第42話
それから何日も船に揺られた。北へ向かうごとに空気は冷たく、凍える風が吹き、永久に溶けぬ氷の柱が銀世界に生える木のように連なる。白と銀だけの荒涼とした大地が広がった。
「寒いなぁ……ナシュマどこ行っちゃったんだろ」
見張りに立つ叉胤は身震いをする。風の里で心配するなと言われて以来、ナシュマを見かけないのだ。
白い息が船尾に向かって流れていくのを何気なく目で追った。
「……え?」
船尾に見える人影は、叉胤にとって見覚えのある男だった。黒い長髪が白い世界に揺らめき、端正な顔立ちに似つかわしくない頬の傷が背筋を凍らせる。
「鴎伐様……」
「久しぶりだな。元気か?」
「はい……」
答えながら叉胤は鴎伐へ歩み寄る。
互いの間合いに入るか入らないかのところで、上から降ってきた黒いものに行く手を阻まれた。腕一つで甲板の板を貫いた攻撃は、船を揺らすほどの衝撃を起こした。
「何っ?」
「大事はない。戻れ、東雲」
東雲と呼ばれた人物は黒いローブで全身を覆い、顔立ちも体つきも分からない。貫いた腕すら黒い手袋で包まれている。東雲がゆったりとした動きで鴎伐の隣へ移動した。
「お前、何者だ?」
叉胤は、首の後ろで感じた違和感をぶつける。東雲からは魔族でも人間でもない気配がするのだ。
だが東雲は何も答えずに鴎伐の横で微動だにしない。
「何故、答えないっ?」
「東雲は一部を除いて、他人との会話が禁じられている。妖祁の錬成した魔族の中では最高傑作でな、他人に姿はおろか、声すら聞かせたくないらしい」
「叉胤!」
先ほどの攻撃で、敵の襲来を感じ取ったライシュルトたちが駆けつける。
「大丈夫か? 結構揺れたぜ」
「ああ、ありがとう。大丈夫だよ」
「誰あれ。知ってる人?」
「うん。まぁ、ね」
歯切れ悪く答える叉胤に、鴎伐が大袈裟に溜め息を吐いた。
「叉胤、元上司に向かってそれはないだろ」
「上司?」
「俺は国王親衛隊長の鴎伐。こいつは東雲だ。叉胤は親衛隊の中でもトップクラスの術士だったんだが、こんなことになって残念だ」
「国王、親衛隊……」
「そう。国王や王族を警護する役目だ。魔族の中でも国王や四天王に次ぐ地位さ。そんな中から裏切り者が出たんだ。未だにお前の話は禁忌だぜ」
「オレは……」
叉胤は言葉を飲み込むように口を噤み、両の手で耳を塞ぐ。今更あの時のことは思い出したくなかった。隊内での制裁も、友人の裏切りも。
なにもかも。
叉胤の瞳から零れた涙が、宝石のように固まり床に転がる。
チリッと空気が震えた。そして叉胤の髪が、耳が、爪が鋭利に伸びていく。背中からは髪と同じ銀灰色の翼が生える。
「自己抑制が外れたか。東雲、気をつけろ。叉胤は強いぞ」
ふっと息を吐いた叉胤は僅かに指を動かした。
船が揺れ、津波のように船の下から競り上がってきた水が鴎伐と東雲を襲う。二人は避けたが、東雲の袖の裾に飛沫がかかった。
「捕らえたよ」
微かに濡れたローブが氷の結晶となって固まっていく。腕を侵し、一瞬にして全身を凍らせた。そして東雲の体ごと氷を砕く。
「…………」
だが、鴎伐が風の膜を張って東雲を護っていた。東雲を仕留められなかった叉胤は舌打ちし、視線を鴎伐へ向ける。
「間一髪……容赦ないなお前」
「敵に容赦をするなと教えたのは鴎伐様です」
「まぁ、な。だが、俺は東雲を殺されたくない。今のままじゃお前に勝てないようだからな、今回は引こう」
「逃がしませんよ」
「お前の相手は銀の海でしてやるよ」
叉胤が結界を張るよりも早く、鴎伐と東雲が吹雪の中へ姿を消してしまった。
戦いが済んだと判断した叉胤は元の姿へと戻る。こちらに来て初めて本性を剥き出しにした。誰にも見せたことのない姿に、皆から恐れられてもおかしくはない。
ふと怯えた船員と目が合った。人間界において自分が魔物だということは事実だが、改めて恐怖の眼差しで見られると心が痛む。
「あの……」
「ひっ」
近づこうとすると、船員は後ずさり腰を抜かしてしまった。
「ち、近づくなっ」
「ねぇ、そこの人。なんで叉胤が怖いの?」
怯える船員に向けてカズキが語りかける。
「カズキ?」
「姿が怖いの? それとも、人以上の力が怖いの?」
カズキが防寒服を脱ぎ捨てた。白い肌に鮮やかに浮かび上がる緑の痣。それから眩しい光が天に向かって放たれたかと思うと、大きな咆哮と共に空から聖獣が現れた。
「人ならざる力だって言うならボクだってそうだ。どんな力を持ってたって、みんな一緒なんだよ。怖く、ないよ」
カズキを背に乗せられるほど大きく成長した聖獣が、船の周りを旋回し、翼から齎される優しく暖かい風が船を包んだ。
それは恐怖も憂いも全て流し去る。
「叉胤は、叉胤だよ。ボクの、大切な仲間だよ」
「……うん、ありがとう」
叉胤は頷き、天を仰いで瞳を閉じた。




