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空気の欲張り袋

作者: 前岡光明


序 章


 私、茶畑四郎は、中学の数学教師を務めている、23才、独身。身長168センチ、体重70キロ。残念ながらイケメンではない。特に趣味はなし。

 今年、四月からの新米教師だが、課外活動の科学研究クラブの顧問をしている。

 四月半ばのことだった、校長に、「科学研究クラブの顧問をやる気はないかね。理科の勝田先生は野球部の顧問をされているし、このところ私用で忙しかったりして、彼は無理だ。適任者が居ないので弱っている。なんとか君が引き受けてくれないか」と懇願された。「専門が違います」と言って断った。

 でも、次の日、「どうしても顧問をつけなければならない。君はまだどこのクラブの顧問もやってないから、頼む。科学研究クラブを引き受けてくれ。でも、名前だけ貸してくれと言うわけにはいかない。

 教育の一環だから、教師として彼らの活動を見守る責任がある」

 そういう具合に、仕事の一部だと強要されると、断る理由がない。

「若いからだいじょうぶ、生徒たちは自発的に研究するから、時々、活動状況を報告させればいい」と押し付けられた。半ば業務命令だったが、私にすれば一大決心をしたのだった。

 引っ込み思案で、嫌なことは嫌だと頑なまでに言い張る私がよく引き受けたものだ。

 教師としての試練の一つと受け止めたのかも知れないが、あの時は、そんなに困っているならやってやろうじゃないかと、熱く燃えたぎる血が体内を駆け巡ったのだ。つま先から頭のてっぺんまで、私の体はゾクゾクと震えた。あんな具合に興奮したのは初めてだ。

 受け身で授業を受ける生徒たちが多い中で、自発的に科学を学びたいという子供たちに惹かれたのかも知れない。

 そうやって顧問になったが、ゴールデンウイーク前に顔合わせをやっただけで、まだ何の活動もしていない。

 ただ、部員には気象に関心がある者が多いようなので、私は気象の本を二冊求め、暇を見つけては読んでいる。ちっとも面白くないが、用語だけでもなじんでおこうとしている。




第一章 科学研究部


 期末試験が終わって、明日から夏休みだという日、科学研究クラブの部長の二年生の大和君が職員室の私のところに来た。

 夏休みの二日目から二日間、午前中に部の活動をしたい。各自が休み中の研究テーマを決める。それで、出来れば同席してもらいたい、という依頼だった。

 恋人もいない身軽な私は承諾した。


 背の高い大和君が、やおら、質問した。

「先生、低気圧の渦の向きが覚えられないんですが、なんかいい方法はないですか?」

「北半球では反時計回りだろう」と言いながら、

(こんなことぐらい、私でもわかる……)

 と、思ったら、

「高気圧は時計回りでしょう。南半球は反対でしょう。慌てていると、どっちがどっちだったか、こんがらがっちゃうんです」

(うん? それは、そうだ……)

 低気圧は? と聞かれたから、反射的に反時計回りと口に出たが、高気圧と低気圧と二つ出されたら、どっちがどっちだったか、自信がなくなる。

 正逆の性質を表す二つの対照的な概念の記憶は、取り違えやすい。

「さてね」と、私は考えた。

(低気圧に流れこむ風が、コリオリの力で弧を描く!)と閃いた。

(でも、どっち向いて弧を描く?)

 そして、これは簡単ではない、と思った。

 しかし、何らかの反応をしないといけない。

「君は、コリオリの力を知っているか?」

「それはなんですか?」

「転向力と言って、回転運動する地球表面で現れる見かけの力だ。

 ちょっと長い説明になるから、いつかコリオリの力のことを教えるよ」

「じゃあ、あさって、皆に話してください」と言って、大和君は一礼して帰って行った。


 なんとも強引な話だ。

 ふだん勉強を強要する立場の私が、逆に、明後日に備えて勉強しなければならなくなった。

 コリオリの力は、高校時代に習った。地球という球体表面で、わかりやすい説明を考えよう。大丈夫だ。

 それだけならいいが、気象の話となると、私はさっぱりだ。

 気象予報士に挑戦すると公言している大和君の方が詳しいだろう。


 それから、低気圧、高気圧のことを、にわか勉強をした。

 しかし、気象の参考書の記述は無味乾燥で、分かりにくい。

(なるようになれ!)

 初めて皆と顔を合わせた時、私は気象学は門外漢だと生徒たちに公言したから、知らなくとも恥はかかない。

 そう割り切ることにしたら、気が楽になった。

 そうしたら、

「俺が力になってやるから、大丈夫だ」と、呟いていた。

(あれっ!)

