第四十二話 理由
「早く起きてください!」
朝から凛々しい声が響き渡る、声の主はこの屋敷の娘イリス、その横には眼鏡をかけた理知的なメイドのクラリッサが静かに、しかし威圧感ある感じで立っていた。
そしてその二人の目が向けられているベッドには、いきなり起こされてまだ寝惚け眼の少年出雲景虎がいた。
「早く起きてください! 今日から私が貴方を教育し直します!」
「んが?」
まだ頭が寝ている景虎は何が何やらわからなかったが、そんな景虎を無視してイリスはさっそく支度に取り掛かる。クラリッサが手伝い、景虎の部屋に黒板のようなものが用意されると、イリスはこの世界の文字を書き始めていく。
「これから毎日学院に行くまで勉強をしてもらいます、よろしいですね!」
その言葉を聞いてようやくにして目を覚ました景虎。
「ああ? 何で朝っぱらから勉強なんかしねーといけねーんだよ!」
「クラウゼン家の者ならば、せめて文字の読み書きくらいは出来てもらわないと困るからです!」
「だぁから俺ぁ馬鹿だって言ってんだろ! 勉強なんぞできるかい!」
「逃げるのですか?」
「あ?」
挑発的なその言葉を発したのはクラリッサ、いつもの事務的な作業をするように眼鏡をクイと上げ、景虎を蔑んだように見つめる。
それが癇に障った景虎は眉を顰め、目つきが見る見る悪くなっていきクラリッサを睨みつける。
「おいコラもういっぺん言ってみ眼鏡ねーちゃん? 誰が逃げるって、あ?」
「貴方は勉強から逃げるのですねと言いました」
「上等だコラ! 勉強でも何でもやったらあ! 吼え面かかせてやっからな!」
言うと景虎はすぐさまベッドの上であぐらをかき、イリスに向けてさっさと始めろと怒鳴り散らす。その姿にイリスとクラリッサは顔を見合わせ微笑み、読み書きの授業を始める。
さすがメイド長のクラリッサ、すでに景虎がどういう人物かを見透かし、負けず嫌いの馬鹿という性格を看破していたのだった。
グリムゼール学院――
「おはようございます!」
「おはよう」
いつものようにイリスは学院の生徒達から声をかけられる。
成績優秀な美少女、武芸にも秀でて学年では敵うものはなく、八年生にしてこの学院の生徒会の一員になっているほどのエリートだった。
さらにこの国の重鎮ウィリアム将軍の娘という肩書きもあり、学院でもアイドル的な存在だったと言える。
しかし当然それを良く思わない者達もいる、主だった者は昔からアインベック帝国にいた貴族達、今は学院内で地位をひけらかして高圧的な要求や、傍若無人な行為は禁止されているが、それでも差別というのはまだ残っていた。
「おはよう、クラウゼンさん」
「おはよう、バルリングさん」
イリスに声をかけてきたのは同学年のバルバラ=バルリング、アインベック帝国にある旧貴族の一つバルリング家のお嬢様である。
イリスほどではないにしても成績優秀で、容姿も美少女と言われてもおかしくない人物だった。
そのせいか常日頃からイリスをライバル視してる感じがあり、事あるごとに突っかかってくるのだった。だが未だにイリスに勝てた事はなく、それを毎日苦々しく思っていた。
「この前の試験も学年一位だったとか、さすがですわね」
「ありがとうございます」
またいつものやりとりが始まったと周りが二人を注視する。
何かの順位が出る度にこういったやりとりが行われ、下手にその中に入ろうとするとバルバラの怒りを買ってしまうので誰も近づけないでいた。
イリス自身もバルバラが自分に敵意のようなものを見せているのを感じてはいたが、問題を起こすような事はすまいと考え、常に優雅にかわすように心掛けていた。
今日もいつも通り、バルバラの嫌味をかわして立ち去ろうとした、だが――。
