07 チーズ作り
北部農耕民と南部遊牧民とでは、一体何が違うのか。
それは食文化に起因する文明発展の違いにある。
人間が糧を得る方法は、大きく分けて4つに分類される。
植物から得る「採取」と「農耕」。
動物から得る「狩猟」と「牧畜」。
そのうち「採取」と「狩猟」は自然界から得るもので、「農耕」と「牧畜」は人間界から得るものだ。
前者は数多の生物が得られて、後者は人間のみが主体的に生産出来る。
北部農耕民は、採取から農耕へと文化を発展させた。
南部遊牧民は、狩猟から牧畜へと文化を発展させた。
そんな農耕文化と牧畜文化の最大の差異は、道具を使うか使わないかにある。
農耕を行う場合、大地を耕すためには農具が絶対に欠かせない。
遊牧を行う場合、餌で手懐けた個体に先頭を歩かせれば群れがその後ろを付いてくるし、去勢は尖った石程度で出来て、搾乳は出産した母羊の乳を搾れば出る。
北部農耕民は、大地を耕すためにより高度な農具を発展させ、それ以外にも様々な物を作り出していった。
北民が弩のような武器を生み出せるようになったのは、その食文化に起因する文明発展が主要因である。
そうやって北民は、理化学文明を発展させていった。
南部農耕民は、家畜を扱うために自然学を発展させ、人外の存在との意思疎通や天候の読み方を高めていった。
南民がマナの流れを感じられるようになったのは、その食文化に起因する文明発展が主要因である。
そうやって南民は、魔法学文明を発展させていった。
北民は理化学文明の申し子で、南民は魔法学文明の申し子。
これが「北部農耕民と南部遊牧民とでは、一体何が違うのか」という問いに対する「それは食文化に起因する文明発展の違いにある」という答えである。
「と言うのが、魔法学の成立する過程だ」
「だから北の人達は、精霊魔法が使えないんですか?」
「イナンナは良いところに気が付いたな。北民が精霊魔法を使えないのは、彼らがそういう風に進化して来なかったからだ」
ドゥムジがイナンナを弟子にしてから1ヵ月余りが過ぎた。
イナンナは弟子となって1週間後には風・光・闇の精霊を喚べる属性値1の力を身に付け、1ヵ月後には土属性で魔法行使が叶う属性値2の力を身に付けた。
こんなに簡単に上がるのなら、北民も精霊魔法の力を得られるのではないかと思いたくもなるだろう。
しかし生まれつき備わっている属性魔力と、属性魔力を操る才能の両方が無ければ、それらの力を引き上げることは叶わない。
それらの力が備わっているのは、南民の魔導師家出身者のみである。
「でも、それならどうして遊牧民は北民に負けているんですか?」
「今のイナンナは、標準的な魔導師の力を持っている。そうだな?」
「はい」
南民の成人魔導師であっても、必ず全属性の魔法が使えるわけでは無い。
最低1属性で魔法を行使出来れば魔導師と名乗れて、数種類の魔法が使えれば一人前と見なされる。
だが現在のイナンナは、火・水・土の3属性で魔法が行使できて、残る3属性でも魔法が発現できる。既に魔導師と名乗るには充分な力を備えていると言える。
「魔導師は南民100人に1人しか居ない。だが北民は、100人全員が扱える弩を生み出した。イナンナは、弩で武装した北民100人を倒せるか?」
「師匠の腕輪が無いと、絶対に無理です」
南北に羊の群れが100頭ずつ居たとする。
南の群れは、自然の中からマナを読み、魔物を避ける特別な羊を産みだした。
北の群れは、自然を人工物に作り替え、魔物を倒す武器を全ての羊に与えた。
南の羊は、高度な道具を生み出せない。
北の羊は、魔法を操れない。
一見すると一長一短に見えなくも無い。
しかし道具を必要としない遊牧と、高度な農具を必要とする農耕とでは、遊牧の方がより原始的だ。
南民が北民に技術面で勝てないのは、そのような両文明の進化の方向性にある。
