第73話
叉胤はセディアに呼ばれ、ピエールの部屋にいた。ソファーに寝かされているライシュルトの傷口から、小さくも黒い煙のようなものが吹き出している。こちらに向かう間に話は聞いたが、思った以上に状態が悪そうだ。
「?」
ふと、どこからか慣れ親しんだ風が感じられた。忘れたくても忘れられない魔界の風。
それを感じたのは部屋に入った一瞬で、今はもう感じられない。ナシュマを求めてやまない心が、少しでも近づきたくて向こうの風を感じようとしたのか。
――会いたい。
「どうしました?」
「いえ、すみません。ライシュルトさんを診させてもらいますね」
叉胤は傍らに膝を着き、治療をしようと指先で傷口に触れた。
「……なるほど、ね」
魔力を放出するたび、黒いそれが指先を包み魔力を奪っていく。傷口から上がる煙が少し大きくなった。ただの傷ではなく呪術的な施しがされているのは明らかだ。
傷を作り、治そうとする魔力を『何か』に注がせる。治療を止めてライシュルトの命が危うくなったところで、魔界側の余計な芽が一つなくなれば良し、という腹積もりだろう。なんとも不愉快な構図だ。
叉胤は小さく舌打ちをした。魔界のやり口に腹が立つ。
「ライはどうなのだろうか?」
「今は、大丈夫とも駄目とも言えません。すみません……ただ、この傷には呪いのようなものがかけられています。魔力を注ぐごとに黒い煙が成長するように。これが何かは分かりませんが、元を辿ってみます。つきましてはピエールさん、どこかに外部を隔てられる場所があれば有り難いのですが」
「ここでは不都合ですか」
「はい……オレの本当の姿、特に教会内で見せるわけにはいきませんから」
少なくとも魔術部隊隊長以上の者の仕業だろう。こちらから干渉をするのに、生半可なことでは逆手を取られかねない。
「――なるほど。では、東塔に適した場所があります。見張りは内々にクラウドとカズキ君にお願いしましょう。聖騎士団長、案内を頼みます」
「諒解しました」
「ありがとうございます」
叉胤は頭を下げ、ライシュルトを連れたセディアと共に東塔へ向かった。
東塔の細く高い螺旋階段を上り、急に開けたそこには円錐型の部屋が一つ。大きなアーチ状の窓からセントラルクルスの街が一望でき、向かいの西塔は青い空に溶けるように歪んで見えた。
少しだけ、ここでも懐かしい風を感じた。
「ここなら塔に登る道は一つしかない。姿を見られることもないだろうが、念の為に遮断結界を張ろう」
「ありがとうございます。後はオレに任せて下さい。できるだけ手を尽くします」
「ああ、君に全てを託すよ。ライシュルトをよろしく頼む。私では何も出来ぬのが歯痒いな……」
「いいえ、彼の心にはあなたの姿があると思います。それだけでも十分支えになりますよ」
「そうだな。ありがとう」
セディアが姿を消し、周りに誰もいないことを確かめると、部屋の中央にライシュルトを配し、魔族の姿を露わにした。人間とは質の違う、増幅した魔力を教会の人間に覚られる心配があったが、セディアの結界でその心配もなくなった。
叉胤は、ライシュルトの体の横に手を着いて短く言葉を紡いだ。それに呼応するように彼を中心にして、床に魔法陣が浮かび上がる。
魔力を求めて傷が動いた。自分を餌と認識したか。
「上等」
口の端を上げると、傷の上に掌を置いた。術が単体で発動するわけがない。必ず術者と繋がる道があるはずだ。それを見つける。
「いくよ、ライシュルト」
自分の意識を術に同化をさせた。意識を潜入させ、流れを知る。
暗い闇が血流のようにライシュルトの体の中を巡る。いくつもの手のようなものが彼を取り巻く感覚があった。
媒体はライシュルトの血。力は魔界に繋がり、それは王都より流れる。何度か感じた懐かしい風はこの為か。
「ここを突き止めるとは腕を上げたな叉胤。だがここまでだ」
「え?」
突然頭の中に響いた声を理解することなく、叉胤は大きな力に弾き返されてしまった。そしてこちらに引き戻される一瞬、見えた光景は――。