私の体の中に、もう一人の自分がいることに気づいた。

 一瞬、自分は二重人格者かと、身震いした。

「俺に任せろ」

「だって、中途半端な知識じゃ、生徒に馬鹿にされるだけだ。私は知ったかぶりはしたくない」

 すると、もう一人の自分が正体を現した。

「俺は、水分子H2Oだ。

 今、お前の頭の中にいる。お前は、コリオリの力のことは説明出来るんだろう?」

「うん。私は、なぜコリオリの力が働くか、説明できる。

 でも、コリオリの力がどのように気象に作用しているか、知らない」

「よし、お前はコリオリの力を話せ。そしたら、俺が偏西風のことをしゃべる」

(そうか、偏西風だったか……)と、私は思い出した。そして、ヒントを得た。

「よろしく」




第二章 コリオリの力


 当日、よく晴れた朝9時、七名の部員が集まった。

 大和部長が、てきぱきと会を仕切り、

「特別に、茶畑先生にコリオリの力のことを講義してもらいます。これは、どうして低気圧が渦を巻くか、その渦の方向はどうか、の解明につながります。……」といきさつを語った。

 私は話しだした。


 赤道上の投手が北に向ってボールを投げる

「地球のような回転体の表面には、コリオリの力と呼ばれる見かけの力が働きます。そのイメージを、私は話します。

 地球儀を思い浮かべて下さい。

 北極、南極を軸に地球が自転しています。

 さて、すごい強肩のピッチャーが赤道に立っていて、北極点に向ってボールを投げます。

 彼の肩ならじゅうぶん北極点まで届きます。コントロール抜群のピッチャーですから、狙いが狂うはずはありません。

 さあ、ボールを投げました。

 ボールが上空を通過するはずの日本で、大和部長が待っています。

 さあ、どうなったか?

 大和部長の頭上を通過するはずのボールは、はるか東側を飛んでいきました。

 そして、ボールはだんだん東にずれて、北極点には届きません。

 あたかも、東向きの力が働いてボールを逸らしたかのように、ボールは湾曲してます。

 コリオリという人が研究したので、この見かけの力、転向力を、コリオリの力と呼ばれます。

 さて、どうして、転向力が働いてボールの方向を変えたのでしょう?」

 皆の食い入るような目。数学の授業ではこんなことはない。


「私たちは地球の引力に引き付けられています。重力といいます。

 いっしょに大気も引き付けられているから、気づきませんが、地表に立っている私たちは、地球の自転でぐるぐる回っているのです。樹木も、石ころも、水溜りの水も、皆、いっしょに回っています」


「さあ、地球儀をくるくる回しますよ。

 さて、その回転速度はどこが一番速いですか? どうだ大和部長」

「赤道上です」

「そうだ。その回転速度は、回転半径が大きい赤道に立ったピッチャーが一番速い。

 中緯度の日本に立っている大和部長は、中くらいの半径だから、中くらいの速さで回っている。

 そして、北極の人はとてもゆっくり回っている。

 北極点に立つ人は、いつの間にか自分の体が回転している。

 これは、冗談。地球の回転軸は揺らいでいますから、北極点は常に変化しています」

 顔を見合わせる生徒たち。


「さて、もとに戻ります。

 地上の物体は、その立つ緯度によって、大きさの違う、東向きの慣性力を持っているわけです。

 でも、赤道上のピッチャーも、日本の大和部長も、周りの大気ごと地球に引き付けられていますから、自分が回転しているという感覚はありません。

 しかし、赤道でピッチャーの手を放れたボールは、赤道の強い東向きの慣性力を身につけています。だから、中緯度の大和部長の上空に来たときは、東側にずれています。

 そして、北に行くほどに右に逸れ、いつのまにか東向きになって、やがて力尽きて落ちます。

 あたかもボールを右側に湾曲させる力が働いたようです。

 回転球体の表面上で働く見掛けの力、コリオリの力です」

 皆の顔は納得している。

(やれやれ、私はうまく話せた。一安心……)

 私は、ふだん、こんなふうな授業をしたことはない。楽しいものだ。


「さて、次は、」と言って、それで頭の中は、その水分子と交代。

 といっても、私の口が勝手に動いている。


偏西風

「次に、俺は、偏西風のことを説明する」と、その水分子は切り出した。

 急に、私が俺と言ったので、我ながら驚いた。


 熱帯の暖かい海から盛んに蒸発した水蒸気は、湿った暖かい空気を多量に上昇させる。そして、雨を降らせたあと、上空に溜まった空気は、中緯度の温帯で高気圧となって地上に降りてくる。

