9皿目 カレーライス
それは、数年ほど昔のこと。厳密に示すなら、約6年前のこと。
家の中にはそれまで全くの静寂だった。
バタバタバタと家の中を人が走り抜ける音がした。途中何回か扉が乱雑に開かれる音もした。
家の中で1人、自室にこもっていた少年はなんの驚きもせずにその音を聞いていた。
そのうちに今度は逆向きに音が走っていって、止まったかと思えば革靴の爪先が地面に打ち付けられる音がして、最後に玄関の扉が開いて閉まる音がしてまた無音に戻る。
ただ、今度の静寂はそんなに長く続かなかったようで、さっきまでこもっていた少年が廊下へ出た。
さっきの足音が向かっていたところ、食卓にまで来た少年はそのままでは邪魔で見にくいイスを横にずらして食卓の上を見る。
(またいない。まあ、いつものことか)
食卓の上に置かれた紙と2枚の1000円札を眺めながらため息をついた。紙は、彼の両親の、おそらく父親からのものだ。
彼にはたしかに両親はいる。だか、家にいる期間は極めて短い。こうやって仕事の合間を縫って夕食費を置いていくのが精一杯なほどに。
つまりこれは、この2000円で適当に外食するなりインスタント食品を食べるなり好きにしろ。という意味だ。
「自炊するんだから1000円で十分だっつーの」
少年は誰にもその言葉が届くことがないことを知りながらも、ついつぶやいてしまう。
少年も11歳だ。小学生ではあるが、こうして家に1人でいる時間が長かったからかある程度なら自炊できる。
時刻は5時半よりも少し前。買い出しに行くならちょうどいいくらいだと思ったのだろう。彼はその2000円を適当に折ってポケットにねじ込み、家の鍵を手に持つと家を出た。
忘れずに鍵をかけた。そのカチャリという音を最後に家には長い静寂が再び訪れた。
少年が家から出て、しばらく歩いていた。こうなるだろうと予想していた少年はすでに献立も考えていた。
もちろん、家に入ってくる広告もチェックしていて、今向かっているスーパーも献立に合わせて安く仕上げられるスーパーだった。
(このスーパーに来るの、久しぶりだなあ)
珍しく他店舗よりも安くなっていたそのスーパーにそんなことを考えながら彼は歩いていた。
スッと匂いが彼の鼻をかすめた。米が炊ける匂い。
なんとなく、なんとなく彼はその匂いが気になった。なんてこともない米の匂いだったはずだが、とにかく気になった。
「こっちかな……」
どこかの家が炊いている米かもしれない。もしかしたら米じゃないかもしれない。
けれど、少年にとってそんなことはどうだってよかった。とにかく、とにかく、この匂いが気になった。
「ここかな」
少年がたどり着いたのは1軒の家だった。ただ、軒先にかかっている明かりの灯っていない赤色の提灯から、きっとここが居酒屋なのだろう。そんな推測は少年にもできた。
「居酒屋……」
少年はちょこんとそこに座り込んだ。
ポケットに手を突っ込むと、カサリと紙がこすれる音がした。少年は貰った夕食費が2000円だったことを久しぶりに感謝した。
しばらくすれば、ぼうっとした明かりが提灯の中に灯る。少年はそれをたしかに見落とさなかった。
ぱっと立ち上がると少年は引き戸の前に立った。
ガラガラガラと、引き戸が開いた。6時前とはいえ外はそれなりの暗がりで、中の光が少し眩しく漏れ出した。
「ああん?」
無精ひげが若干伸びている男が暖簾片手で引き戸の奥にいた。間の抜けた声でそう言った男は少年を見て呆然とした。
「どうした? 少年」
「メシ食いに来た」
きっと男はそんな返しが来るとは思っていなかったのだろう。その言葉に明らかな驚きを見せた。
「あのなあ少年、この店がどんな店なのか、知って――」
「居酒屋だろ? 知ってる。赤提灯ついてたし、暖簾に呑ん処って書いてるし」
「だったら、なんで――」
男が少年にわけを聞いた。だが、その質問は最後まで言われることなく遮られる。
「日本には未成年が1人で居酒屋に入ることを禁じる法律はない。俺がここに入ることを禁じることは法律では無理。まあ、店によっては未成年お断りって店もあるらしいけど。」
「あのな、少年。その食い気味に言うのやめないか?」
「そんなことはどうでもいいからさ、入れてくれるのか、入れてくれないのか。入れてくれないのなら、俺は今日の晩飯作るための食材買いに行かなきゃいけないからよ」
