箸休め キュウリの浅漬
「あん?」
ある日の昼下がり、遼平はちょうど買いだし帰りだった。
そんな遼平の前に現れたのは1人の子供。女の子。
「お姉ちゃーん! ほら、早くっ!」
彼女はこちらを向きながら後ろ向きに走っていた。どうやら遼平より後ろに彼女の姉がいるらしい。
なんとも和やかで、微笑ましい様子であった。しかし、その様子に遼平が和めたのは一瞬だけだった。
「美香っ! 前見なさい!」
「っな!」
一瞬理解が遅れ、遼平は焦った。
子供が進んでいるその奥には道路があった。とてつもなく車通りが多いというわけではないが、車はたしかに走っている、現在赤信号の道路。
両手には食材の入ったビニル袋を持ってはいたが、致し方ないと思ったのだろう。遼平はその袋を乱雑に地面に捨て置き、走った。
「へ? どうしたの、お姉ちゃん」
その女の子が姉の声に気づいたときには、既に横断歩道に2、3歩踏み入れていた。そして運悪く、このタイミングでトラックが走ってきていた。
けたたましいトラックのクラクションとブレーキ音。すぐに逃げればよかったのだが、女の子はその音に怯んでしまって動けない。
遼平は手を伸ばした。間に合えと何度も願った。
そしてその手は、たしかに女の子の腕へと届いた。痛いと思われても仕方ないと、死ぬよりマシだろうと思い、しっかりとその腕を握って、引っ張った。
遼平の体にぶつかり、女の子の体は止まる。
横断歩道を少し過ぎたところあたりで止まったトラックの窓から1人の男性が顔を出した。
「おいっ、ガキンチョ! ちゃんと前見て歩けっ! 危ねえだろっ!」
「ご…………ごめんなさい……」
完全に萎縮してしまった女の子は、震えながらもそう謝った。
トラックの運転士はその言葉を聞くと、それでも少し不満げに鼻を鳴らし、首を元に戻した。
そしてそのまま行ってしまった。
「大丈夫? 痛くなかったか?」
遼平は引っ張るときに力を入れて握ったことを再度思い出し、そう聞いた。
「大丈夫です、痛くないです。その、ありがとうござ――」
彼女はそこまで言うと、口を開けたままで硬直してしまった。
「どうした? やっぱり痛かったか?」
「好き…………」
しばらくの沈黙が続いた。
「はい?」
遼平がやっとの思いで捻り出した言葉がそれだった。この女の子は、一体なにを言っているんだろうか? そんなクエスチョンマークが遼平の脳内を埋め尽くす。
「好き……です、結婚して下さい……」
追い打ちのように放たれたその言葉に遼平はさらに困惑する。
居酒屋という職業だ。基本的には未成年とはほぼ関わり合わない。藍斗が多少イレギュラーなだけで、更に言ってしまえばこんな小学生低学年か、もしくはそれよりも下の子供となんて関わることなんてない。
そんなこんなで、遼平にはこの言葉の重みがいっまいいかほどの物なのかを知らない。いや、割とこの女の子も本気で言っている――なんてこともありえなくはないが。
「は、え…………え?」
「すみません、うちの美香がご迷惑を……」
困惑していた遼平のもとへ、さっき叫んでいた彼女の姉が近づいてきた。
「あ、ああ。大丈夫ですよ」
とりあえず、助けを求めようと遼平は振り返る。そこには中学生か、高校生か。それくらいの少女が1人、スーパーのビニル袋両手に立っていた。
そして彼女は遼平の顔を見るや否や先程の美香と同様に硬直する。
どこかで見たことがあるようなこの状況。既視感とも言われるこの状況、すなわち、
「好き…………」
デジャヴである。
「って言うわけで、なんでか知らないんだけど好きって言われて、なんでか知らないけど着いてこられて、結果、店の前でなんでか待機されてるって感じ」
「な、なるほど……じゃあ店の前にいた2人が今の話に出てきた美香ちゃんと伊代香ちゃんってことですね」
夕方、午後6時ほど。1番にやって来た水鳥に現在の状況を説明していた。
というのも、遼平が言う通り店先には、あの姉妹がいる。伊代香というのは美香の姉で、美香の後に遼平に「好き」と言った子だ。