「そういえば、最近ご家族が増えたそうですわね」
「!」
バルバラの放った言葉にイリスは一瞬言葉に詰まってしまう、一方のバルバラはしてやったりとほくそ笑むと、攻めるように言葉を続ける。
「何でもどこの馬の骨ともわからない者を養子にしたとか、まぁわたくし達には何故そのような事をしたのかはわかりませんが、クラウゼンさんも大変ですわねぇ、いきなりお兄様が出来たのですから」
「…………」
「聞けば読み書きが出来ないと聞きましたが、一体今までどこで暮らしてきたのか聞きたいものですわね。クラウゼンさん教えては頂けませんかしら?」
嫌味が込められたバルバラの言葉にイリスは何も答えられなかった。
景虎の事をどう説明すればなどわからないし、何より自分にとって景虎がどういう存在なのかがまだわからなかったからだ。
嫌らしい笑みを浮かべて待ち構えているバルバラに、イリスは小さく深呼吸をすると優しい笑みを浮かべて話し出す。
「申し訳ありません、私もまだあまり詳しい事は知らないのです、ですが父がこの人と決めた人物ならばきっと間違いはないのでしょう。 いずれ、この国の為に尽力してくださると信じております」
「あ、あら、そ、そう」
「では授業が始まりますので、これで」
優雅に挨拶をすると自分の教室に向かうイリス、その後ろでは舌打ちのようなものが聞こえたが、あえてそれは聞かなかった事にした。
その後イリスの周りには人が集まり、先程のやりとりについて慰められたりはしたものの、イリスは優しく微笑み大丈夫といつものように答えていた。
だが、イリスはその日授業に中々集中する事ができなかった――。
バルバラの言葉に改めて景虎の事を考えていたからだ、父は何故あのような者を養子になどしたのか、何故母は実の息子のように思えるのか、それがまったくわからなかった。
イリスは死んだ兄バーナードの事を考える、兄が死んだのは六年前、文武両道の優等生で、誰にも優しいまさに理想の兄だった。
だから死んだ時には皆悲しんだ、母ヒルダはそのせいで病になり、今も治療を受けているほどだ。イリス自身も未だに兄の事は忘れられないでいた。しかし母の身体を気遣い今まで気にしてない振りを続けていたのだ。
だがそんなイリスの前に景虎が突然現れた――。
「どうすればいいのよ……」
帰る馬車の中で苦悩するイリス、正直まだ納得はしていないし、もし追い出せるものなら追い出したいと思っていた。
しかし先日景虎が出て行った後の母ヒルダの事を思いだす。
”待って、待って景虎君!”
閉められた玄関の扉に必死に向かおうとする母、悲しみにくれ涙に濡れる母を見た時心が締め付けられた。そしてその直後母は倒れ、意識不明となった。
医師を呼び、必死で治療をするも母が目を覚ますことはなかった。
だが、言葉は聞く事ができた、小さな声で、かすれる声でずっとずっと同じ言葉だけを呟いていた。
”景虎君――”
気付けばイリスは走り出し、景虎を探していた。
帝都中を走り回ったかもしれない、そしてようやく見つけ、事情を話すと景虎は人間とも思えない速さで走り去っていった。
その後を追い、疲れ果てた身体で家に辿り着くと、そこには笑顔で微笑む母ヒルダが待っていた――。
「どうして、お母様はそんなにあいつの事を……」
イリスは自分では駄目だったのかと悔しがる。
死の淵を彷徨い苦しみ続けていた母を助けたのは、間違いなく景虎だった。
そして再び家に住む事を了承した景虎を見つめる母ヒルダの喜んだ顔を見た時、イリスは景虎を追い出すことはもうすまいと決めた。
納得は出来なかった、だからせめて景虎を家に相応しい人物にしようと朝から勉強をさせたりした。