スパッとそう言い切った。男はというと平然そうな顔をしていたものの「そんなことはどうでもいいから」と言われたことが割と傷ついていたようだった。
「いちおう聞いておく。お前、両親は?」
「仕事中。いっつもそう。夕食費だけおいてそのまま仕事に行く」
「そうか」
寂しいと思っているのか、もしくはそれすら忘れてしまっているのか。少年は複雑そうな顔をしていた。
男は少年のことを置いて暖簾をかけ始めた。
「ちっとばかし早いが、まあいいだろう。開店だ」
その男の言葉に、少年の顔が少しばかり明るくなる。
「おい、少年。酒は出さねえからな。入るなら勝手に入れ」
男は少年にそうとだけ言うと店の中に入っていった。扉は閉めずに中へと。
開けられたままの扉は、少年を迎え入れて、そして閉じられた。
「おい少年、なにが食べたい?」
「少年じゃない。俺の名前は藍斗だ」
その言葉に男は少し驚いて、それから声にして笑った。
これまでは「少年」と呼んでいても怒らなかったくせにいまは「少年」と呼んだら怒られた。
はたして、その変化が示すことはなんなのか。
「そうか、そりゃ悪かったな、藍斗。ちなみに俺は遼平だ」
「よろしく、おっさん」
「お、おっさんって……」
男、もとい遼平は落ち込みかけたがよく考えてみればこの少年――藍斗からしてみれば随分と年上の「おっさん」なのだろう。と、とりあえずそういうことにしておいた。
「で、藍斗はなにが食べたいんだ?」
「なにがあるんだよこの店。メニューに酒とジュースしか載ってねえぞ。ふざけてんのか?」
「ふざけてはないさ。もう少し後ろに書いてるだろ? 作れるものならなんでも作るって」
藍斗がそう言われ、お品書きの紙をジッと凝視する。「あっ」という声がして遼平は藍斗が見つけたことに気づいた。
「で、なににする? ものによっちゃ時間をもらわなきゃってものもあるけど」
「カレー。カレーライスが食べたい」
「カレーときたか。まあいいぞ、時間はある程度もらうからな」
藍斗はコクリと頷いた。
そして今現在のこと。
「どうした? おっさん。ボーッとして」
「ああ、ちょっと昔のこと思い出してな」
「昔って?」
カウンターに座った藍斗はお通しの酢の物をモシャモシャと食べながらにそう尋ねる。遼平は軽く笑いながら「お前が初めて来たときのこったよ」と言った。
「しかしまあ、あんときは驚いたよ。扉開けたらそこにちっこい子供がいたんだから」
「子供っつっても11歳だったろう」
「居酒屋に11歳の子供が1人で来るか?」
「違いねえな。……まあ仕方ねえだろ。美味そうな匂いしてたんだから」
傍から見ればただの言い合い、下手すれば喧嘩だが、本人たちは割と楽しくやっているようだった。
「ったく、そんな話してたらカレーが食いたくなっちまったじゃねえか。責任とれ、カレー作れ」
「はいはい、今日の注文はカレーね。時間もらうぞ?」
「わかってるよ。あと、できるまでにつまめるものもくれ」
「了解了解」
遼平は適当に冷奴やらトマトやらを冷蔵庫から出して藍斗の前に置いておいた。それから人参、玉葱、じゃが芋と出してそれから、
「肉はどうする? 牛か豚か、それか鶏か」
「わかってるだろ? あの通りだよ」
「へいへい」
そう言われて遼平が取り出したのは牛肉。コロンとした塊の牛肉だった。
それらを適当な大きさに切り分ける。ゴロゴロとした食材がザルやまな板の上に集まった。
鍋が火にかけられる。バターナイフに取られたバターが鍋の中に入れられると、通った道やバター周辺からブクブクと泡を立てて、香ばしいバターの匂いが広がった。
続いて鍋に放り込まれたのは牛肉。ジュウといういい音で鳴き始め、これまた違った匂いを放つ。
ある程度、肉に色味がついてきたところでじゃが芋が、人参が。そして最後に玉葱が入れられる。
最初の方こそ一旦音が落ち着いたのだが、だんだんと音は大きくなり、鍋の中はまたも騒々しくなる。
そんな鍋の音を消したのは水だった。カップに入れられた水が鍋に注がれると一気に静かになる。
「そういえば、俺の第一印象ってどうだったの?」
煮立つまでを待っている間、藍斗がそう聞いた。
「第一印象? クソ生意気な坊主がなんか店先に居座ってるなあって。そう思った」
「クソ生意気な坊主……まあ、あれじゃ仕方ないか」
顔を若干引きつらせて藍斗が笑う。
