10皿目 ステーキ
「さてと……こんなの触るのは久しぶり過ぎて、なんか緊張するな」
珍しく、食材を前にたじろいでいる遼平だった。
今日、来る客からあらかじめ予約があった。その予約に沿った食材を前に。
桐箱に入っているような絵面なら、何度かテレビや写真で見ている。けれども、それを生で見る機会など、まあそうそうない。
もちろん、贈答用ではなく単純に卸してきた物なので、桐の箱には入っていないが、それでもなお、堂々とした存在感を放つ、
「ふふふ……あはは……」
失敗できない。食材的にも、それを出す相手的にも。
赤白が交雑する。キレイに交雑している、すなわち肉に。牛肉に。
遼平は今にも気が狂いそうだった。
「邪魔するよー」
「いらっしゃいませ。待ってましたよ」
開店から数分後。ガラガラガラと引き戸が空いて1人の男性が入ってくる。ガタイのいい、かなり強面も男。
「じゃあ遼さん、一度例の物を見せてくれませんかね?」
それだけなら、まだどこかにいそうなものだが、この男の顔にはもう1つ特徴があった。
「ど、どうぞ。鉄さん」
若干震える手で、肉を見せる。キレイにサシが入った牛肉。それをじっと見つめる顔。
その顔の、右の頬にスッと走る1本の傷跡。俗に言う、傷の顔。
本人は「若いときにちょっとやらかしましてね。そのときについた傷が未だに抜けないんですわ」だそうだが、ちょっとばかり信用できない。
なんと言ってもこの鉄さん――鉄也はヤクザの組長なのだから。
なお、遼平は「鉄さん」と呼んでくれと頼まれている(遼平は失礼に当たらないかとビクビクしている)。年齢は鉄也のほうが圧倒的に上なのだが。
「おお、こいつはすごい。さっすが遼さん……と言いたいところなんですが、ちょっとばかしいいでしょうか?」
「え、ええ。どうぞ」
ああ、なにかやらかしたのだろうか。と、遼平はビクビクしながらそう聞く。その顔からは生気が抜けかけている。
「こんだけの上等の肉、用意するのは大変だったでしょう。ホント、毎度毎度無理聞いてもらってますが、いったいどうやって仕入れているのかなあっと」
「あ、ああ。そういうことですか」
ホッとした様子で遼平は安堵の息を漏らす。
「案外俺って交友関係広いんですよ。っていうのも昔に転々としてたときに広まったんすけどね。そのツテで仕入れたりしてるすよ」
「なるほどなあ。昔の関わり合いも無駄にはならねえってか。勉強になるなあ」
俺の昔はいろいろやらかしまくってたんだがな。と、ゲラゲラと笑っていた。
「まあ、若気の至りってやつよ。なっはっは」
鉄也は大きく笑っているが、遼平は苦笑い。
ちなみに「若気の至り」が鉄也の口癖。遼平は何度も聞いている(その内容について触れたことはない)。
「この肉も、そういったツテからです。他にもフォアグラとかトリュフとか、珍しい魚とかもそういったルートから仕入れてますよ。特に室のいいものは」
「ほう。前の寿司もそういうルートから?」
ええ、と。遼平が答える。結構前に鉄也が来たときは寿司の予約があった。もちろん、特上のネタ。
「そりゃあ、いっつも迷惑かけてますなあ。手伝えることがあれば手伝うんで、そんときはいつでも連絡してください」
「ありがとうございます。あはは……」
力ない笑いとともにそう答えた。
内心では「絶対に頼まない。絶対に」と反復させながら。
「それで、この肉どうしましょうか?」
「うーん、そうだな。せっかく遼さんが苦労して準備してくださった肉ですしな。シンプルに塩で焼いてくださいませんかね?」
「ああ、あ、あ、はい。わかりました」
シンプル・イズ・ベストとでも言うのだろうか? とてもシンプルで、なんの変哲もない調理法。塩で焼く。
しかし、そのあまりの簡素性ゆえに、全くと言っていいほど誤魔化しが効かない。照り焼きとまでは言わないが、それなりに濃い味のものならば、多少なりとも味のカバーが効く。意識がそちらに向くから。
しかし塩となると濃い味は不可能に近く(ただ塩辛いだけになり、特定の料理を除いてマズイの対象となる)、また、適量の塩は素材の味を程よく引き立て、際立たせることでも請け合い。
つまり、逆に言ってしまえば、半端な素材、半端な調理スキル、半端な塩加減では美味しさが半減どころか激減するのであって。
ゆえに、料理人のスキルがフルに問われるところである(仕入れ、経験、調味、スキル、etc……)。
今回、素材に関しては(ほぼ確実に)問題がない(はずである)。遼平にそれを言い切る自身はないが。
まあ、見た限りは上等の肉なのには違いない。ここまで上等の物をそうそう扱わないからとはいえ、ある程度の利きはできる(と自負している)。
真っ白な脂肪が複雑に交雑している。肉の色は朱色より若干暗め。
さっき取り出すときとかに軽く触ったが、それなりの締りはあるようで、きめもいい感じである。
ここまでの品は、遼平自身相当お目にかかれないものだろうとは思っている。誰もが認めよう、肉質等級5だ。
さすがは無理言って知り合いに「1番いいやつ。言い値で買うから」と言っただけある。
ただ、相当にお目にかかれないものだとしても。相手が相手である。むしろ遼平はそれにばかり臆している。
(おヤクザさんのいい肉って、どれくらいからがいい肉なの?)