 それは暖かい乾躁した空気だから、砂漠地帯を造る。日本は海に囲まれていて、砂漠化をまぬがれた。


 さて、温帯上空に溜まった空気のうち、一部はさらに北へ向おうとする。

北極圏は、地上から上昇する空気の量はわずかしかない。それを補おうとするのだ。

 そうやって北に向かったはずの空気は、転向力を受け、偏西風となる。

偏西風とは、大気が西から東へ流れる現象だ。

 それで、日本あたりでは、天気は西から東へ変わる。

 西の空が夕焼けだったら、翌日は晴れだ。


「以上、偏西風について、俺の説明、終わり」と言って、頭の中が交代。


 一年生の、元気のいい、小柄な赤城君が手を挙げた。

「天気が西から東へ変わるのは、地球が自転しているから、西の空気が東へ移っていくのと違いますか?」

「うん?」と、私が言葉に詰まると、

 もう一人の俺、水分子が、言う。

「地球の自転で、西の空気が来るなら、その前に、俺たちは東へ動いているぞ」

 皆が顔を見合わせる。

「偏西風というのは、地球の自転速度より速いんだ。絶対速度はね」と、大和部長。

 皆が、納得した顔。

 きまり悪そうな、赤城君の小顔。


高気圧の渦

「さて、高気圧の渦の向きのことです」と、本当の私が切り出す。

「北半球の温帯で発達した高気圧の、北側のへりを考えます。

 そこから北極に向って吹き出した空気の流れは、転向力を受けて、東に湾曲します。偏西風と同じ方向です。

 高気圧は、時計回りの方向で渦を巻きます」

 大和部長の端正な顔が輝く。

 皆、頭の中で考えているのか、静かになった。


 突然、大和部長が横の赤城君に、

「渦の向きは、低気圧と高気圧は反対だよ、な」と、大声で言う。

 そして、

「渦っていうのは、上から見た時の方向だぞ。下から竜巻を見上げたら、その回転方向は逆に言わなければならない」と、念を押す。


 副部長の二年生の永井君が、浮かない顔で首を捻っている。

「どうした? 永井君」

「低気圧が、竜巻のように上昇気流が渦巻くのは分かります。でも、高気圧が渦巻くのが分かりません」と、白い細い顔。

 私は、どきりとした。

 すると、俺が答えていた。

「いい質問だ。

 低気圧とか前線とかが吹き上げた空気が、上空に溜まって、自分の重みで静かに降りてくる。それが高気圧だ。

 高気圧自体は渦巻いていない」

(じゃあ、なぜ高気圧の渦があるんだ?)と私。

 俺は一人一人の顔を見ている。

 誰も、手を挙げてしゃべる気はなさそうだ。それで、種明かしをする。

「地上にぶつかって、周囲に吹き出た空気が転向力を受けて、湾曲する」

 永井君の晴れやかな顔。

(理解してくれた。教えがいがある……)

 水分子よ、ありがとう。私の役目は終わった。


 すると、赤城君が手を挙げた。

「入道雲は、どこまで、上昇するのですか? どうして、入道雲は、空高く上昇するのですか?」と、欲張った質問だ。

 俺の反応が遅れたので、

「入道雲の出来方の説明は、ちょっと時間がかかるぞ」と、私。

「では、この次にお願いします。今日はここまでにします。どうも、ありがとうございました」と、大和部長がていねいに私に頭を下げ、そして、拍手した。皆も釣られて拍手。

 大和部長が、

「これから12時まで自由時間とします。私たちだけで雑談します。皆に聞いて欲しいこと、あるいは教えて欲しいこと、どんな内容でもいいですから、大きな声で話してください。まったく自由です。

 では、明日は、茶畑先生に、入道雲の出来方を話してもらいます。それから、各自の研究テーマを発表してください。まだ決めてない人はだいたいのことでいいです」と、締めくくった。


 この大和という男はしっかりしていて、女生徒に人気があるようだ。この会の女性会員にも、彼に憧れる人がいるようだと、鈍い私も察した。


 私はまた小難しい説明をしなければならなくなった。

 どのようにして、積乱雲が発達するのだ? 地上の湿った暖かい空気、上昇に伴う温度降下、飽和水蒸気量、潜熱、ややこしい説明になりそうだ。

 一人っ子で依頼心の強い私の悪い癖が出て、

「水分子、また明日も、頼むよ」

「俺は、もう行かなければならない」

「なんでだ?」

「だって、お前、小便したいだろう?」

「膀胱にいるのか」

「次の水分子たちに頼んでおいたから、大丈夫だ」

「本当か」

「俺たち水分子の中には、何十億年も昔のことを知っている者や、あちこちいろんな所のことを知っている者がいる。偉い学者の脳にいた者もいる。スイッチさえ入れば、何でも語ってくれるよ。

