とにかく、安直。
「お、おう。そうか。じゃあビールと枝豆だな」
そのあまりの安直さに遼平は戸惑う。戸惑いはするけれどオーダーを取らないわけにはいかないのでとりあえずそう言った。
枝豆といえば言わずと知れたスピードメニューの代表格の1つ。さっと塩茹でしてビールでクイッといくとうまいのなんの。
時間とうまさは比例しないんだなと思わせてくれるそれは、多くの酒好きに愛される「おつまみ」である。
今では冷凍食品のそれも販売されたりしていて、酒好きの亭主のいる家では冷凍庫に常備され、おつまみの要求があればささっと解凍して出しているなんて話をよく聞いたりする。
まあ冷凍食品があるとは言ったが、小さいやらなんやらあるけれど「呑ん処」は仮にも居酒屋。流石に茹でる。
居酒屋だから枝豆の要求率が高くて常備しているというのもあるけれど。
どうせこの後も枝豆の要求はあるだろうとあらかじめ作っておいた湯の入っている鍋をコンロにおいて火をかける。
ぐつぐつと煮立ち始めるまでは若干時間があったので少しばかり将棋を観戦。
とはいえ、対局は始まったばかりだったし、そこまで詳しくもない遼平にはどちらが優勢なのかなんてことはわかりそうもない。
ただ、さっきからパチンパチンと駒が置かれている音はしている。
そのうちに鍋の表面に大量の泡が浮き始めた。遼平は意識を鍋に戻し、塩と枝豆を藍斗と水鳥、それから食べたくなったのか自分の分を入れる。
しばらく鍋とにらめっこ。鍋の中では枝豆たちが楽しそうに泡に踊らされている。
ちょうどいいくらいになると火を止めて鍋をコンロから離す。シンクの上に置いた金ざるに流し込む。白色した蒸気がもくもくと上がり、熱湯は排水溝へと流れ込む。残ったのは熱々の枝豆。
最後に冷水でしめる。高温になっていたシンクが冷水に当てられてベコン、ベコンと音を立てる。
ざるから取り出して小鉢に入れればあとは出すだけ。
そのうちまた枝豆はオーダーが入るだろうから鍋に水を張って湯を沸かしておく。
「はいよ、水鳥ちゃんに藍斗。水鳥ちゃんはビールもね」
カウンター越しに2人の前へと置く。水鳥の前にはジョッキに入ったビールも置かれる。
「あ、ありがとうございます!」
「おっさん、ありがとう」
そう言うと水鳥は枝豆に手を伸ばす。藍斗もパチンと駒を動かしてから手に取る。
力を入れすぎないようにふくらみを押してみると、つるんとした様子で中の豆がその体をあらわにする。
相も変わらず、きれいな黄緑色。
「こういうのをなんだっけ、エメラルドグリーン? っていうんだっけ?」
「マンガの見すぎだ。まったく」
あきれた様子で遼平が言う。当の本人は苦笑い。
水鳥もその様子にくすくす笑っていた。
「しかしまあ、あれだな」
藍斗は2房目を取りながらに言う。
「枝豆じゃ、どうも腹は膨れそうにないな。うまいんだけれども」
そりゃあそうだ、と。
その場にいた3人は頷いた。
「はいよ、ソースかつ丼」
「いやあ、やっぱかつ丼はいいね。このどっしりした見た目に食欲そそる油の匂い。」
「お前は食レポでもしてるのか? おい」
遼平に言われて「あはは。」と笑う。ごまかしの笑い。
「だって揚げ物ってなると自分の分だけ用意ってだけだとさ。ほら、なんとなく敬遠しちゃうじゃん。いちいち面倒だし」
「まあ、わからんでもない」
枝豆を押し出して口に放り込む。遼平もそう思えばかつ丼なんて久しく食べていない。自分の分のたった一人前ををわざわざ揚げるとか面倒極まりない。
「だからさあ、あんまり作んなくて、食べる機会ないからさ。かつ丼なんて食べるの久しぶりでさあ」
「それにしても、お前も見事に負けたなあ」
負けた。とは、もちろん将棋のことである。藍斗も遼平同様ものの見事に負かされた。
「相手が悪い。勝負する相手が」
ちなみに今は水鳥がやっている。水鳥は指原とやるのは初めてだが、ルールは知っているようだったので「やるかい?」と聞かれて、すぐに了承していた。
そんなこんなで店内には未だ絶えずに駒の音がしている。
「それにしても水鳥さんって将棋できたんだね。それどころか結構に強いようだし」
「ああ、それは俺も驚いてる。サシさんがこんなにも悩んでるところ初めて見た」
さっきの枝豆を頼むときの水鳥はどこに行ったのかと聞かれそうになるほどにテンポよく指している水鳥がそこにいた。
だからといって決して適当に指しているなんてそんなことはないようで、指原はというと、水鳥が指した一手一手にうんうんうなりながら考えている。まるでさっきの水鳥のように。
「本当に、人って見かけによらないんだね。俺、水鳥さんってもっとこう、ほわほわっとした天然キャラかと思ってた」
「流石にそこまでは言わないが、やっぱり俺としても意外だわ。結構長く付き合ってきたつもりだったんだけど」
観戦中の2人はかつ丼やら枝豆やら自分の食べ物を食べながらそう言っていた。
「…………」
黙々と次の一手、次の一手が指されて、対局が進んでいく。
対局のつまみはもちろん枝豆。
「遼平さーん、元気?」
「聞いてよ遼平さあああああああんっ!」
客が扉を開けて入ってきた。
「元気だぞ、俺は。それよりもどうしたんだ? そっちのほうが大丈夫そうに見えないんだが」
「それがね、上司がもうほんと……ん? 将棋やってるの?」
「サシさんじゃないですか。お久しぶりです」
「ねえ、遼平さん。私将棋したい!」
「聞いてほしいことがあったんじゃないのかよ」
遼平が苦笑紛れに言う。
「将棋しながら聞いて! って盤と駒がないか。仕方ない、邪道だけどアプリで……」
「あるぞ。何組か」
カウンター近くの棚から折りたたみの盤と駒の入った箱を取り出す。「準備すぎない?」という声がどこからともなく聞こえてくるが、これが遼平の平常運転。
「あるんだっ!? ならなおさらやろう!」
「じゃあ少年はお姉さんとね」
「え、俺もっすか? てかお姉さんって少し無理が――」
「なにか言ったかしら?」
藍斗は失言だったことに気付く。「あはは……なんでもありませんよ……」と、とりあえずそう言ってごまかすのが精いっぱいだった。
口では笑えていたけれど、目やら頬やら、表情は泣き出す寸前だったのを遼平は見逃さなかった。
「じゃあ、これをどうぞ。それから注文はどうしますか?」
将棋盤を差し出してそう聞く。2人は少し悩んでいたがきっと水鳥や指原のそれを見たのだろう。
「枝豆で!」
今日はやけに枝豆のオーダーが入るようだった。