さすがに居酒屋ということもあって、今のところは入ってきていない。
遼平にしてみればありがたい話なのだが。
「あの姉にしてあの妹あり……なんてな」
「遼平さん、なにうまいこと言ってるんですか。シャレになってませんよ……あはは……」
ちなみにではあるが、遼平は気づいていないものの、水鳥はかなり顔面蒼白である。まあ、ライバル(子供)が現れたからだけれども。
笑い声だって、とてつもなく力ない笑い声だった。
「よーっす。おっさん、やってる?」
ガラリと扉が開いて、その隙間から藍斗が顔を覗かせていた。
「やってるやってる。入れよ、ほら」
遼平が適当にそう言うと少しだけ空いていた扉が音を立てて大きく開いた。
「じゃあ、今日は適当に軽くつまめそうなの頼む。漬物とかそこらへん」
「あいよ。ちょっと待ってろ」
「お、お邪魔しまーす……」
「しまーす……」
遼平にとってかなり不穏な声が聞こえた。冷蔵庫からキュウリの浅漬を取り出そうとしていたその手さえ止めて硬直していた。
「おーい、おっさん。どうした?」
「お前……とんでもないヤツを連れてきてくれたな」
なんとか正気を取り戻した遼平は半目状態の疲れた瞳で藍斗を睨み付ける。
コトリと言う音がしてキュウリの乗った小皿を置かれる。
「とんでもないヤツって、このガキ共か?」
「ああ。ったく、なんでよりにもよってそいつらを連れてくるんだよ」
「店の前で入りたそうにオロオロしてたから。この店別に未成年入って大丈夫だろ? 俺も未成年だし」
ニヤリと不適な笑みを浮かべた藍斗。
「大丈夫だけどよお……ったく……」
不服そうにぼやく。大体の事情は理解している水鳥は苦笑いをしている。
藍斗の隣にちょこんと座った少女2人は、それはもう、刺し殺してしまいそうなほどに熱い視線で遼平のことを見つめていた。
「好き」
「好き」
やはり、遼平は苦い顔をする。そしてここまで来て藍斗も状況を理解する。
「とりあえずお前さんら、こんな居酒屋にいるなんてこと、両親は知ってるのか?」
「美香たちにおとーさんはいないよ? 私がちっさいときにどこか行っちゃったらしくて、私会ったことないんだ」
「5年前に母さんと父さんが離婚したんです」
「お、おお、すまねえ。これは失礼なことを言った」
2人にも藍斗と同じようにキュウリの浅漬を差し出しながらそう謝る。
「いえ、気にしないでください。遼平さんは知らなかったことですし、この子もあんまり気にしていない……というか、理解できていないようですし」
伊代香は美香の頭を撫でながらそう言う。美香は出されたキュウリを満足そうに口に運んでいた。
「まあ伊代香ちゃん、ここはただの居酒屋だ。愚痴をぼやこうがなにを言おうが、気にする人はそうそういない。……無理して思ってることを我慢することはないぞ」
伊代香がわざわざ「この子」と言った意味。もしかしたら、美香は父親がいないことを気にしていなくても、伊代香の方は……と、そう遼平は考えた。
(まあ、考え過ぎかもしれないけどな)
いらない世話だったろうか? なんて考えていると、遼平の正面の伊代香が口を開いた。
「ありがとうございます。やっぱり遼平さんは優しいですね」
「そんなことはないぞ。ただのどうでもないおっさんだ」
遼平は軽く笑ってそう言った。やはり鈍感なのか、遼平は気づいていないものの、カウンターに座っている水鳥はその首がもげるんじゃないのか? と思ってしまうほどに横に振っていた。
その様子を見た藍斗はめちゃくちゃに笑っている。
「とりあえず、なにか飲むか? あ、酒はダメだからな」
「あ、いえ、お構いな――」
「美香はね、ソーダ! ソーダ飲みたい!」
「美香! ああ、気にしないでください」
「いやいや、いいんだよ。ほら、ソーダだろ? 伊代香ちゃんも、なにか飲む?」
冷蔵庫からソーダの缶を取り出し、プルタブを起こして開ける。
トクトクトクと中身をコップに注ぎ入れ、ちょうど1缶でいい感じにコップが一杯になる。
