お通し ほうれん草の煮浸し
ここは、人通り溢れる繁華街。
――から、路地裏に入り込んでしばらく行ったところ。
そんなところで、店先に暖簾を掛けている男がいた。
その隣では、赤提灯の中の蛍光灯が点滅しながらも周囲をぼんやりと照らし出している。
暖簾には「呑ん処」と言う文字。
男、店主は引き戸を開けて明るく光る店内へと入る。
ピシャリと閉められたその後には、もうそろそろ夜と言わんばかりに暗くなってきた路上に、ぼうっと赤い光だけが残っていた。
居酒屋「呑ん処」、今日も今日とて、開店するようです。
ガラガラガラという音を立てて引き戸が動く。その隙間から1人の女性が顔を覗かせる。
「やってますか?」
「おう、水鳥ちゃん、いらっしゃい」
なんでもないようでどこか気だるそうな口調。店主はそう言うと、女性は嬉しそうに中へと入っていった。
店主は別にやる気が無いわけではないのだが、元々このような口調らしい。
「なんにする?」
「そうですね。えっと」
なにを食べるか考えている様子だが、全くもってお品書きを見ようとする気配はない。
見ないのは、見る必要がないからなのだけれども。
それがなぜなのかは、メタい話、読み進めれば自ずとわかるのでここでは割愛。
「じゃあ、いつも通りだし巻き玉子で! それから冷酒も!」
「あいよ。お通しはどうする?」
「あ、お願いします!」
その返事を聞いた店主は女性の前にコトリと小鉢を据え置く。
「今日はほうれん草の煮浸しだ。そこに置いておくから」
「ありがとうございます」
女性はその小鉢を少し自分の傍に持ってきて手を合わせていた。
またも、引き戸が動く音がした。
「やってるー?」
「やってるやってる」
男性、女性、何人かの人がやってくる。
「んーとね、そうだね、遼平さんってアクアパッツァってできる?」
「これまたなかなかレアなところを突いてきたな。できるぞ」
「じゃあビールとそれ頂戴!」
「俺はそうだね、今日は刺身ある?」
「新鮮なのだったら、今日仕入れたのはサーモンとマグロとイカかな。昨日か一昨日くらいに仕入れたのなら他のもあるけど。」
「じゃあ適当に盛ってくれ。酒は日本酒」
「了解です」
「煮物ー、具材は適当にー」
「煮物って……時間かかるぞ?」
「時間はどうだっていいから。あ、でもそれなら枝豆かなんか出してー」
「はいはい、了解。お通しどうする?」
「私食べる!」
「俺も」
「俺も食べる」
さて、感のいい人ならお気づきだろう。この店のお品書きが、いかなるものかを。
この店には、この店のお品書きには料理の名前は1つもない。
書かれているのは粗雑な字で日本酒とビールと焼酎と、ジュースとそれから「料理は相談 値段時価」の字。
店主、遼平曰く「初めの頃はあった」らしい。けれど、ある日1人の客が「これ作れる?」と聞いたことから「これもできる?」「こんなの作って!」という注文が多すぎて、そのうちお品書きから全て消したという。
店主のこの男、更科 遼平は彼女いない歴=年齢の36歳、20代の頃にいろんな店の料理人として転々とし、そのおかげさまである程度メジャーな料理なら基本的に作れる。
今では居抜きの物件を買い取って開いたこの「呑ん処」で客を相手に楽しませ、自らも楽しんでいる。
「はい。今日のお通し、ほうれん草の煮浸し。それからこっちは枝豆ね」
カウンターに座った客たちの前にコトリコトリと皿が置かれる。
繁華街から路地裏に入り込んでしばらく行ったところ。
暖簾と赤提灯が特徴的なこの店の中には、温かい飯と旨い酒と、個性豊かな人情で溢れている。