という、その疑問。ヤクザの、それも組長。いいものを食べているのだろう。きっと。
東京の銀座にある1枚ウン万円とかいう肉でも食べられていて、それかいい肉の基準なのだとしたら――勝ち目がない。
いくら遼平が必死にいい肉を用意したところで、それには限界がある。大量にいい肉を継続して仕入れてくれるところがあれば、もちろん売り手としてはそちらを優先するだろう。
それがあって、いい肉だと言い切れない。問題と言い切れない。
だから遼平も「言い値で」と言ったのだ。結局1枚(200g)あたり10000円弱。それなりのものを仕入れたつもりではあるが。
はたして、それか鉄也にとっての「いい肉」と判断されるのか。遼平は心配で心配でならなかった。
さて、素材についての言い訳(口には出していないが)を終えて、続いての問題はスキル。
もちろんながら、ステーキを焼くのは専門外(そもそもすべての料理が基本的に専門外)。料理人として店々を放浪していたときにステーキの店で働いていた時期もあったが、逆に言えばそれだけである。
それも相まって、恐怖を掻き立てる。塩焼きなんて、先にも言ったように誤魔化しが聞かないのだから。
塩加減は……まあ、だいたい同じようなことを言ってきたので割愛する。決して面倒だったとかそういうわけではない。
とまあ、ここまで言い訳を(と言ってもさっきと同様ひとことも口には出さず、心の中で叫びまくっていただけだが)言い終えたところで、焼かないわけにはいかない。焼くしかない。やるしかないのである。
腹を括ってまな板の前に立ち、震える手のその震えを無理やり押し付け、肉に対面する。
本当に、キレイな肉だった。サシもそこはかとなく入り乱れていて、肉の色もキレイ。こんな無茶苦茶な注文に対応してくれたのに、本当に感謝しながら。そのありがたさを無駄にしないように決心して、調理に取りかかった。
塩を高めの所から振りかける。粗めの塩だったからか、少しまとまって落ちたその粒は、まるで雪のようだった。なんてそんなポエティックにしていないと正気が保てそうにない遼平。
今日を乗り越えたら、しっかりと寝るつもりらしい。明日の昼くらいまで。
コンロに火をつけて、フライパンを置いて。
「焼き加減はどうしますか?」
「ああ、じゃあレアくらいで」
レア……端的に言えば中がピンクっぽい赤っぽい色になっている状態。とはいえ断面など切らなければ見えず、あたりまえながら焼いているときは中の様子など見えないので、ここは経験値と言わざるを得ない。
肉をフライパンの上に乗せるや否や、ジュウウウ……という気持ちのいい音がする。食欲を激しくそそりそうな、脂の音。
聞き入りたいところではあるが、ここで気を抜いては中まで火が通る。
若干震え気味の腕で肉をひっくり返す。
茶色の色をした面が上になり、再びいい音が聞こえてくる。
コンロの火力が上げられる。遼平の右手に小さなカップが握られて、次の瞬間。
フライパンから煌々と火の手が上がる。一瞬だけ周囲にアルコールの匂いを振りまいて。
「フランベですか。私好きなんですよ」
「へえ、そうなんですか」
遼平はコンロの火を止めながらそう言った。止めるとすぐに火の勢いは収まり、消える。
フライパンから手早く移し替えて、包丁で一口大に切り分ける。
「まあ、なんと言いますか、火であったり、はたまた今遼さんが使っている包丁――金属であったり。なんとも男の浪漫といいますか。私が言うのもなんですが、少年心を揺さぶるといいますか」
嬉しそうに語る鉄也に「へえ、そうなんですか」と同じセリフを言う。
もっとも、今度は酷く棒読みだが。