だがそれは酷いものだった。まったく読み書きができないと言うのは事実で、教えた事もすぐに忘れる本当の馬鹿だった。だからバルバラの言葉に反論できなかったのだ。
様々な事を考えているうちに馬車は家に着く、結局何をどうすればいいのかわからないまま、再び景虎とどう顔を会わせればいいのかわからず苦悩する。
屋敷に入り使用人達から挨拶された後、いつものようにヒルダの元に向かうイリス、と、ヒルダの部屋から楽しげな声が聞こえてくる。
少しだけ開いていた扉の隙間から中を伺うと、そこには楽しそうに話をするヒルダと、そして景虎がいた。イリスは唇をかみ締め、中に入ろうとするも手が動かなかった。
そして、恥ずべき行為とわかりつつも二人の会話を立ち聞きした。
「あら、じゃあ初めて質問に答えられたのね」
「まぁ隣のディルクに教えられたりはしましたけどね、けどあの野郎の書いた文字をなんとなくですが読めたんすよ、ほんとイリス様様ってやつ」
自分の名前が出て、つい手に力が入ってしまうイリス。
「あのイリスが景虎君に勉強を教えるなんてねえ」
「あ、ヒルダさんからも言っといて下さいよ、朝っぱらから叩き起こされて勉強させられるこっちの身にもなれって、ほんとたまったもんじゃ……」
「…………」
「ん? 何か俺変な事言ったっすか?」
「お袋……」
膨れ面のジト目で景虎を見つめるヒルダ、先日の一件で景虎はヒルダの事を「お袋」と呼ぶ事に決めたのだが、それを景虎が言わなかった事をヒルダはお気にめさなかったようだった。
「子供ですかアンタ……、別に名前でもいーじゃないっすか」
「だーめ」
いたずらっぽく答えるヒルダに、景虎も仕方ないという感じで。
「あー、お袋からもイリスに言っといて下さいね」
「はい」
扉の隙間から満面の笑みを見せるヒルダを見つめるイリス、気付けばその目には涙が溜まっていた。母のあんなに嬉しそうな顔を見たのはいつ以来だったろうかと、思えば六年前に兄が死んでから母は病にかかり、笑う事も少なくなっていた。
父ウィリアムもイリスも必死で楽しませようとし、ヒルダも笑ってはくれたが明らかに無理をしていて辛かった。しかし、今のヒルダは心から笑っている、楽しげに、失われた時間が戻ってきたかのように――。
「ああ、そうか……、それでいいんだ」
ポツリと呟いたイリス、景虎がどんな人物だろうが、どんなに馬鹿で役立たずで、家にも迷惑をかけるかもしれないようなどうしようもない人物だろうが、そんな事は小さな事でしかないのだと。
――お母様が笑ってくれるなら、それに勝るものは何もないのだと――
そうと決めたイリスは涙を拭うとノックをし、ヒルダの返事を聞いた後静かに部屋の中へと入っていく。
「げっ! もう帰ってきたのかよ」
「私はいつも通りに帰ってきただけです! それより貴方は授業が終わってすぐ帰ってきたそうではありませんか! 学院には図書室もありますし、先生に授業を教わって遅れを取り戻すという事もできたというのに……」
「あー、腹減ったんで俺、食堂行きますわ」
「待ちなさい、まだ話は!」
言うが早いか景虎は駆け出しあっという間に部屋の外へと出て行った。
「まったく!」
怒るイリス、と、後ろから楽しげな笑い声が聞こえ振り向くと、そこには病気とは思えないほど元気なヒルダがいた。
「大丈夫ですかお母様」
「ええ、ええ、ほんとに賑やかになったものですね」
「お母様からも一言注意してくださいね」
「はいはい、あ、イリス」
「はい? 何でしょう」
「景虎君の、力になってあげてね」
ヒルダの言葉にイリスはもう迷う事はなかった。
彼は、景虎はもうこの家の一員なのだから――。
「はい」




