1皿目 玉子焼き
「遼平さん、やってますか?」
「やってるよ。水鳥ちゃん」
引き戸から現れたのは1人の女性、水鳥。連れはいない。
この「呑ん処」の一番の常連客といっても過言ではない常連客だ。
その通う頻度、実に週七。もはや毎日である。
とはいえ来ない日がないわけでもない。体調を崩したり、残業で遅くなったりした日にはもちろんながら来ない。
年齢は24歳となかなかに若い。飲食店に、それも居酒屋に通い詰めるような経済力があるのかは少し疑わしいが、本人曰く「それなりの企業に勤めているので、そこんところの心配は大丈夫です!」らしい。
「で、水鳥ちゃんは今日はどうするの? あとお通しいる?」
「いただきます。それと注文は、そうですね。じゃあ、ビールと玉子焼きで!」
屈託のない笑顔でそう言う。見ているだけで心が浄化されそうな、純真無垢な子供のような笑顔。
「はいよ、ビールと玉子焼きね」
遼平はクスリと笑ってその注文を受ける。
やっぱり、好きなんだなあ。と。
注文を厨房まで通りましたよ。それを示す意味合いで料理人が返答代わりに簡単な料理を出す。それがお通しの始まりだという。
「はい、今日のお通しはタコとわかめの酢の物ね」
小鉢に入れた酢の物を、カウンターに座る彼女の前に差し出した。
彼女がこの店に通い始めたころ、遼平には1つの疑問があった。
なんでこんな若くてきれいな子が、ちっぽけな居酒屋に。なんなら店主、すなわち自分の顔だって、お世辞にも親しみやすい顔だとはいえないだろうと自覚している。
そんな店にどうしてまた通っているのだろうか、と。
遼平の中では、今どきの若い女の子のイメージというのはこんなのだった。
洒落たレストランに行ったり、見栄えるような色鮮やかな料理を自炊したり。そしてそれからそれらの料理を写真に撮ってSNSに掲載して。
まあ、そんなイメージがあったからか、遼平の中では自分の店の料理はそういった若い女の子にはうけないものだと思っていた。
ところがどっこい、通う人間が現れてしまった。今では常連中の常連の水鳥だ。
今までにも若い女性客が訪れることは間々あったが、1度や2度来たらすっかり見かけなくなる。
けれども彼女は3度、4度と姿を現し、足が遠のくどころかどんどん頻度を上げていっていた。結果、週七の今に至る。
そんなこんなで遼平の脳内には疑問符の飛び交うカオス状態になったが、彼女が通い出してしばらくしたころにその疑問符をすべて吹き飛ばす出来事が起こる。
『遼平さんの玉子焼き、ほんとにおいしい。ほんとに好き。毎日食べたい』
ある時ぽろっと彼女の口からこぼれた小さな声。水鳥にとっては心の中で言うつもりだった本心。
まあ、遼平からしてみればそれが本心なのか、お世辞なのか。その真偽はわからなかったわけだが、純粋に嬉しかったのと「そう考えれば辻褄が合う」的なあれがあったため、疑問符を消し去る要因となってくれた。
今でも彼女のオーダーの半分から3分の2くらいは玉子焼きである。
水鳥は相当に玉子焼きが好きらしかった。
「ふんふふんふふーん」
「今日はえらくご機嫌だねえ」
鼻歌歌いながら待っていた彼女にそう言う。
「わかります? 私ですね、今すっごく気分がいいんですよ! すっごく!」
「わかるよ。そんなにも機嫌よさそうに鼻歌歌いながら待たれたらさ。」
ぶわあっと彼女のの顔が赤くなる。さっき出した酢の物の茹でダコのように。
「はうわ、ほえっ! これはその違うんです。違わないけど違うんです!」
酷く焦って、あたふたしていた。無意識のうちに鼻歌を歌っていたらしい。
鼻歌の言い訳をしているようだったが、もちろん見てのとおりなんの弁明にもなっていない。
「そ、そんなことより早く玉子焼き作ってくださいっ!」
少し叫び気味の声だった。目はつむっていた。どうやら恥ずかしさがキャパを超えて一周回ってどうにかなったようだった。
「はいはい、わかってるよ」
彼女のその様子に和みながら遼平は少しからかいたくなる。けれど、さすがにこれ以上困らせてあげるのはかわいそうなのでやめた。
コンコンコンと卵を数回打ち付ける音がした。細い線でヒビが走るので、遼平の親指がその中心に押し当てられ、ビビが明確な割れ目となって殻が2つに分かれる。
