第四十一話 母親
クラウゼン邸は騒然となっていた――
景虎はいつもの黒の学生服を着て玄関に向かう途中だった。
イリスとの口論、そしてメイドのクラリッサとのやりとりで、自分はクラウゼン家の死んだ子供の代わりとして養子にされたと思い、この家から出て行こうと決めたのだ。
「か、景虎待て、急に出て行くとかどうした、お前はもうわしの息子で……」
「ああ悪ぃなおっさん、息子とかもうナシだ、その方がすっきりするしな」
「景虎!」
「じゃあな、まあ俺ぁ一人でなんとかするから、あとヒルダさんによろしく言っておいてくれな」
言うと景虎は玄関の扉を開け出て行く、屋敷の中で止めようとするのはウィリアムだけだった。クラリッサも、そしてイリスも景虎を一瞥するだけで止める事はなかった。
扉が閉じられる間際、景虎はヒルダの声が聞こえた気がしたが、閉じられた扉の音が大きくそれを確認する事はできなかった。
外は暗く、街の中に見えるのは家から零れ出る微かな光だけ、空は星が見えない曇り空だった。
「さって行くか、まぁ何とかなんだろ! まずはとにかく糞ドラゴンを探さねーとなー、ったくどこにいんだかあのヤロー」
景虎は自分を鼓舞するかのように独り言を吐く。フライハイトをどう探せばいいかなどまったく考えてはいなかったが、とにかく一刻も早くこの家から出て行きたいという想いがあった。
ここはもう、自分の家でも何でもなかったから――。
それから時間にして三十分ほど、景虎は薄暗い路地裏に隠れていた。
外に出ようと思ったのだが、警備の兵が門を監視しており出る事が出来なかったのだ。
わかっていた事とはいえ、夜中に外に出るのは余程の事でもない限り無理だったのだ。その後景虎は別の入り口を探していたのだが、街の中にも巡回をする兵がいて思うように動けず、咄嗟に路地裏に逃げ込んだのだった。
「ちっ、こんな事ならせめて朝出て行くべきだったなー、つっても朝まであの家にいるっつーのも格好悪ぃし、まぁ朝までここで待っとくしかねぇな」
路地裏の冷たい壁にもたれかかった景虎は、身体を丸めて寒さを凌ぐ事にする。
思えば一人きりになるというのは何時以来だろうと考える、この世界に来てからはずっとフライハイトと一緒だった。
いなくなって初めて思う、何だかんだでフライハイトには色々助けられた事、それは仕事や戦闘だけでなく、寂しさを紛わしてくれる存在だったとも。
「何か俺よわっちくなったよなあ……」
呟きながら景虎は目を閉じ、朝になるまで冷たい路地裏で待つ事に決めた。
時間にして一時間程経った頃、景虎は遠くから聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
真っ暗闇の街中、寒さで幻聴でも聞こえたのだろうと再び丸まって寒さを耐えようとした時、先程より近くでその声が再び聞こえてきた。
そして景虎はその声が自分を呼んでいるようだと気付く。
「んだよ、俺を交番にでも連れて行こうとか思ってんのかよ……」
今捕まるわけにはいかないと思い、無視する事を決める景虎。だがその声は収まらず、必死さすら感じる事に段々苛立ってくる、そして立ち上がると裏道から出て見回し、声を発している人物を見つけ大きめの声で呼びかける。
「おいこらイリス! てめぇまだ俺に何か用があんのかよ!」
「いた!」
呼び止められたイリスはすぐさま景虎に走り寄ってくる、暗闇であまり顔が見えなかったので警戒する景虎だったが、息を切らして近づいてきたイリスが今にも泣きそうな顔で景虎に乞うように語りかけてきた。
「お母様が! お母様が倒れたの!」
「んだと! お前ら何やってたんだよ!」
「貴方が出て行って、お母様が……、倒れて、呼んでるの、貴方の名前を! だから、お母様に会ってあげて!」
息も絶え絶えなイリスの言葉は景虎には一瞬理解が出来なかった、だがヒルダが倒れたというのは確かに理解した。
「よくわかんねーけどヒルダさんが俺呼んでんだな?」
「そ、そう……、ずっと、呼んでて、だから……」
「戻んぞ!」
言うと景虎は駆け出す、息が荒いイリスを待っているつもりはなかった。