それでも勝ちたいなら、南民側は自然を極めるしか無い。
精霊契約は、北民が幾千年を掛けても辿り着けなかった南民の到達点だ。
「腕輪はイナンナの魔法の力を引き上げるための物でしか無い。最終的には、自力で全属性2格以上の魔法を使えるようになって貰う予定だ」
「頑張ります」
イナンナは僅かな間に、魔法の力が急成長している。
このまま成長すれば、次代の魔導師長と目される2歳年上の兄ウトゥを越えるだろう。
しかし妹が兄を越える才能を示しても、兄の尊厳を除けば、ガロシュ族に優秀な魔導師が増える点で何ら問題は無い。
イナンナも血統自体は良く、現行の支配体制を揺るがすような問題は生じない。
またイナンナの兄を教えている大婆やベナテク老が、教師としての力量を疑問視される事にもならない。
そもそも3格精霊との契約者であるドゥムジは、2格精霊との契約者である大婆やベナテク老よりも、契約精霊の格が高いのだ。
ガロシュ族における魔導師の序列は、契約精霊の格、属性魔力、部族への貢献度などで定められている。
であるからには、ドゥムジが大婆やベナテク老を上回る成果を上げたところで、契約精霊の格が高いのだから成果が上がって当然だろうと認識されて、部族内の序列や秩序は乱れない。
それどころか魔導師を育てる責任者側の大婆やベナテク老は、ドゥムジに魔導師の教育者としての能力があるのであれば、弟子をもっと引き受けさせるべきだと考えたらしい。
過日は大婆が自らドゥムジの元へ乗り込んできて、弟子を増やすに際して何か要求があるなら聞こうと言わんばかりに弟子教育の様子と要望について問うてきた。
(一子相伝なんて言わないけど、まずは一人で良い)
ドゥムジとしては、現状で弟子を増やす気は無い。
何しろ自身がまだ15歳であり、火や水精霊とは未契約の未熟者だ。
片手間に一人だけ面倒を見ろというなら見れるが、大人数へ本格的に教育を施すのはまだ早いと考えている。
そのように要求されることを考慮して、教育には適当に手を抜いてお茶を濁すという方法もあった。
だがそうすれば、魔法の継承に関しては未熟者だと見なされたはずだ。
遙か祖先から繋げられてきた魔法学文明の継承者であるドゥムジにとって、その歴史を否定される事も、記念すべき初弟子を適当に教える事も、屈辱以外の何物でも無かった。
従ってお茶の濁し方を変えて、弟子の数を制限する屁理屈を述べた。
「契約精霊は、魔力が繋がった契約者以外には力を貸さない。乳牛が実子以外に乳腺を開かないのと同じだ。無理に乳を搾ろうとすれば、乳牛に蹴られぞ。と、大婆には言っておいた」
「本当は、催乳のやり方があるんですよね?」
ちなみに乳牛から搾乳する場合、最初に子牛を引き合わせて鳴かせ、乳房を頭で突き上げさせると乳腺が開く。
そして実際に少し吸わせている間に母牛の後ろ足を縛り、乳を搾ればミルクが得られる。
何千年前の壁画にもその様子は描かれており、人々は古来から搾乳の技術を受け継いできた。
イナンナが指摘したのは、魔法学文明の継承者を自称する師匠には、何かしら受け継いでいる魔法技術や工夫が有るのだろうという点についてだ。
もっともドゥムジは、イナンナが誰に送り込まれてきたのかを忘れてはいない。
イナンナに伝えた事は、数日のうちに大婆へと伝わる。
「契約精霊には、イナンナが俺の初弟子だという情で辛うじて納得して貰った」
「そうなのですか?」
「3格精霊は多感だからな。契約者の意をよく汲んでくれる」
「すると気持ち次第と言う事ですか?」
「最低でも俺と精霊の双方が、本心から納得しないと無理だな。ちなみに俺自身の意志で、新たな弟子は暫く増やせないと考えている」
「兄様は、凄く羨ましがっていました」
最初にイナンナがドゥムジの元へ送り込まれた理由は、イナンナが族長ロジオンの姪で、中魔導師である大婆やベナテク老の子孫にもあたるからだ。