そうしてソーダを入れたコップを美香の前に差し出した。
「んなっ!?」
そして、その手を戻そうとしたときだった。
その手はカウンターから戻されるその前に、小さな手に握られる。
「やっぱり美香と、私と結婚してください、遼平さんっ!」
「はあああああっ?」
「な、なに抜け駆けしてるのよ! 遼平さん、美香じゃなくて私と結婚しましょう!」
遼平が絶叫する。遼平が割と力をかけて手を引いてはみるものの彼女の握力が異様に強いのか、離れようとしない。
水鳥は絶句、藍斗は1人大笑いしていた。
「ちょっと、2人とも、一旦、一旦落ち着こう。冷静に、な?」
「美香、とっても冷静!」
とても冷静には見えない、どっちかというと相当に興奮している様子だが、とりあえず遼平は「そっかー」と棒読みで言う。
「よーし、冷静なんだな? じゃあ美香ちゃんは今何歳かな?」
「6歳! 美香6歳だよ!」
左手でパーを作り、そこに人差し指を指して主張する。少しその勢いに気圧されながらも遼平は続ける。
「じゃあ、女の子は何歳から結婚できるのか、知ってるかな?」
「知ってるよ! 16歳でしょ!」
「よく知ってるね。でね、俺は今36歳なわけ。美香ちゃんが結婚できるようになるころには46歳になっちゃうんだよ?」
「うん。それがどうしたの?」
純粋無垢な笑顔でそう返される。反論の術を失ってしまった遼平は苦い顔をして絶句した。
「遼平さん、それなら私と結婚しましょう! 私なら今14歳なので、あと2年で結婚できます!」
「ちょっと、お姉ちゃん! ズルい!」
「あっはっはっはっ! モテモテだねえ、おっさん」
「やめてくれ。藍斗」
かなり疲れた様子で遼平はそう言っていた。藍斗は笑い死なないかと思わせるほどに笑い続けていた。
水鳥は、唖然として、呆然として、死んでいるのか生きているのかわからないほどに放心していた。
そんなこんなで夜、午後7時半になったころ。
「すみません、うちの美香と伊代香がお世話になってしまったようで。」
「あ、お母さん!」
「母さん。すみません」
どうやら、2人の母親が来たようだった。
「全く。おつかいの帰りが遅いと思ったら2人して寄り道を、それも居酒屋になんて」
「だってえ…………」
不服そうに頬を膨らませ、美香が「むう」と言う。
「まあ、そう頭ごなしに怒らんといてやってください。とりあえずお母さんもこちらへ来て1杯どうですか?」
「ああ、ありがとうござ――」
彼女は、そこまで言って固まる。もう既に遼平にとって既視感に満ち溢れているその光景、嫌な予感しかなかった。
「好き…………」
つい数十分前にやっとこさ意識を取り戻した水鳥はまたも気絶し、笑いの随分と収まってきていた藍斗はまたも笑いを再開させた。
「わ、私はこの子たちの母親の錦香と言います。えっと、店主さん。私と結婚してくれませんか?」
「この母親にしてこの娘たちありーってな」
「やめろ、やめてくれ、藍斗、こればっかりはホントに冗談とか言ってられん」
笑いながら言う藍斗に小さく遼平が言った。
「ちょっとー、おかーさん。遼平さんは美香と結婚するんだよ!」
「違うわよ。私よ私。美香はまだまだ小さいんだから」
「なに言ってるのよ小さいのは伊予香も一緒よ。2人ともまだ結婚できないでしょう?」
「お母さん、私あと2年で結婚できるわよ!」
「み、美香だってあと10年で……!」
突然に親子ゲンカ、姉妹ゲンカが始まった。
げっそりとした表情で遼平はため息をついた。
普段から遼平の口調といえば気だるそうだが、この日は一層気だるそうだった。
なんといっても、本当に気だるかったからだろう。
「もう、勝手にやってくれ」
喧騒と笑い声と、ため息と絶句と。この日の「呑ん処」はやけに賑やかになった。
言うまでもないが、その後この3人は案の定常連客となった。
幼女と中学生とシングルマザーと。
遼平の心労は日々増え続ける。
ついでに水鳥の心配も増え続ける。