〆 ラーメン
「お、いらっしゃいませ。待ってましたよ」
暖簾の奥から人が1人現れる。快活な声が中から聞こえてきて、入ってきた人を歓迎する。
「ラーメン……いけますか?」
本日1番目の客は男性だった。どこかおどおどした物言いと同じく、行動にもどこか自信が見受けられず、店先で入るか入らないか迷う素振りを続けていた。
「もちろん、予約があったんでちゃんと用意してますよ。豚骨スープ」
カウンター奥のコンロには、普段見かけぬ寸胴鍋が構えていた。
中には骨やら野菜やらがたくさん入っている。
「とりあえず、座って座って。注文はそれから」
「ああ、はい」
店先から足を全く動かさないでいた彼に着席を促す。緊張しているのか、ソワソワしたり、周りをキョロキョロ見回したり。
「もう、なにしてるんですか。来店だってもう5回目くらいなんだし」
「で、でも、この予約制度っていうの、使うの初めてなもので……」
「予約制度を使ってようが使ってまいがこの店はいつも通り変わりないんで、強いて言うなら頼むものが固定になるだけなんで、そんな緊張することないですよ」
「そういうものなんですか?」
男性は自信なさげにそう尋ねる。「そうそう、そんなものですよ」と快活な声はそれに肯定する。
「それじゃ、改めて注文を聞かせてもらっていいですか?」
「あー、その。えっと……ラーメン、と、ライスの大で」
「ほいほい了解です。ところでラーメンのスープはどうしますか? 豚骨ベースまでは決まってるけど」
「あ、じゃあ醤油豚骨でお願いします」
男性のその声に、
「〆のラーメン、醤油豚骨とライスの大」
いたずらげな、快活な声が反応した。
「ったく、来店直後の注文のどこが〆だっつーの。もっと真面目にやれって何回言ったらわかる」
「あはは……まあいいじゃん? 楽しいし」
店の奥、居住スペースとの境目に座って様子を見ていた男性が立ち上がってそう言った。今まで接客をしていた男性は耳のあたりをポリポリと掻いて誤魔化している。
「ったく、せっかく雇ってやったのに、クビになりてえのか?」
「うおっ、それは困る」
男性――藍斗はそう言った。相変わらず気怠そうな口調の店主――遼平は腕を捲りながら奥から歩いてき、寸胴鍋をいじり始めた。
横にはたっぷりの水を張った鍋が日にかけられている。
「でもさー、なんでか居酒屋でラーメンって言ったら〆のイメージあるじゃん」
「ああ、たしかにお酒呑んだあとはラーメン食べたくなりますよね」
2人からそう質問が飛んできた遼平。ラーメン鉢に醤油、調味油、おろしニンニクなど準備を淡々と進めながらに答える。
「それにはアラニンって物質が関与してるとされている」
「アラニン?」
2人から声を合わせてそう疑問符を浮かべる。
「ああ、アルコールを1回分解するとアセトアルデヒドっていう物質ができるんだが、ああ、これが酔いの原因な。で、アセトアルデヒドのままだとまだ猛毒だからもう1回分解しなきゃならなくて、そのときに必要になる物質がアラニンとオルニチン」
寸胴鍋の横で沸騰しているお湯に麺を入れた麺茹でざるを突っ込む。そうしながらも説明は止めない。
「オルニチンはしじみ汁で有名だな。だから二日酔いに効くとされてる。アラニンは豚骨や鰹節のスープに含まれている。それ以外にも飲酒によってナトリウムやカリウム、それに塩分が減るから、それを補給できるものってことでラーメンが好まれるという記事を読んだことがある」
「なんで1回読んだとかで把握できんだよ。おっさんのくせに俺より記憶力いいのマジで恨むんだけど」
「なにを言ってんだよ。大学3回生。40近いおっさんに負けてどうすんだよ」
遼平は寸胴鍋からスープを2、3度掬い、ラーメン鉢に注がれる。テボを手に取り、大きな動きで湯切りをする。
水滴が空中に舞う。
「それよりか、おっさんこそまだなの? 来月あたりでホントに40になっちゃうよ?」
「いらないお世話だ。それよりか自分のことを心配してろ」
湯切りを終えた麺が鉢へと流し込まれる。それからチャーシューやゆで玉子、もやしに海苔にと具材を乗せて。
「藍斗、ライス盛って」
「了解」
出来上がったラーメンを男性客の前へと置く。すれ違うようにして移動した藍斗は、茶碗に大盛りのご飯をよそう。
「はい、お待たせしました」
藍斗が持ってきたライスも置かれて。これで完成。
「いただきます」
箸を親指と人差し指で挟んで、男性客は合掌した。
ズルズルズルッ、ズルッ、ズルズルズルズルッ。
啜る音だけが聞こえる。他に客もいないので当然といえば当然。
「なあ、おっさん。俺も頂戴?」
「ったく、ちょっと待ってろよ?」
そう言って追加1玉をテボに入れて茹でようとしたときだった。
「遼平さん、私も1つ貰っていいですか?」
現れたのは水鳥だった。それを聞くと遼平は軽く返事だけしてテボをもう1つ出してきて、麺を入れて鍋に突っ込む。
ラーメン鉢にはさっきと同様に醤油やらが入り、豚骨スープも入れられる。
茹で上がった麺はやはり湯切りをされて、それからスープの中へ。具材も忘れずに乗せられて。
「はい、2人ともお待ちどうさま」
1つは藍斗へそのまま渡す。おぼんにもなににも乗せずに器のままで渡したので「熱っ熱っ」なんか言いながら近くの台に急いで置いていた。
もう1つは水鳥が出てきて座った席へと置く。
「いただきます」
そうしてやはりズルズルと音を立てて啜る。
一足先に食べていた男性客はライスを残ったスープの中に入れて、レンゲで掬って食べていた。
「どっちかというと、こっちの方が〆だよな」
ラーメンに突っ込まれたライスを見ながら遼平はそんなことを言っていた。
「おーい、藍斗も水鳥も、ライスはいらないのか?」
遼平が尋ねる。それに2人は一瞬考え、そうして。
「いる! 絶対いる! 大……いや、特大!」
「私も1つください」
遼平は1人小さく笑いながら茶碗片手に炊飯器に向かう。
ガラガラガラと音を立てて引き戸が開くと、本日2人目の客が現れる。
「いらっしゃい」
遼平と、藍斗と。2人の声が被さって。
ここは、人通り溢れる繁華街。
――から、路地裏に入り込んでしばらく行ったところ。
わかりやすい暖簾と赤提灯。見るからにわかる居酒屋。
暖簾には「呑ん処」と言う文字。ダメ押しとまでに居酒屋ということを象徴する。
美味い飯と旨い酒と。個性豊かな常連客と。
気だるい声の店主と快活な声の店員と。
それがここには揃ってる。
とはいえこの店員が雇われるのはまだまだ先のことだったり。
毎日通いの常連客が元常連客に変わることもまだまだ先のことだったり。
今はまだ、齢36の遼平のお話。〆のお話はまだまだ先のこと。
とにもかくにも未来の話は鬼に笑われるのでこれ以上はここでは割愛。
居酒屋「呑ん処」、今日も今日とて、営業中。
閉店までは、まだまだ時間があるようで。