28 湖畔散策
天空からランデル大山に湖を見出したドゥムジたちは、その湖畔に降り立つと凶竜の背から荷を全て降ろし、そこで二手に分かれる事となった。
『では行ってくる』
『ああ、気を付けてな』
『いってらっしゃーい』
凶竜とドゥムジが挨拶を交わし、イナンナも未だ拙い魔法で意志を送った。
黒竜に明るさを抑えた熊鷹が併翔し、暗雲立ち篭める空の彼方へと力強く飛び立っていく。
雲行きの怪しい空を飛ぶ熊鷹を眺めながら、ドゥムジは降雨に一抹の不安を覚えた。
ランデル大山を縄張りにする飛竜たちが、初見の凶竜と熊鷹に喧嘩を仕掛けたとしても、熊鷹は上位火精霊が化けたものであるため、炎翼虎に変わって暴れれば敗北はしない。
しかし行動を阻害する水のマナが多い雨天下では、即座に制圧するも難しい。
そうなると飛竜の大集団と上位精霊との空中大決戦に怯えた魔物たちが一斉に逃げ出して、ドゥムジの方へ雪崩れ込んでくる可能性も皆無とは言えなくなる。
あるいは大山を東西へと下り、南部遊牧民の営地や、南西国家群に向かって暴走していけば、とても恐ろしい事が起こり得る。
南民の営地へ千体の魔物が一斉に突き進んで行った場合、まず臆病な数万から数十万頭の羊たちが一斉に恐慌状態に陥って、全速力で四方八方へ逃げていく。
すると戦士たちは羊の大海に飲み込まれ、激流から抜け出して剣を構えても再び羊の津波に体当たりされて攫われ、そこから這い上がっても羊に踏み付けられて、とても魔物と戦うどころではなくなってしまう。
一般の民や従属民は、どんどん逃げていく全財産を前に青ざめる。魔物を倒さなければ羊は収まらないが、千体もの魔物が一斉に予想外の場所から現われれば、大戦士揮下の戦士2,000名規模であっても1日で駆逐するのは不可能だ。
そうこうしているうちに羊たちは残らず逃げ出し、後日回収できる羊の数は全体の3割ほどとなるだろうか。
全体でそこまでの被害を受ければ、子供の口減らし、姥捨て、従属民の放逐などのやりくりをしても、被害の大きな家などはまだ賄い切れない。
次男以下の男は、南西国家群との交易に従事する商人に出してさらに減らす。
娘たちは自分の羊を上手く守った男の所へ側女に出し、あるいは他部族の男の所へ嫁に出して羊の数を回復させる。
実にうらやま……けしからん事である。
そんな可哀想な娘さんを引き受けてこそ、一端の男であろう。
南西国家群でも、同様の悲劇が起こり得る。
そもそも先方には部族戦士などおらず、魔導師も存在しないのだ。1万人ほどの街の駐留兵であれば、千体もの魔物を駆逐する事は難しい。
魔物が相手では自然災害に等しく、誰にも補償をして貰えない。
作物を虫や動物に食われたとか、荷馬車を狼に襲われたとか、そんな事を一々補償していたらキリが無い。山で飛竜たちが暴れて魔物が逃げたとしても、山裾に住んでいた者の自己責任で片付けられる。
だが農耕地を踏み荒らされればその年の収入が半減するし、職場を魔物に破壊され尽くせば職を失う。一念発起して店を構えた商人なら、借金だけが残って首を吊るか家族を売るしか無くなる。
もしかすると、家を無くした娘さんが突然転がり込んでくるかも知れない。そんな可哀想な娘さんを、一体どこの男が放っておけようか。
ところで南西国家民の女性が相手の場合は、ノーカウントになるのだろうか。南民と北民の場合、互いにノーカウントである。
「凶竜の婿捜しも大変だな」
これは自然の営みであり、誰も止める事など出来ない。
ドゥムジはそう冗談めかして嘯くと、簡易テントを設営し、まずは雨風を凌げるようにした。
真面目な話をするならば、水属性マナが増える悪天候時は、水精霊を探すタイミングとして理想的だ。