一方のイリスも景虎を追おうとするも、その足の速さに驚愕していた。まるで馬ほどの速さであっという間に見えなくなったのだから。
景虎は瞬く間にクラウゼン邸に辿りつく、そして玄関を荒っぽく開け中に入っていく。
「か、景虎様!」
玄関で待っていたのはオロオロしている使用人達だった。景虎はかけられる声も無視してヒルダのいる部屋へと向かう。
そして、部屋の前で立っていたクラリッサを見つけると。
「景虎様……」
「ヒルダさんどうしたんだよ?」
「……急に、容態が悪化したようで、苦しまれています」
「医者はどーしたんだよ! ここにゃ魔法とかもあんだろが!」
「ヒルダ様の病は魔法が効かないものなのです、薬でその効果を抑えるしか方法がなく、ずっと苦しまれていて……」
いつもは気丈なクラリッサはそこにはおらず、悲しみに満ちた顔、小さく震える身体はいつもより弱弱しく見えた。
「中に入っていいんかよ?」
「はい、御主人様からは景虎様が戻られましたら、部屋に入れるようにと仰せつかっております」
言うと扉を開けるクラリッサ、中に入った景虎が見たのは二人の医師らしき人物が治癒魔法を使っている所だった。
クラリッサの言葉では魔法は効かないという事だったが、少しでも苦しみをなくそうというものなのだろう、そしてヒルダの横には手を握って必死で声をかけ続けているウィリアムの姿があった。
「おっさん」
「景虎……、家内が……、ヒルダが……」
ベッドに近づいたヒルダを見た景虎は声を失う、その顔は青白く憔悴しきっており、呼吸も微かなものだった。最悪の事態が頭を過ぎるのを必死で振り払う景虎は、ヒルダに近づき開いている方の手を取る。
その手はやはり冷たかった、出会った時に触れた時も冷たかったが、今はさらに冷たくまるで氷のようだった。
景虎はその手を強く握る、まだ出会ってそう会話もしてもいないし、過ごした日々も僅かなもの、だがそれでも景虎はこの人に死んで欲しくないと思った。
だから、必死でヒルダに声をかけた――。
「何やってんだよ! 病気なんかに負けてんじゃねえよ! こんなもんどうって事ねーだろうがよ! なぁ、あんたそんな弱い人じゃねえだろ! 強ぇんだったらとっとと起きやがれよなあ!」
急に叫んだ景虎を止めようとする医師を制止するウィリアム、そして景虎に続くようにヒルダに話しかける。
「ヒルダ、景虎の言う通りだ、お前は強い、こんな病に負けるはずはないんだ、だから頑張るんだヒルダ!」
「なあ早く目え覚ませよヒルダさん! こんなもんどうって事ねーだろうがよ! なぁ、起きたら何でもやってやっからよ! 早く目え覚ませよなあ!」
強く握る手に力が入る、ウィリアムも必死で声をかけ続ける。しかしヒルダは依然目を開ける事もなく、呼吸も静かなままだった。
「こんの! 早く起きろよお!」
一際大きく叫ぶ景虎、だがヒルダが返事を返す事はなかった。
医師達も最早これまでと観念し始めたその時、異変が起きる――。
「ん……」
「!」
誰もが聞き逃さなかった、それは確かにヒルダの声だった。
ウィリアムが必死に声をかける、景虎も一際大きな声をかけ続け、医師たちは治癒の魔法をさらに強めてヒルダの回復を祈る。するとヒルダは大きく深呼吸をした、そしてゆっくりと目を開き、首を静かに動かして景虎を見つけると。
「おかえり……なさい」
聞こえた声に景虎は涙があふれる、震える手で、しかししっかりとその言葉に答えた。
「ただいまっス」
景虎に遅れること三十分、イリスが屋敷に戻ってくる。
心配していたイリスだったが、屋敷の中が安堵に包まれている事に気がつく。
ゆっくりとヒルダのいる部屋へと近づくイリス、部屋の前では涙を流しているクラリッサがいた。一瞬嫌な予感がよぎったものの、その顔が笑顔だった事に気付く。
ゆっくりと部屋の中に入っていくイリス、そこには治癒の魔法の光、そしてヒルダの手を握っている父ウィリアムと景虎の姿があった。そしてベッドには笑みを浮かべているヒルダ、目が合い、ヒルダがイリスの名を呼ぶ。
「イリス……」
「お母様!」