以上を繰り返し、計3つの卵を割り入れる。黄身の周りにまとわりついている白色したカラザは菜箸で器用につまみ取られ、ゴミ箱へ。
軽く混ぜて黄身を潰す。オレンジ色が若干かかった黄身がじわじわと周りの白身を侵食していく。
遼平は冷蔵庫から明るい茶色の液体が入ったペットボトルを取り出した。
「なにそれ? 麦茶?」
「水鳥ちゃん……そう言ったら飲ませてくれるって思わないでよ。出汁だよ出汁。このくだり何回目?」
遼平はため息をつきながら卵液に出汁を注ぎ込む。ついでにショットグラスにも。
「はい、飲みたかったんだろ?」
「なんだかんだ言いながら飲ませてくれるところとか、ほんとに優しいですよね、遼平さんって」
遼平は返事をしないことに決めた。変にアクションを起こさずに玉子焼きを焼こう、と。
水鳥がさっき弄られたことを根に持っていて、いま仕返しを狙っているんじゃないかと思って。
当の水鳥はというと、とても満足げに戦利品の出汁を啜っていた。
鰹節と昆布中心の匂いが口の中に広がって、なんとも言えない素朴なうまみに浸る。
玉子焼きの作業に戻った遼平は菜箸を使って卵をかき混ぜる。白身を切るように左右に箸を動かしながら。程よく空気を含ませながら。
四角い形の銅製の玉子焼き器を取り出してコンロに置く。
火をつけて、サラダ油を流し入れる。全体にまんべんなくいきわたらせたらキッチンペーパーで余分な油をふき取る。
少ししたら玉子焼き器から油煙が昇り始める。それを見て遼平が卵液を流し込む。
ジュウウウウ……という音を立てて卵液が玉子焼き器に到達する。玉子焼き器を傾けたり菜箸を使ったりして全体的に卵液が流れ込むようにした。
しばらく待っているとだんだんと固まってくる。卵液が固まり切る前に菜箸は奥のほうから侵入し、手前側に玉子焼き器が傾けられるタイミングでコロッコロッと転がり、まだまだ痩せた玉子焼きが現れる。
大丈夫、表面は焦げていない。きれいな黄色。
ここでさっきのキッチンペーパーを再び取り出し、油を玉子焼き器に薄く引く。
さっきより少なめの卵液を流し込む。きちんと先の玉子焼きの下にも流し込む。
今度は傾けるだけで菜箸はほとんど使わない。
また固まりだすので玉子焼きを菜箸で動かしたり傾けたりして破れないように転がせば、さっきより少し肥えた玉子焼きができる。
以下、卵液がなくなるまで繰り返し。
「きれいだなあ」
作る工程を見ていた水鳥がそう言う。恍惚とした、とまではいわないけれどもうっとりとした表情でそれを眺めている。
「そうか? 俺昔は結構叱られたほうだぞ?」
若干虚ろな表情の遼平。きっと昔のことを思い出しているのだろう。
力ないかすれた笑いが1つだけ生まれた。
「そうだとしても私なんかよりもよっぽど上手ですよ。何回作ってみてもこんなにきれいに。焦げ目をつけずに焼けない……」
「焦げ目がついちまうのはもしかすると火が強すぎるのかもしれないな。水鳥ちゃんのところのコンロがどれくらいの強さなのか知らないけれど、強すぎると火が通る前に先に表面のほうが焦げちまうから。肉とかでも一緒だけど」
「へえ、そうなんですか。今度試してみようっと!」
ぱあっとした表情で彼女は手を合わせ、思案にふける。作り方を考えているのだろうか。
そんな様子の水鳥を横目に見ながら遼平は最後のひとまきを終えた。
焦げない程度に加熱してから巻き簀の上に置く。巻き簀を使ってささっと形成を終えるとまな板に置いて適当な大きさに切り分ける。端っこは落とす。
ちゃんとまけていることを確認して、長方形した皿に盛りつける。
最後に冷蔵庫から大葉と大根を取り出す。さっさと大根はおろしてしまい、皿の隅に大葉を、その上に大根おろしを置いて、あとは出すだけ。
「はいよ、水鳥ちゃんお待たせ。玉子焼きね。それからビールも」
コトリと置かれた皿。薄茶色した皿の上にはもちろんながら黄色の玉子焼きが中央に鎮座しており、端っこには緑色した大葉に雪のような大根おろし。
近くにはジョッキに入ったビールも置かれた。
こうやって見てみると、割と鮮やかなように見えなくもない。
「いただきまーす」