「でも、なんていうか、関わってるうちにそう悪いやつでも無いかなって。生意気なのには変わりないけどさ」
「そりゃどうも。そう思うなら雇ってくれてもいいのに」
「ダメだって言ってるだろ。まず俺に雇う気がないし、余裕もないし。高校生なんかなおさらだっつーの」
「えー、ケチ」
プクッと頬を膨らませてふてくされる。
「遼平さん、こんばんわ。あ、藍斗くんもこんばんわ」
「水鳥さん、こんばんわ。あっ、そうだ、聞いてよ、今日もおっさんが雇ってくれないって言うんだよ」
「仕方ないだろ、諦めろ」
そんな男2人のやり取りに、フフッと水鳥が笑う。
「相変わらず仲がいいんですね。私が通い出す前からの付き合いですもんね」
「まあ、まさか小学生の常連客が生まれるとは思っても見なかったわけだがな」
水鳥も通いだした居酒屋に小学生が通っていたときはびっくりした。
「余裕がないとか言ってるけどさ、別に俺は給料はいいって言ってるじゃん。働きたいだけだって」
「ダメだ。無賃労働は仕事の質が下がるし、なによりとやかく言いにくくなる。給料ってのは信用を買ってるんだ。そんで、給料を貰うってのは責任を同時に受け取る。そういうもんだと思ってるからよ、無賃労働はやって貰うわけにゃいけないんだ」
割とガチめの説明で、聞いていた2人はすっかり黙ってしまっていた。
丁度、鍋の中がふつふつと沸き出した。
一旦火を止めて、カレールウを中に入れる。溶かしてみると、だんだんと茶色に染まってくる。
そして、もう一度火にかける。
「あ、そうだった。聞き忘れてたんだけど、水鳥ちゃんは注文どうするの?」
「あ、ああ、その。私もカレーって大丈夫ですか?」
「大丈夫だぞ。なら、ちょっと待っててくれよな。藍斗も。あともうちょいだから」
そう言いながら、戸棚からカレー皿を2皿取り出す。その一方にご飯を盛って、お玉を使ってカレーを流し入れる。
「ほら、どうぞ」
2人の前にカレーライスと、それから銀色のスプーン、らっきょと福神漬が置かれる。
「いただきます!」
2人揃ってそう言った。それを横目に遼平自身も自分の分をよそう。
「うん、これ。やっぱり呑ん処のカレーって言ったらこれだろ」
「そりゃどうも」
褒められてるのか、そうじゃないのかわからなくて、遼平は中途半端な返事をしていた。
その一方で、
「おいし――辛っ!? え、辛っ! 辛い辛い辛いっ! 水水水水……」
大惨事とでも言おうか。2次元なら火を吹いていそうなそんな様子の水鳥がいた。
こうなるだろうと予測手していた遼平は、あらかじめ横にお冷は置いていた。のだが、このテンパりで全く気づいていない様子だった。
「はいっ、ほら飲みな」
とりあえず、コップを取って水を注ぎ、水鳥に渡していた。コクッ、コクッ、コクッと、飲んでいくうちに、だんだん水鳥の精神もだいぶと落ち着いて来たようで、
「か、辛かった……」
息を切らせながら、水鳥はそう呟く。相当に辛かったらしい。
必死に笑いをこらえていた藍斗。どうやらこの状況を想定していたのは遼平だけではなかったらしい。
「遼平さんっ! な、なんなんですか、これ!」
「カレーライスだぞ。大辛の」
大辛――つまりは辛口のその更に上。辛さとの純粋な戦い。
平然と食べる者は平然と食べるが、無理な者は完全に無理なそれ。
「そういうことは先に言ってくださいよぉ……」
「悪い悪い。もしかしたらいけるのかなあっとか」
ほとんどそうは思っていなかったが、とりあえずそう言っていた。
珍しく、遼平がドSだった。
「卵、いる?」
遼平のその質問に、首がもげるのではないかと思ってしまうほどに首をブンブンと振っていた。
「けど、やっぱりアレだな。家の味とはどう頑張っても似つかねえな」
「そりゃあそうだ。隣の家のカレーと自分の家のカレーの味が似てたら、それはそれで怖いだろ?」
たしかにそうかもしれない、と。藍斗はそう思ったりしていた。ただ、その言葉の本意はどちらかといえばそこにはなく、
(ほら、藍斗。カレーだぞー?)
(辛くて熱いから、気をつけて食べないさいね)
いつしか食べた、両親との思い出。
その時は、子供扱いをあまり嬉しく思わなかった、そんな時期に食べた。
甘ったるすぎる、カレーの味に。
『おいしいけど、これじゃない』
6年前の自分と同じ、そんな気分に浸る。
まあ、甘ったるすぎるほどの甘口が、大辛の味と似ついていたのならば、それはもう甘口と大辛の意味がないだろう。