遼平は内心で叫んだ。要するに、どちらも人を安易に殺められるというその事実に。それをヤクザが好きと言っているという事実に。
要するに、それがどういう意味を指しかねないかということを。
顔が引きつっていないかを心配しながら、遼平は皿を差し出した。
「どうぞ、ステーキです」
濃紺か焦げ茶か。かなり色が濃い皿の上に、表面がキラリと光る肉。肉。肉。
「好みで塩かわさび醤油で……って、わさびは今からすりおろすんで、少し待っていただきたいんですが」
「最初にそのまま、その後塩でやるから、その間に頼んでもいいかな?」
鉄也がそう言ったので、遼平は肯定の返事をした。
遼平はさっさとおろし板を取り出して、それからわさびも取り出す。わさびは金属を嫌うので、鮫皮のおろし板。
「中はきれいなピンクで、旨味と脂が乗っていて……それでいて柔らかくて言葉にするのがもったいないくらい旨い。さすが遼さんといったところですな」
鉄也からは歓喜の声が聞こえてきた。が、まだ気を抜けない。わさびはおろし方1つで味や風味が変わる。
わさびの汚れをブラシで軽く落としてから茎をむしる。ちょっと残った茎を包丁で落として、そのまま包丁で皮をこそぎ落とす。
茎のついていた方をおろし板にあてがい、力を入れて直線的に前後前後とすりおろす。次第に黄緑色の山ができてくる。
陶器の小皿にわさびをたっぷりと乗せると、醤油用の皿と一緒に差し出す。
「おお、これはこれは。ありがたくいただくとします」
鉄也は箸をおいてその2つを丁寧に受け取る。肉の皿の横に置く。
再度箸を持ち、結構多めのわさびを摘み取って肉の上に乗せる。そしてそれを口の中に放り込む。
肉の脂とわさびの辛味とが混ざり合って、互いに中和しあって、さっきまでとはまた違う脂の旨味が口に広がる。
今度は醤油とわさびの両方を。醤油が食材を引き立てる塩と違って肉の――脂の旨味と支え合うようにして現れる。
鉄也は――とても満足だった。
「遼さん、今日は本当にありがとうね」
「いえ、喜んでいただけたようでよかったです」
鉄也は純粋にそう思いながら。
遼平は首の皮一枚繋がったと安堵しながら。
その言葉を交わしていた。
「あっ、鉄さんじゃないっすか! お久しぶりです!」
「ホントだ。お久しぶりです」
「おうおう、藍斗に水鳥ちゃんじゃねえか。久しぶりだな」
「2人とも、とりあえずこっちにおいで」
珍しく、揃って入ってきた常連客2人。
「ああ、そうだ遼さん、支払いは俺でいいから水鳥ちゃんに出してやってくれ」
「いいんですか?」
遼平の問に鉄也が頷く。まあ、聞き返した遼平もこうなることは想定済みだったのだけれども。
鉄也は予約のたびに多めに食材を頼んでは余った分を他の人に分けている。だからこの日も数枚残った肉はきっと誰かに――だろうと思っていた。
「えー、ちょっと鉄さん! 俺には無しなの?」
「おう、ガキンチョにはあの肉は早いからな。悔しかったら酒飲めるようになってから頼め」
「ぐぬぬ……おっさんも鉄さんも俺のこと子供扱いして……俺だってあと3年で20歳なんだよ?」
「じゃ、あと3年待てってこったな」
笑いながらにそう言われて、ただ、それが正論だったからか藍斗は黙ってしまった。
「まあ、好きなもの奢ってやるから、それで我慢しろっての」
「うーん、なんか釈然としないんだけどな……じゃあ、生姜焼きで!」
藍斗がそう注文をしてくる。さっきまで(相当に高い)ステーキをたかっていたというのに、なんでも奢ると言われてそんなに高くないものを頼むあたり藍斗らしさを感じて、
「ああ、了解」
笑いながらに遼平はそう言った。