水鳥は1番右を箸でつまむとそのまま口へと運ぶ。
「んんんんっ! これ、これです、これなんですっ! はあああ、ほんっと、おいしい」
「そりゃどうも。俺も喜んでもらえてうれしいよ」
手を洗ってタオルで拭いている途中の遼平だった。
そのうちにだいたい乾いてきたのでタオル掛けに戻していた。
「そういえば、いいことってなにがあったの?」
「そうなんですよ。聞いてください! 私ですね、今日後輩の子に、先輩って実はすごいんですね! って初めていわれたんですよ! 先輩って! すごいんですねって!」
もうこれ以上ないくらいに、嬉々として話している彼女だったが、遼平には1つ2つ、引っかかることがあった。
それって、返して言えば「(今まで)先輩って(あんまりすごそうには見えなかったし思えもしなかったけれど)実はすごいんですね!」ということにならないだろうか。その言い回しだと。
今日初めていわれたってことは、その後輩の子がいつからいるのかは知らないけれど、今まで一度たりとも言われていないってのもなかなかじゃないかなあ。と。
だがしかし、だがしかし。
(言えないよなあ。こんなにも嬉しそうにしてるのに、それをぶち壊すようなこと)
無邪気なその笑顔を奪うのは遼平にははばかられた。
「もう最後の1個かあ」
皿の上に置かれた1切れの玉子焼きと、ちょっぴり残った大根おろしを眺めながらにそう言った。
「どうする? もう1個焼くかい?」
「ううん、大丈夫です。いつも通りこの1個で終わりにします」
いつも通り。というのも、最後の1個になると今と同様に最後の1個に思いを馳せ始める。
ちなみに、このくだりで追加注文をしたことは6回しかない。
「いただきます!」
そう言って最後の1個に大根おろしを載せて口に放り込む。
「んんんんんんっ! ふうううううううん、んんんんんんっ!」
悶えている。体を少しくねらせながら味わっている。全身で。
思わず遼平は小さく笑った。
「本当に、好きなんだな」
刹那。
「んぐぐぐぐぐぐうっ! んぐごくっ……ふう、はあ。おどかさないでくださいよ」
「え、あ、すまん」
びっくりしたのか、玉子焼きをのどに詰まらせかけた水鳥だった。
「……で、好きがどうしたんですか?」
うつむき向きで、彼女はそう聞いた。顔は真っ赤だった。鼻歌の時のそれよりも、ずっと。
けれどこれはビールを飲んだからではない。アルコールに染められたわけではなく。
――遼平は気づいていないが、彼女がこの店に通う理由はもう1つある。
遼平のことが好きなのである。LikeではなくLoveとして。
それがあって毎日通っている。
通っている理由なんて、身も蓋もなくいってしまえば、会いたいからである。
そのせいか、突然聞こえた「好き」というその単語に過敏に反応してしまった。
ただもう、わかっているように遼平はその好意に気づいていないわけで。
なんならさっきの「好き」という言葉はそういう意味でつかわれたわけではないのは自明であって。
「ああ、水鳥ちゃんってほんとに玉子焼きのこと好きなんだなあって」
ただまあ、遼平がそのことに気づいているなんてことは太陽が西から登るようなもので。
さてはて流れるは沈黙。水鳥はもう穴があったら滑り込みでもいいから全速力で入りたいほどの心境で、なんならこの場で自分のことを殴りしばきたいと思ったりしていて(遼平がいるのでしないが)。
半分くらいの精神は離脱済みで、放心直前のその様相は遼平を酷く心配させた。
叫ぼうにも(遼平がいるので)叫べず、暴れようにも(そもそも店なので)暴れられず。
とにかくバカらしい自分に対するやり場のない怒りをぶつけたかったがどうにもなりそうになかった。
「う、うん。遼平さんの玉子焼きはほんっとにおいしくって、大好きです!」
なんとか取り繕ってそう返答した。
もしかしたら今の瞬間なら好きだということを伝えられたのかもしれない。けれど、できなかった。
言うまでもなく、後悔していた。
連続して彼女を見舞った不運に、さっきまで上機嫌だったのが嘘のように落ち込んでいた。
心の中で。
辛うじて表面では取り作っていたものの、心の中は相当にすさんでいた。
「遼平さん、やっぱりおかわりお願いします」