仮にロジオンが不慮の事故に遭って、ロジオンの弟である大戦士マカールが新族長に就任したとしても、イナンナは族長の姪にして大婆やベナテク老の子孫という立場に変わりない。
族長がマカールから子供へと世代交代しても、その新族長とイナンナは従姉弟同士だ。
親戚同士ならば協力し合って当然で、族長側としても大義名分の元、他家に比べて遠慮せずに様々な要求を出せる。
当初はイナンナを送り込むのが最良の選択だったのだ。
だが結果を見れば、最初にガロシュ族の次代を担うイナンナの兄ウトゥを送り込んで、属性魔力を引き上げさせておけば良かったと思わなくもないらしい。
ドゥムジとしては、それを引き受ける気は無い。
「イナンナの兄を弟子にする事は無いだろうな。13歳からの弟子入りは遅すぎるし、既に教えている人間も居るのだろう?」
「確かに兄に教えている人は沢山居ます」
大婆としては、自分の家系であるエリドゥ家の後継者ウトゥの能力を上げさせたいだろう。
しかしウトゥは既に13歳で、ドゥムジの2歳下でしかない。
師匠と弟子にしては年齢が近すぎる事や同性である事を鑑みるに、師弟の関係になる事が好ましいとはあまり言えない。
それにイナンナを弟子にしており、同じエリドゥ家から二人目の弟子を出させるのも難しい。大婆の子孫は他にもおり、またベナテク老の子孫など他家にも次代を担う者は居るのだ。
(いつかは二人目以降の弟子も引き受けなければいけないだろうけどな)
ドゥムジの初弟子であるイナンナは、火・水・風・土・光の5属性を使ったチーズ作りを行って魔法の技術を上げている最中だ。
チーズを作らずとも、魔法を使っていれば属性値が上がる。
それなのになぜチーズを作らせているのかというと、ミルクを搾乳できる期間が限られており、長期保存食として加工しなければ秋以降に食べ物の少なさに困るという生活面での事情からだ。
羊は秋に種付けして妊娠し、冬に出産して授乳し、春に母子を離して搾乳を行い、夏に放牧と搾乳を続ける。
そのため3月の始めから8月の終わり頃までしか搾乳が出来ない。
この搾乳時期は自然の摂理と人の事情とが合わさったものだ。
3月の牧草が生え始める時期に子羊が草を食み始められるよう、羊の出産時期は冬頃が最も望ましい。
そのように羊が生物として進化した事と、遊牧民が羊の群れをまとめて移動させるために出産の時期を管理した事によって、羊の出産時期は冬に定まった。
生物としての進化に関しては、羊の発情は9月頃、日照時間が短くなる事で脳下垂体が刺激されて始まる。兆候としては食欲が減退し、盛んに鳴き、尾を振って落ち着かなくなる。
扱っている羊の種によっては<以降、医学用語>外陰部が紅潮・腫脹し、膣粘膜が流れ出る。発情周期は約20日で、発情時間は約2日。遊牧民はこの時期に雄の羊を宛がい、雌羊を一斉に妊娠させる。
妊娠期間は5ヵ月ほどで、出産経験のある羊の方が妊娠期間は短い。平均的には冬の1月頃に出産のピークを迎える。
産まれたばかりの子羊は、親羊がいる群れに混ぜると他の羊に潰されてしまう危険があるため、牧民のゲル内などに避難をさせて、授乳は人が子羊を連れて母羊の元へ行く介助を行う。
また2週間を過ぎた子羊でも危険があるため、親羊の牧柵や石囲いの中に二重の牧柵などを作ってそこへ入れ、やはり暫くは人が授乳を手伝う。
生まれた羊は1ヵ月もすれば草も食み始め、4ヵ月くらいで母羊の6割くらいの大きさになって完全離乳する。
もっとも南民は、生まれてから3ヵ月くらいで母羊と子羊を分けて搾乳に集中するので、その頃が子羊の離乳時期と言えるだろうか。
よって3月頃から8月末までの約半年が、羊乳を得られる時期である。
その間に遊牧民は、当たり前のようにチーズ作りを行う。
