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絵の中の女の子が動いてしゃべって微笑んでくれるのが愛おしくて仕方ないのだが。



 蒸し暑い夏であった。

 自分は、しがない漫画家である。

 漫画雑誌の読みきりで、デビューしたはいいものの、その後なかなか大きくヒットしないために、底辺を彷徨っている。

 インクに染まった紙が散乱する狭い部屋の中で、頭を抱える。

 ああ、どうやったら、読者の心をつかめるような漫画が描けるのだろうか。

 こうやって、真っ白な紙の前で唸っていてもしかたがない。

 描いて、描いて、描きまくるだけだ。


「あれ? 俺、ここにドーナツを描いてたはずなんだけど、ないなあ。ヒロインちゃんが食べちゃったのかな。はははそんなわけあるか。馬鹿だなあ。漫画の描きすぎで、とうとうイカれてきちまったかな」

 紙に描いていた絵の中の物が、ちょくちょくなくなる。

 これはおかしい。

 さすがの俺も、メモとして残しておいた服のデザインの絵がなくなったときに、自分の勘違いではない、ということを確信した。


「あれま。こんなところにべっぴんちゃん描いたっけかな」

 壁にピンで乱暴に貼り付けた漫画の下書きに、見知らぬかわいい女の子がいるのを発見した。

 描いた憶えのない女の子である。

 漫画の下書きによく馴染んでいて、自分が描いたのだと言われても、なんの違和感もない子である。

 が、しかし、やはり見覚えはない。

 まばたきをした瞬間、ありえないことが起こった。

 その絵の女の子が、吹き出しのあるコマに移動したのである。

「えええええええうそだあ」

『ウソじゃないよ』

 絵の女の子の口が、開いたり閉じたりするのに合わせて、吹き出しの中に文字が浮かび上がった。

 今度こそ、見間違いでも勘違いでもない。

 空白にしたままの吹き出しの中に、ひとりでに文字が浮かび上がったのをはっきりと見てしまった。

 まるで、絵の中の女の子がしゃべっているようだ。


「キミは、なに? おばけ? 怪奇現象? 夢でも見てるのかなこんな真昼間に」

『おばけでも、怪奇現象でも、夢でもないよ。わたしは、絵の中の住人なの』

「絵の中の住人?」

 吹き出しは、俺がしゃべっている言葉に返事をするように、返してくる。

 この不可解な現象は、怖さと同時に、ちょっとだけワクワクとさせられた。なにか、非日常的なことが、自分に起こっているのではないか。漫画のネタに使えるのではなかろうか、という。

『無断でモノをもらってごめんね』

 女の子は、絵の中で謝るようなしぐさをする。

「モノって? あ! もしかして、ドーナツやら服やらがなくなっていたのって!」

『そう。わたしがもらっていたの。とっても美味しかったし、とっても素敵な服ね』

 なんと、女の子が着ているのは、そう、自分がデザインして描いておいた、あの服ではないか。

 これは驚いた。花柄トーンをセンス良く貼り付けたワンピースは、この女の子にとても良く似合っている。


 それから女の子といろいろ話し合った。

 女の子は絵から絵へ渡り歩いていること。

 数キロ程度離れている絵画へいくことができること。

 もしよければ、俺の絵にしばらく住まわせてほしいこと。

 そして気が向いたときでいいからわたしのためになにか描いてもらえないかということ。

 服とか物とか食べ物とか。俺が描きたくなったものでいいらしい。

 基本的に食べ物は別に食べなくても生きていけるけど、美味しいものは食べてみたいということ。

 そんな些細な願いを吹き出しに言う彼女がかわいく思えた。

「よし! わかった。俺に任せろ! とびっきり美味しいご飯やお菓子を食べさせてあげよう。あと、服とかモノとかも、欲しいモノがあったらじゃんじゃん言ってくれて構わない。どうせ売れない漫画家の俺は時間がたんまりあるんだ。どーんと任せなって」