 明日の説明は、水分子に任せておけ。大丈夫だ」


 今日の授業はうまくいった。そして、水分子の教え方を聞いていて、私には学ぶことがあった。

 両親が小学校の教員だったので、物心ついた頃から、自分も先生になるものだと思っていた。数学が好きだったので、数学者に憧れた時期もあったが、自分の才能じゃ無理だと悟った。それでなんとなく、中学の数学教師の道を選んだ。

 でも、人に教えるのは難しい、と壁を感じていた私だった。

 なんたって教える内容を熟知していることが重要だと思っていた。でも、状況によっては、生徒といっしょに考えることが、あっていい。生徒といっしょに楽しむことだ。今日は楽しかった。

 どういう状況でも、生徒の気持に合わせて、話してやらねばならないと、私は痛感した。




第三章 空気の欲張り袋


 次の日も晴れ。9時に集まった。助っ人の水分子が、私の頭の中で、勝手にしゃべってくれた。


空気の成分

「俺は、空気が、なぜ上昇するか、上昇気流のことを話す。

 最初に、空気の成分を言ってみな。ハイ、赤城君」

「チッソ。酸素、ええと、炭酸ガス」

「詳しく分かる人」

 誰も手を挙げない。


「参考書を見てもいいですか?」と、永井副部長。

「いいよ」

「空気の成分は、体積構成比率で、窒素78.09%、酸素20.95%、アルゴン0.93%、炭酸ガス0.04%の合計100%で、一定です」

「それだけか。他にないか?」

 永井君は、あわてて、本のページをめくる。

 皆、首を傾げた。私も首を傾けた。

「水蒸気はどうしたのだ?」と、俺が言うと、ざわついた。


「水蒸気が空気の成分に入ってないのはおかしいですね」と、大和部長。

「水蒸気が空気の成分に含まれてないのは、なぜだ」

 誰も答えられない。私も分からない。

「水蒸気の量は、場所により、時刻により、温度により変化するから、別枠なのだ。

 空気は別に水蒸気を入れる袋を持っていると思え」

 皆、神妙にうなづいている。


水蒸気

「ところで、水蒸気ってなんだ?

赤城君、言ってみろ」

「蒸気機関車の蒸気、やかんの湯気」と、元気よく答えると、

「違う!」と俺の大声。

 赤城君がきょとんとしている。

「蒸気機関車が、シュッ、シュッ、ポッポ、と吐く白いのを蒸気というが、あれは細かい水滴であって、水蒸気ではない。

 ヤカンの湯気、あれは、細かい水滴だ。

 ヤカンから出た熱い空気が冷やされて、中に含まれていた水蒸気が溢れて湯気になったのだ」

 俺の張り上げた声に、皆の顔に緊張が走る。

「水蒸気は空気に含まれていて、無色透明、目に見えないものだ」

 皆、初耳のようだった。

「水蒸気のことも知らないで、気象のことが分かるわけはない!

 この俺の自分は、えらい剣幕で、科学部員たちに気合を入れている。

「水蒸気は気体、水は液体、氷が固体だ」と、私は、ひたすら呟いた。


空気の欲張り袋

「さて、水蒸気を入れる袋は、気温によって大きさが違ってくる。

 暖かいほど膨らんでいる。

 中味が入っている、いないにかかわらず、気温によって袋が伸び縮みして、容量が変わるのだ。だから同じ量の水蒸気を含んでいても、空気の温度によって乾いている時と、湿っている時がある。