都市ウルクが交易によって力を付けて、北民の南下を長期に渡って阻止する事で、結果的に南民や南西国家民が滅ぼされずに済む事になる。従ってここで歩みを止めるつもりは無いし、凶竜との約束を違えて余計なリスクを負う気も全く無い。
先ほどの言葉は、避けられない行動で引き起こされる可能性に対する、罪悪感からの逃避である。柔軟な驢馬たる光精霊が、そうやってドゥムジの精神が参らないように干渉しているのだ。
テントを張り終えると荷物を放り込み、風精霊と闇精霊を喚び出す。
湖畔にキラキラと緑光の輝きを放ち、木々に青々と生い茂る葉や足元の雑草と調和しながら、緑髪の風精霊が顕現を果たした。
既に濃い風小鳥を二羽も生み出し、肩の上と両手の間を飛び跳ねさせている。
薄暗い空と比してなお暗く、黒としか称せない光と共に闇精霊も顕現する。
黒髪、黒瞳、黒服、装飾まで黒光りし、おかげで色付きのある肌が白く見えてくる。今日の彼女の表情は、深淵のように深い。
「師匠。もしかして風精霊は、機嫌が良かったりしますか?」
「どうやらそのようだな。今日は沢山空を飛んできたからかも知れない」
「でも闇精霊は、なんだか怖いです」
「……周囲に魔物が多数生息しているからな」
あるいはドゥムジが闇に偏った思考をしていたからかもしれないが、それは敢えて説明しなかった。
ドゥムジは喚び出した2体の精霊に向かって命じる。
「互いに協力して、周辺の魔物を削ってくれ。死体はそのままで良い。そうすればテントに辿り着く前に腹を満たして、大人しく塒に帰るだろうからな」
風精霊が、従えていた2羽の小鳥のうち1羽を闇精霊に差し出した。
すると闇精霊は、己が纏っていた衣服が灰色に近付くまで、小鳥へ黒色を注ぎ続ける。
そうやって1羽の黒小鳥が誕生した。
黒小鳥は怪しげに鳴きながら空を舞い始める。
次いで闇精霊が、黒光りする豪華な首飾りや二対の髪飾りを次々と投げ捨てると、それが見る見るうちに3匹の黒子狐に変わっていく。
そんな黒狐のうち1匹の背中に、残っていた1羽の小鳥が飛び乗った。
風精霊は残る2匹の黒子狐を見つめ、自らの長い緑髪を左手で掬うと、右手の手刀を振り下ろしてバッサリと切り捨てる。
切り捨てた髪を2匹目の黒子狐に向かって風に乗せて流し、今度は右手で髪を掬って左手の手刀で切断し、3匹目の黒子狐に向かって流す。
黒子狐たちには次々と翼が生え、やがて3匹の黒翼狐が誕生した。
「……よし、行け」
その言葉が発せられるや否や、黒小鳥が勢い良く飛び去り、黒翼狐たちは森の中へと駆けていった。
それを見送った風精霊は、切り捨てた髪を撫でる。すると髪が伸びていき、直ぐに元の長さまで戻った。
但し髪の色は薄緑になり、瞳の色素まで同様に薄くなっている。
闇精霊の服の色も薄いままで、失われた装具もそのままだ。
「あれらは魔物の闇属性に反応して、自分で判断して駆逐してくれる。地上の魔物は3体の黒翼狐が、空の魔物は黒小鳥が削る。強さは、それぞれが並の飛竜より少し弱いくらいだ」
「そんな事が出来るんですか?」
「但しあれを作るために、一時的に風精霊の力が属性値13から10に、闇精霊の力が属性値11から7に下がっている。契約者になったら、自分と精霊に何が出来るのか確認して行くと良いぞ」
「はい」
山中の魔物たちに刺客を放ったドゥムジは、ほっと一息吐いた。
「これでかなり安全になるはずだ。土精霊を付けるから休憩して良い。大丈夫だとは思うが、あまりテントから離れすぎるなよ」
「気を付けます。ところで師匠、この湖の水は使えますか?」
「いや、どうだろうな」
かつて温泉地へ行ったときのことが思い出される。
今は夏真っ盛りで、流石に火精霊と契約した時ほどでは無いが、登山していた時よりもさらに蒸し暑い。