『ありがとう』

 そう言う彼女がいじらしく思えた。

 俺は張り切って何枚もの紙を使って貼り合わせて、壁にでっかい絵をひとつ描いた。

 そう、彼女の住む部屋だ。

 女の子は絵の部屋に移ると(本当に移ることができた!)、嬉しそうに歩き回っている。

 彼女の絵のタッチは、そのときいる絵によって変わるらしく、違和感なくその壁の絵にいる。

 もちろん、その絵の部屋にも吹き出しを書いておいたので、彼女はしゃべることができる。


『こんなに素敵な部屋をもらったのは、わたし初めてよ。どうもありがとう』

「いやいやこちらこそ。キミはどこの絵に入っても、絵になるね」

 俺の最大限の誉め言葉である。

 女の子は照れるしぐさをしてくれた。

 なんだ。ものすごくかわいいじゃないか。こんなかわいい子を追い出すのは心無いやつがやることだな。おばけや怪異と疑ったことを棚に上げて、俺はそんなふうに思った。

 俺は、漫画を描く傍ら、彼女の部屋にいろいろなモノを書き込むようになった。


 お菓子に始まり、服や家具、女の子が好きそうな小物など、たくさん描いた。

 どれもこれも、彼女は喜んでくれた。

 だがしかし、

『わたし、これは受け取れないわ。せっかく描いてくれたのに、ごめんなさい』

 そう言われたのは、彼女の部屋の絵柄に全く合わない人形を描いたときだ。

『ごめんなさい。あまり絵柄と合っていないモノや、絵の中での物理法則がおかしいモノは、わたしは触れなくなってしまうの』

 俺は慌てて描きなおした。

「これで触れるか?」

『ええ! これなら触れるわ! ありがとう! 大事にするわね』

 それから俺は、彼女に描いてあげるモノをきちんと丁寧に描くようになった。

 そんなふうに穏やかな何日を過ごしていった。


 ある日、外で彼女が喜びそうな他の人の絵を買ってきた。満を持して彼女の絵の部屋の隣に掛けたら、その絵には入ってくれなかった。

「どうして移らないんだ?」

『だってその絵には愛情がないし、知らない人から物をもらうのはダメなのよ』

「最初、無断で俺の絵から盗ってたのはいいのか」

『あなたの絵はとても愛情がこもっているのよ。素敵で魅力的だったの。無断だったのは本当に謝るわ』

「そ、そうか。愛情かぁ。まあこの買ってきちまった絵は押入れにでも置いておくか」


 漫画作成の息抜きに、迷路を描いてあげたら楽しそうに散策したり。

 打ち合わせや取材で外に行ってご飯を食べて帰った日には、そのご飯を描いてあげて彼女にも食べてもらったり。

 どれもこれも、彼女は笑顔で答えてくれた。

 ほのぼのとした俺と絵の女の子の生活。


 俺は昔から人物を描くのは結構上手いと言われてきた。しかし、背景や物を描くのはイマイチだったようで、彼女のために描くことによって、どんどん腕が上達していった。

 絵が上達するにつれて、仕事がどんどん入ってくるようになった。

 彼女のためにモノを描くことで鍛えられて、細かい描写もお手の物になっていた。

 いろんな仕事をこなしていくうちに、長期連載物の漫画がひとつ、ヒットした。バトル物の少年漫画だ。

 それからは忙しくなった。

 嬉しい悲鳴だ。

 あの悶々としていた底辺の生活はなんだったのだろうと思うほど。

 俺の仕事と収入面は充実していった。

 でも、その影響で彼女に構っている暇はどんどんなくなる。

 没になった絵は彼女のために壁に貼っていくが、以前のように彼女とゆっくり話をすることはできなくなっていく。

 しかし彼女はそれでも嬉しそうだ。

『わたし、住むことを認めてもらって、ほんのときどきでもわたしのために絵を描いてくれるだけで幸せなのよ』


 そのうち漫画の知名度が上がっていく。

 売上何万部突破だ。小説化だ。アニメ化だ。次は実写化か?

 そんなふうに有名になっていく。

 仕事が楽しくてしかたがない。

 漫画家になりたくて、漫画をずっと描いてきたのだ。

 その漫画がこんなふうに世の中のたくさんの人に楽しんでもらえたら、こんなしあわせはない。


 便利なようにもっと都内に近い広いマンションに引っ越しをした。アシスタントさんもたくさん雇うようにまでなった。

 その新しい仕事場兼住居にも、絵の女の子を連れてきた。

 彼女は俺以外の人間がいるところでは一切動かないし、しゃべらない。そう決まっているのだそうだ。

 仕事場の部屋の壁には、俺が描いた彼女のための部屋の大きな絵の中で、女の子は座ってこちらを見て微笑んでいる。

 俺はその絵に時々、モノを描く。

 食べ物や衣装、日常品。いつの間にか消えていたり、絵の中で移動していたりする。

 彼女は嬉しそうに微笑んでいる。

 俺はそれを見て満足する。

「この女の子、先生が描いたんですか? かわいいですね。なんていう名前なんですか?」

「かわいいだろ。俺の自慢の彼女なんだ。名前は知らないけどね」

 アシスタントさんとそんな会話をした。


 人がたくさん出入りするようになったからか、彼女はあまり移動をしなくなった。

 吹き出しにも、文字を浮かべなくなった。

 それは少しさみしい。


 ある日の修羅場。みんな徹夜で、〆切にギリギリ間に合わせた夜。アシスタントさんたちはその場で眠っている。

 ふと目を覚ますと、彼女は俺の手元の絵に移動していて、俺を撫でるように動いていた。おつかれさま。と口パクで微笑んで、愛おしく思えた。


 アニメ化をした頃だったろうか。ちょっとした知り合いの知り合いの女性からアプローチをかけられた。

 容姿が俺の好みで、何回か一緒に過ごしてわかったが、性格も俺好みだった。

 お付き合いをするようになった。


 まあ俺は忙しいから、もっぱら家に来てもらって、漫画の手伝いをしてもらっている。絵が描けなくても、絵を描く以外にもやってもらえると助かることはたくさんあったから。


 月日が流れて、俺はその女性と結婚した。


『結婚おめでとう』

 絵の中の女の子の近くの吹き出しにそう書いてあった。


 あれからずっと、何年も経った。


 妻は、息子と娘と孫に見守られながら穏やかな表情で老衰でしあわせな最期を迎えた。


 あんなににぎやかだった家には、もう俺ひとりだ。


 いや、俺と絵の中の彼女のふたり。


 紆余曲折あって、結構波乱万丈な仕事だったが、漫画は完結まで描き切った。

 今は時々、一枚絵の依頼が舞い込むくらいだ。

 それもすぐに終わらせる。


 日がな一日、絵の中の女の子とおしゃべりをする。

 彼女のためにたくさんの絵を描いてあげる。

 部屋全体の壁や天井、床に絵を直接描く。

 彼女は嬉しそうに部屋の壁を歩き回る。


 彼女はあの暑い日にあった当時から、成長せずに小さな女の子のまま。

 俺はしわしわの爺になってしまった。


 彼女に見守られて永遠の眠りにつく。

 彼女の目から涙がこぼれたのを最期に見た。

 絵の中の住民も、涙を流せるのだなぁ。


 それは、まるで幸運を舞い込む座敷童子のよう。


 彼女の姿はもう彼の絵にはない。


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