 空気の飽和水蒸気量が気温で違うことは、気象の参考書にあるだろう。なあ、永井君」

 永井副部長がうなずく。

 聞いていて、私の自分も得心。

「この袋のことを、欲張り袋と呼びたい。どうして欲張りだと思う? 大和部長」

 彼は首を振る。

「では、永井副部長?」「分かりません」

 彼らが分からないなら、誰もわからないだろう。私だって分からない。

「なぜなら、空気は、いつも、この袋に目一杯水蒸気を入れようとする、欲張りだ。この袋に少しでも隙間があるうちは、中の水蒸気を取り出せない」

(なるほど!)と、私。


「さて、この袋から水蒸気を取り出して、水滴、雲粒にするには、どうする?」

 皆、首を傾ける。

「どうだ? 赤城君」

「除湿剤」と、赤城君が茶化す。

「ばか」と、俺の自分。

 赤城君が頭をかく。

 誰もわからなかった。もちろん、私も……。

「冷やす。袋を縮めてあふれさせるのだ」と、俺。

(なるほど……)と、私。

 皆が、ざわめく。


「大気の温度は、100m上昇すると0.7℃下がるから、その分、袋が縮まる。

 そうやって空気が上昇していくと、どこかでこの欲張り袋が満杯になって、それから上空では、袋が縮むほどに中味が溢れ出る」

「それで、雲が湧くんですね」と、目をくりくりさせて赤城君。

「そうだ。いいぞ。赤城君。

 雲は、空気が冷えて、あふれ出た水蒸気が液化して、小さな水滴の雲粒になって集合している」


「ただ、この欲張り袋が満杯になっても、周りに凝結核がないと、飛び出せない」

「すると、どうなるんですか?」と、大和部長。

「過飽和と言って、袋が膨れ上がる。

 凝結核は、空中の微粒子で、海水のしぶきの蒸発したあとの塩分などである。

 雲の中では、周りの雲粒に水蒸気が飛びついていく」


潜 熱

「さて、もうひとつ。水蒸気の大事な性質がある。

 水から水蒸気になるには、すなわち液体から気体に変化させるには、どうする? ハイ、青木君」

「水を鍋に入れて、ガスにかけます」と、面長の顔が神妙に答える。

「火にかけて蒸発させるということは、気化熱を与えるのだ。それで、エネルギーを得た水分子は、活発な気体になって分子運動をする。

 詳しく言うと、水素分子の水素結合というのを解くのに必要なエネルギーが気化熱だ。

 では、水蒸気が冷やされて、液体の水滴になる時、すなわち空中で雲粒になる時は、もうエネルギーは要らないから、そのエネルギーを放出する。

 気化熱と同じ大きさの熱量だ。

 潜熱と呼ぶ。

 だから、上空に上がった空気の水蒸気が雲粒になる時は、その潜熱を出して、周りを暖めるのだ。それで周りの空気が上昇し、上昇気流の原動力になる。

 さて、基本はこんなところでいいか」

 自分の私がうなずく。

 



第四章 水の不思議


 すると、大和部長が手を挙げた。

「水素結合のことを教えてください。初めて聞きました」


水素結合

「普通の物質は、液体から固体になると、密度が大きくなる。ところが、水は逆だ。氷は水に浮く。これは、とても変わった性質なのだ。

 また、水はいろいろな物質を溶かすことが出来る。これは、水の構造は、隙間が多いということだ。だから、水は、温まりにくくて冷めにくいという性質がある。

 このように水という物質はとても変わったものなのだ。 

 これは、水分子が四面体の形をしていて、その角で、互いに結合しているところに理由がある。水素結合は、隙間だらけなんだ。

 結合していても、分子運動するから、くっついては離れ、すぐ他とくっつくということをやっている。

 そして、温度が低いほど分子運動は緩やかだから、この水素結合が強まっている。それで、氷は、水よりも隙間が多くて、軽いのだ」

 皆、ポカンとしている。


水の働き

 大和部長が手を挙げた。

「四面体というのは三角錐ですね。三角錐の角で結合したら、隙間だらけになります。

 もし、氷山が海に沈んだら、海底にたまって、夏でも溶けません。

 そうしたら、海の底は凍ってしまって生物は暮らせませんよね。

 そして、生物は進化しなかったでしょうね」


 永井副部長が手を挙げた。

「水の比熱が大きいということは、大量の海の水が、昼と夜の気温差を少なくしてくれてます。

 また、水は蒸発する時に熱を奪って夏の気温を下げてくれます。また、冬は、氷とか雪の形になって冷たさを封じ込めてます。そうやって水は、地球上を過ごしやすくしてくれてます」


 山田さんが手を挙げた。

「砂糖水を作るとき、コップの水に、砂糖を少々加えても、水かさは増えません。四面体の水分子が結合している隙間に砂糖が入るのですね。

 水は色々な物質を溶かして、そのお陰で生物は生きていけます。

 例えば、赤ちゃんはお母さんのおっぱいを飲みます。それから、体の中をめぐる血液ですわ。それから、体の老廃物を排出する尿です」

 そして、生命は海で生まれ、海で育ちました」


 俺が言う。

「水分子は、普通は、スカスカの、水素結合をしている。しかし、時には、緻密なイオン結合をする。

 分子運動というのは、とても短い距離だが、凄い速さで動く。とても激しい動きだ。それで、生物は、水分子の分子運動の衝突から守るために、脳のたんぱく質の表面にイオン結合した水を並べている。

 腎臓が弱って尿素が高まると、そのイオン結合の膜が出来なくて、たんぱく質が壊される。尿毒にあたるという。

 生物は,水の性質をうまく利用して体を作っている」


 一年生の目のぱっちりした横山さんが手を挙げた。

「水は珍しい物質なのですか? 水は地球にしかないのですか?」

「いいや、水は宇宙にたくさんある。

 水はH20で、水素と酸素の化合物だ。水素は基本の元素である。酸素は、太陽ぐらいの星が核融合して作る。最後に爆発する時に、酸素が水素と化合して水が出来る。宇宙空間の水は氷粒になっている」