ヒルダに駆け寄るイリス、未だ治療中だった為抱きつく事はしなかったが、少なくとも倒れた時よりは顔色が良くなっている事に安堵する。
ヒルダは優しく、涙を流しベッドに寄り添うイリスに声をかける。
「心配をかけてごめんなさいねイリス」
「よかった、お母様よかった……」
泣きじゃくるイリスを入ってきたクラリッサが支える。
「もう大丈夫でしょう、交代の医師を呼び寄せますので、治癒魔法の処理は続けます、薬の方も大変でしょうが続けていただけますでしょうか」
医師の言葉に皆が胸を撫で下ろす、どうやら峠は越えたようだった。
ウィリアムもイリスもクラリッサも、そして医師達も笑顔を見せ喜びあっていた。
その様子を見届けた景虎はヒルダの手を静かに離し、その場を立ち去ろうとする。
「か、景虎待て! イリスやクラリッサがお前に言った事を気にしているのなら違う! わしはほんとにお前の……」
「あんがとなおっさん、けどやっぱ俺はここにゃあ居られねえわ。なんかやっぱ俺みてぇなクズには場違いなんだわここ」
寂しく微笑む景虎に声を詰まらすウィリアム、そしてそのまま声をかけられず景虎も再び外に出ようとした時、ヒルダが声をかける。
「景虎君」
「んじゃ、ヒルダさん気ぃつけてな」
「さっき言った事、私は……、聞こえてたわよ」
ヒルダの言葉に一瞬何の事かと考える景虎、他の面々もヒルダが何を言ってるのかわからなかったが、次に出た言葉にその意味を理解する。
「さっき、景虎君言ってたわ……、起きたら何でもやってやるって……」
「あ……」
呆然とする景虎に笑みを返すヒルダ、それにつられたウィリアムとクラリッサも笑みを浮かべる、ただ一人意味がわからないイリスだった。
「あー、いやあれはよくあるやつだし、なんでまーノーカンっつー事で……」
「一緒に、暮らしましょう、ね」
その問いの返答に困る景虎、と、自分を良く思っていなかったイリスとクラリッサの事を思い出し、二人に顔を向ける、きっと反論してくれるかと思ったが――。
「「…………」」
「何か言えよお前ら!」
どうやらヒルダの悲しむような事はしたくないという事なのだろう、景虎には思う所はあるものの、今はヒルダを優先するという態度に孤立する景虎。
打つ手なしと分かると大きな溜息をつき、頭を掻くとヒルダに話しかける。
「何度も言うけどよ、俺ぁクズみてぇな奴っすよ、迷惑ばっかかけるしヒルダさん泣かせるかもしんねーし、馬鹿だし」
「構わないわ」
「はぁ……、ヒルダさん、結構強情とか言われるっしょ?」
「そんな事言われたの初めてだわ」
「ったく、もうどうにでもしてくださいよ」
その言葉に満面の笑みを見せるヒルダ、さすがにまだ身体いっぱいで表現するというのは無理だったが、凄く喜んでるのは誰の目にも明らかだった。
どっと疲れた景虎が今度こそ部屋から出て行こうとすると、再びヒルダが呼び止める。
「もうひとつ、いいかしら?」
「なんすか?」
「お母様って呼んでみて」
「んあ?」
その言葉に固まる景虎、しかし何とか正気を取り戻し両手をバタつかせ全力で無理無理とジェスチャーするも、ヒルダは今か今かと待っていた。
「いや、さすがに無理っすわ、ほんと勘弁してください! んじゃ俺は……」
逃げようとするもすでに扉は閉められその前にはクラリッサが陣取っていた。変な汗が大量に溢れ、景虎は退路を探すもどこにもないとわかるとついに覚悟を決める。
「わーっかりましたよ! けどあー、その、仰々しいのはアレなんで、その、俺の言い易いんで……、いやほんと呼びなれてねーんで変かもで……」
「好きに呼んでくれて、構わないわ」
何でこんな事になってしまったんだろうと考えるも後の祭り、自分の言った事には責任を持つ! そういった事を心の中で何度も叫んで納得させながらも、その顔は真っ赤に染まり変な汗が流れ続けていた。景虎は何度か深呼吸をすると、ヒルダに向かいぎこちなく声をかけた。
「ん、んじゃ……、その……、お、お袋……」
搾り出したというのがふさわしいその言葉にヒルダは。
「はい」
元気に返事を返した。