そんな日々の暮らしに魔法を用いらせる事で、イナンナに魔法をより繊細にイメージさせ、加熱や脱水時の威力の調整によって魔法技術を向上させようというのが、ドゥムジの師匠としての意図だった。
チーズとは、北民の感覚では熟成させて風味を豊かにしたものの事だ。
例えばカマンベールチーズなどは白カビを用いる。
だが南部遊牧民が作るチーズは熟成をさせず、カチカチに乾燥させて長期保存食とする。
作り方は、ミルクをヨーグルトにするところから始める。
まず搾乳したミルクを火で加熱し、人肌になるまで温度が下がったところでヨーグルトを入れて乳酸発酵を促し、厚手の布を被せて6時間ほど置いて大量のヨーグルトを作る。このヨーグルトは、毎日の食事にもなる。
加熱に火魔法を使うので、ここで火の親和性が上がる。
高温殺菌には高温殺菌なりの、低温殺菌には低温殺菌なりの利点があり、加熱時間を増減させればどちらでも問題は無い。
火魔法での加熱をどうやって全体に行き渡らせるのか、あるいはそれを持続させるのか、それを実践する事で火魔法の技術が向上していく。
次いでヨーグルトを、少量の水と共に羊の皮で作った革袋に入れて、天井からぶら下げて3時間ほど揺らし続けると、小さい粒の塊が出来てくる。
その塊がバターで、布で濾し取るとバターが得られる。
残った大量の液体は、バターミルクとなる。
革袋の強化に土魔法と光魔法、振盪に風魔法と水魔法を使うので、4属性の親和性が一気に上がる。
さらには複合魔法の訓練となり、複数属性との契約者となった際にこの下地の有無で効果がまるで変わってくる。
3時間も揺らし続けるのは酷なので、いかに高速で効果的に振盪し、かつ革袋を保ち続けるのかを創意工夫する事で、各属性の魔法技術がどんどん向上していく。
なお術に失敗すれば、革袋が飛んで白い液体塗れになる。
バターミルクを加熱すると、酸度が高いのですぐに固まる。
それを布袋に入れて脱水する。
それでも水分が残っているので、そこに塩を加え、形を整えてから日干しで乾燥させるとチーズになる。
加熱と乾燥に火魔法、脱水に水魔法を使うので、どちらの親和性も上がる。
脱水次第で保存期間が変わるので、火魔法も水魔法も練度が試される。
南民の非熟成チーズの味は北民の熟成チーズに劣るが、保存期間は数年ある。
ちなみにバターの方も、鍋に入れて加熱して純度を増させると数年保つ。
ギー(バターオイル)と言って、遊牧民にとっては貴重な保存食の一つだ。
こちらの加熱も、イナンナの火魔法の技術向上に役立ってくれる。
「こんな修行方法があるんですね」
「全て手作業でやった事があると、魔法を使う時にイメージし易いだろう」
「はい、とても分かり易いです」
「火と水は契約していないから、腕輪で力を貸せない。だがこの修行なら、火と水の属性も容易に上がるはずだ。それと今後は、作ったチーズとバターオイルをお土産に持ち帰って良いぞ」
「師匠は、冬の蓄えにすると言っていませんでしたか?」
「いや、もうゲル内に保管する場所が無い」
保管する容器自体は土魔法で作れるが、問題はそれを運ぶ能力が無いことだ。
ドゥムジは独立したばかりの独り身で、物資の運搬能力は最低に近い。
ロジオンに頼めばいくらでも従属民を手配してくれるだろうが、部族の移動時期は同じなので、忙しい折に手を借りれば余計な借りを作ってしまう。
量産したチーズ如きで族長に借りを作るのは、はたして如何なものだろうか。
「せめて秋営地で作るべきだったか」
「まだ春営地ですからね」
「……その山から、好きなだけ持ち帰って良いぞ」
ドゥムジはイナンナに、真新しいチーズの山を持ち帰らせた。
遊牧民は移動用の馬を沢山飼っているが、ドゥムジは中魔導師として部族の仕事に集中するために未だ一頭も飼っていない。
ガロシュ族が次の営地に移動するまでに、荷の大半は周囲へ配る事になりそうだった。