一年生の岡本さんが手を挙げた。

「彗星が水を運んできたそうですが、今も地球上の水は増えているのですか?」

「原始地球にも、たくさんの水があった。そのあと、地球はマグマオーシャンといって、表面がどろどろに熔けていたので、水はすべて気化して空中にいた。その時、だいぶ失われた。

 そのあと、水素の核融合を開始した太陽が大規模なフレアを噴出して、水素ガスを全部吹き飛ばした。マグマオーシャンは一瞬にして終えた。この時、水分子もだいぶ吹き飛ばされた。

 残っていた水分子は、液体に戻って、海になった。

 それから、彗星が水を運んできて海の水は増えている」


 再び、横山さんが手を挙げた。

「水は循環しているのですね。海が貯蔵庫。海面が温められて蒸発して、空気とともに上昇する。雨となって、また海に戻る。

 陸地に降った雨は、川になる。地下水になる。その途中で、木々や、動物の体を通過する」


「その通り。水の循環のお陰で、地球のあらゆるところに生物が暮らしている。水のある環境で生命が生まれ、水を利用して生物は進化した。

 そして、生物は暮らしやすように環境を変える。

 地球上にたくさんある酸素は、生物が水を分解して作ったのだ」と、俺。


「さあ、入道雲に戻ろう」と、私。




第五章 入道雲の出来方


 水分子の俺がしゃべっている。


入道雲が湧く

 地表近くの湿った空気が日光を浴びた地面で暖められると、軽くなって上昇する。

 そして、どこかの高さで欲張り袋が一杯になる。すると、それから先は上昇するほどに、袋が縮んで水蒸気があふれて雲粒が出来て、そのときの潜熱で周りの空気が暖まって、それらが上昇する。

 すると、上昇した空気の袋が縮んで、また雲粒が出来て、その周りを暖める。

 上空に行くほど冷たいから、これを繰り返す。欲張り袋が潰れてしまうまで空気は自力で上昇する。

 そうやって上昇気流が発生すると、地上の気圧が下がるから、周りから空気が流れ込んでくる。

 湿った空気ほど潜熱をたくさん含んでいるから、勢いよく上昇する。

 そうやって出来た、上昇気流のエントツが温帯低気圧だ。


 この時、上空に寒気があると、温度差がついて上昇の勢いが強まる。

 そうやって、ごく短時間でエントツが出来たのが入道雲だ。

 さて、上空で出来た雲粒は、雲粒同士がくっついて雨粒になって、上空は冷たいから凍る。

 大きくなると落下する。しかし、入道雲のエントツの上昇気流に煽られて、再び上昇する。そして、溶けかかった同士が合体して、さらに大きくなって凍る。

 そして、重くなっては落ちて、途中でまた吹き上げられ、を繰り返して、氷粒が大きくなる。アラレになり、ヒョウになる。

 とうとう、さすがの上昇気流のエントツも、その重みを支えきれなくなって、ドーッと、ヒョウがまとまって落ちてくる。

 ヒョウが溶けて大きな雨粒になる。

 空気も巻き込んで落ちてくる。ダウンバーストだ。突風が吹く。

 そうやって上昇気流のエントツは、落下気流によって潰される。

 積乱雲の寿命は一時間前後だから、高さが1000mもある上昇気流、下降気流はすごい速度だ。

 潰れたエントツのすぐ横に、次の上昇気流が出来て、新たな入道雲が湧く。

 これが、積乱雲の出来る仕組みだ。

 入道雲が近づくと急に冷たい風が吹いてくるのは、前に潰れたエントツの冷たい風だ。


(水分子の名講義だ……)と、私は任せている。


対流圏

「積乱雲はどこまで上がるんですか?」と、赤城君。

「いい質問だ。地表は暖かくて上空はだんだん冷たくなる。その範囲が、欲張り袋が縮んで雲が湧く範囲だ。対流圏という。

 そこから上は成層圏。成層圏でもジエット機が飛ぶように、空気はあるが、成層圏は、上へ行くほど暖かくなる。どうしてだ?」

「上にオゾン層があって、紫外線で暖められるからです」と、大和部長。

「そうだ。対流圏と成層圏との境界の圏界面は、一番冷たいのだ。

 圏界面の高さは、日本上空では大体、12,000m、日々刻々変化している」


「入道雲で雷が発生するのは、どのようにしてですか?」と、青木君。

「氷粒が摩擦して静電気が発生する。

 低温の氷粒にはプラス電気、高温の氷粒にはマイナス電気が帯電する。

 そして、マイナス電気が地上に落ちてくるのが雷だ」

「夏の雷も氷で発生するのですか」と、生真面目そうな顔。そして、

「プラス電気は、どうなるんだろう?」と、青木君は呟いた。

「上向きに雷が落ちる。

 上に落ちるって言ったら、おかしいか? 稲妻は走る、か?