日差しは暗雲で遮られているが、水を使いたくなるのも道理だろう。
もし晴れていたら、水浴び位していたかも知れない。
「やっぱり却下だ。それなりに澄んだ湖だが、水質も分からなければ、どんな魔物が生息しているかも不明だ。水は水魔法で出し、身体を拭く時は火魔法や風魔法も使って風邪を引かないようにしてくれ」
「分かりました」
ドゥムジはイナンナに注意を促して土精霊を守りに付けると、残る精霊たちと共に湖畔を歩き出した。
今夜は凶竜も火精霊も、帰って来ないと思った方が良い。
闇属性の力で狂竜がいるのかどうかは分かるだろうから、一晩も飛び回れば概ね把握できるだろう。
ちなみに狂竜は上位竜で、全島を合わせてもその時代に1頭いるか居ないかである。
ドゥムジが生まれるより少し前には生息していて、飛竜狩りとも言える飛竜乗りたちの所業に怒り、各地の飛竜乗りを飛竜ごと襲って回ったらしい。
本末転倒では無いだろうか。
しかし北民の対竜人戦略には大打撃を与えたし、南民も狂竜に恐怖した。
中位精霊との契約者ではとても止められず、上位精霊との契約者であっても空ではいかにも不利で、二十年くらい甚大な犠牲を出し続けたらしい。
結局は数の暴力に敗れたらしいのだが、それ以降は飛竜の待遇も見直されたし、狂竜としては一応結果を残せている。ちなみに南民の待遇改善に結び付かない所が、どこまで行っても北民であった。
やがてポツリ、ポツリと雨が降り出してドゥムジは慌ててテントに戻った。
元々周囲が薄暗かった事もあり、直ぐに日が落ちて闇夜が訪れる。
湖は少し眺めただけであるが、水精霊との契約地としては千年後に北民が用意していた湖と同程度の質であった。
普段水属性のマナが使われていない分だけ、契約効果は上がるだろう。
水属性値が11のドゥムジとしては、それなりの水輝石も揃えた事であるし、属性値13くらいの契約を期待できるのではないだろうかと考えている。
上手くいけば14という可能性もあり、そうなれば風精霊の力を越える可能性もある。大河の水属性マナを打ち減らして土精霊に工事を行わせるには充分である。
ドゥムジも16歳になっており、いい加減に契約しないと契約が出来なくなる。
17歳で魔力が成熟し切って失敗した例もあるために、16歳という目安が作られているのだ。
ここで失敗すれば、スハルダに何を言われるか分かったものでは無い。
(この辺にしておくかな……)
夜の静寂の中、様々な魔物の鳴き声がテントまで届いてくる。
ドゥムジはテントの中で寝転がり、次第に光精霊の光源を弱めていった。
透明な硝子張りの壁で隔てられた視界の先に、青く澄み切った空と白い雲、そして大樹が映る風景が、グルグルと渦巻いて見えた。
そんな隔絶された空間を背にした紫髪の彼女が、大理石の豪華な椅子に深く腰掛け、飛竜を模した白銀の竪琴を両手に抱き抱え、ドゥムジを見つめると今日は静かに首を横に振った。
そして右手を真っ直ぐ伸ばし、高らかに山の上を指し示す。
途端、沢山の紫光が生まれ、虚空に美しい沢を作り出した。
地下水が湧き出ており、どうやらそれが沢の源流となっているようだ。
沢の水は山を下り、いくつかの分岐と合流を繰り返しながら、数多の生物の営みを支える。沢は湖に流れ込み、あるいは都市へと引き込まれ、海へと辿り着く。
海へ辿り着いた水の一部は空へ上がって雲となり、雨となって山へと染み込み、また湧き出して源流に重なっていく。
やがて悠久の時を経た源流に、強く輝く青光が生まれた。
彼女は青光を指差しながら促すように微笑むと、全身から紫光を放ちながら次第に薄らぎ消えていった。
