 プラス電気は上向きに、電離層に向って走る。この現象を、スプライト、妖精と呼ぶ。宇宙ステーションから目撃される」青木君の驚いた顔。

 これには、私も驚いた。マイナス電気が地面に放電するなら、残されたプラス電気はどうなるか、小さい頃ふしぎに思ったことがあった。


高気圧の変質

 横山さんが、小さく手を挙げた。

「あの、高気圧が乾いているのは本当ですか? 私は高気圧は湿っている空気だと覚えていました」

「高気圧は、低気圧や前線で雨を降らした後の、上空に溜まった空気が、自分の重みで静かに地上に降りてくるんだ」と、大和部長。

「じゃあ、乾いた空気ですね」と、横山さんが不満そう。

「そうだね。高気圧は欲張り袋がほとんど空っぽだから、とても乾いた空気だよ」と、俺。

「でも、太平洋高気圧は,湿った空気だって言うでしょう。それに、大陸の高気圧が張り出して日本海側は雪って言うでしょう」と、横山さんの声が尖る。周りからも「そうだ」「そうだよ」の声。

「高気圧のとても乾いた空気が降りてきて、吹き出して海面を渡るうちに、湿った空気に変質する」と、俺。


爆弾低気圧

「昨日の話しで、北極に行くはずだった空気が偏西風になるということでした。そうすると、北極では空気が不足するんじゃないですか?」と、永井副部長。

 想定外の質問なので、聞いていた私はうろたえる。

 しかし、水分子の俺がしゃべった。

「北の寒気と、南の暖気がぶつかって、温帯低気圧が発生する。

 偏西風がこれを発達させる。

 その低気圧が吹き上げた空気が北極圏に届くんだ。

 春先の爆弾低気圧は、北海道を通過しながら急激に発達する。

 温帯低気圧は、台風より大きくなるのがある。

 アリューシャン列島辺りが低気圧の墓場だ」

「爆弾低気圧ってなんですか?」一年生の岡本さん。静かな人だ。

「急激に発達した温帯低気圧だ。中心気圧が24時間にわたって24hpa以上降下したものをいうようだ」と俺。

 我ながら、聞いていて、いい説明だった。脳の中の水分子が言うがまま、口が動いていた。




第六章 夏休みの研究課題


 夏休みの研究課題を各自が発表した。大和部長が指名する。

 まずは、副部長の永井君。

「ぼくは、台風と温帯低気圧の大きさを比べてみたいです。

台風は北上して勢力を失います。しかし、温帯低気圧は北に向って進むほどに発達するのは、どういうことか整理します。

 そして、台風の勢力が衰え、熱帯低気圧になって、次に温帯低気圧に変わって、そして発達することがあると思いますが、それはどんな条件の時か、考えてみたいです」


 一年生の横山さん。

「私は、空気の欲張り袋のことと潜熱のことを勉強します。

 とても不思議に思うことでも、このような法則というか原理があって、それに基づいていろいろなことが起るのだと思いました。

 洗濯物を干すとき、日中に取り込むと、ホカホカしてますが、忘れて夕方遅くなると冷たく感じます。欲張り袋の働きですね。

 でも、私、分からなくなりました。洗濯物を部屋干しして乾きます。でも、布団は部屋干ししませんよね。どういう違いがあるのでしょう? 私ちょっと混乱しています」


 一年生の岡本さん。

「飛行機雲は人工の雲ですよね。欲張り袋は関係ないのに、どうして、雲が湧くのでしょう?

 私は、雲の形がいろいろあることを勉強します。

 それから霜柱もふしぎに思います」


 一年生の青木君。

「潜熱のことですが、氷を溶かす時にも熱が要ります。

 では、水が氷になる時に、熱を出すのでしょうか? 確かめてみたいです。

 そして、ぼくは雷のことを勉強します。地上に落ちた雷がどうして消えるのか調べます。

 将来、宇宙飛行士になってスプライトを観察したいと思います」


 一年生の赤城君。

「ぼくは、いろいろ気象のことを研究します。

 低気圧の渦は、北半球では反時計周り、逆に南半球では時計回りです。

 では、赤道の真上で発生した台風の渦の向きはどうなるのでしょう。あるいは、赤道直下では台風は発生しないのでしょうか。僕はそれを勉強します。

 それから、水が氷になる時に膨張する力を、何かに使えないか考えます。冷蔵庫で使える密閉容器の圧力装置です」


 二年生の山田さん。

「私は、真っ白な入道雲のてっぺんが蛍光色に輝くように見えて不思議でした。あそこには氷粒があるのだと知って、納得しました。

 そして、入道雲がムクムクと湧くのが面白いと思ってました。ひょっとしたら、空気の欲張り袋の過飽和状態が解消された瞬間、いっせいに雲粒になるでしょうか?

 私は雨粒の大きさのことを勉強します。

 前に、とても高い滝から落ちる水は、途中で霧になってしまうと知りました。そして、今日、とても大粒の雨が降るのは、ヒョウが地表近くで解けたのだと知りました。

 でも、ヒョウと関係のない雨粒が、高いところから大きいまま落ちてくるのはどうしてでしょう」


 最後に、大和部長の番。

「面白いですね。空気が隙間のある欲張り袋を持っていて、そこに入る水分子も、隙間だらけだとはね」

と、感じ入ったように言うので、思わず、私が注意した。

「欲張り袋に入る水分子は、気体だよ。水素結合してないから、スカスカでない」

 はっと気づいて、頭をかく大和部長。

「さっき、先生の説明の中にありました、水分子の水素結合のこととイオン結合とを勉強します。イオン結合の水は何も溶かさないのでしょうか?

 それから、水が4℃で一番重くなることもふしぎです。

 また、地球の水の同位元素の割合がどこへ行っても同じで、よく混じっているというのは、空気の欲張り袋と水蒸気の潜熱が攪拌した結果ではと思いました。勉強します。それから、地球の酸素のことも……」


 終わった。

 廊下を引き揚げる部員たちの声が聞こえた。

「茶畑先生は、自分のことを私って言うが、時々、興奮して、俺って言うね。

 そういう時の先生の話は面白くなる」 と、赤城君が観察していたようだ。

「茶畑先生の数学の授業も、おもしろく教えて欲しいわね」と、横山さん。

 確かに、私は教師として、教え方を工夫しなければならない。今度の部活はいい経験だった。

(これからは、授業で、俺と言うか……)




第七章 ファンクラブ


「じゃあ、俺は行くよ」

「なんだ、もう私の体から出ていくのか。ありがとう」


「おい、水分子よ。待ってくれ」

「待ってもいいけど、額の汗を拭うなよ」

「なぜ、君たちは私のピンチを助けてくれるんだ」

「それはね、お前さんが、科学研究部の顧問を引き受けると決断した時、お前さんの体の中で、やってみなと応援した連中なんだ。

 俺たちは茶畑先生のファンクラブだ。だから、困った時は助けるさ」

「あれは、4月15日だったが、三ヶ月も経つのに、君たちはまだ、私の体に居たのか」

「そんなことはない。あれから出たり入ったりで、誰かしらがお前さんの体にいる」

「私専用の水分子なのか?」

「そんなことはない。俺たちは、たまたまお前さんの体に居るだけだ。

 お前さんは、数学をやっているわりに、冴えないな。

 この地球上の水の量は、14億立方㎞だ。

 お前さんの体の水量は約7割、体重70キロ×0.7で、約50キロ、50リットルの水量だ。その比率は、いくらだ?」

 私は計算する。

「(50㍑)÷(14億立方㎞)= 2.1×10の-20乗 

 すごく小さな率だ」

「そんなことないよ。

 水分子の拡散は速い。お前さんのファンクラブの水分子たちは、地球上に散らばりつつある」

「10のマイナス20乗だよ。ゼロに等しい」

「いいから、今、お前さんの体の中に、ファンの水分子がどれだけいるか計算してみな」

 水分子の言うとおり、私は計算する。


「水分子は、1モルが18ccである。そして、1モル中の分子の数はアボガドロ数(6×10の23乗)と決まっている。

 だから、今の瞬間、私の体の中にいる水分子の総数は、

(50リットル)÷(18cc)×(6×10の23乗)= 1.7 × 10の27乗 個」


「このうち、4月15日に、私の体に居たファンクラブの水分子の数は、

(1.7 × 10の27乗個)×(2.1 × 10の-20乗)= 3.6 × 10の7乗個

 三千六百万個、

 えっ? 計算違いしたか? 

 合ってる。すごい!」

(おわり)




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― 新着の感想 ―
[良い点]  私たちの生活に極めて身近なものであるというのに、しっかりとした説明をしようとするとなかなかに難しくなってしまう気象に関するあれこれを、少し不思議な要素も加えつつ、分かりやすく説明されてい…
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