解決 -犯人指摘篇-
私たちは、部屋のドアを叩いた。
まだ十時だし起きているだろうと浦川先輩は言ってたけど、どうなんだろうか。私なんかは八時に寝ちゃったわけだけど。
と、少し心配したけど、どうやらそれは杞憂だったようだ。ドアはあっさりと開き、彼は顔を出した。綱木くんだ。
浦川先輩は彼に言った。
「犯人が分かったんだ。推理を聞いてくれないか」
綱木くんは、怪訝そうに首をひねった。
「俺に、ですか?」
「ああ」浦川先輩は頷いた。「お前にだ」
浦川先輩と綱木くんは向かい合ったまま、しばらく黙り込んだ。綱木くんの大きな目が、探るように浦川先輩を見つめている。浦川先輩によれば、犯人は彼――綱木光輝くんだ。未だに信じがたいことだった。彼は最初の殺人のとき、容疑者から外れたはずなのだ。
やがて綱木くんがふうと息をついた。そして口元だけで薄く笑った。
「分かりました。立ち話も何ですし入ってください」
私たちは綱木くんの部屋に入った。
綱木くんはベッドに浅く腰掛けると、足を組んだ。
「……で、推理というのは?」
浦川先輩はポケットに手を突っ込んだまま壁に寄りかかった。
「まず、前提として押さえておきたい点が一つある」
「へえ。何ですかね」
「『犯人は何故、北森の部屋を密室にしたのか』ということだ。その理由をはっきりさせておく」
綱木くんがゆっくり顎を引いて頷いた。浦川先輩は続ける。
「そもそもあの部屋が密室たりえたのは、ドアと窓の鍵が閉まっていて、部屋の鍵とマスターキーの両方が室内にあったからだよな。しかし思い返してみると、マスターキーが室内にあったのは偶然のことなんだよ。部屋にあったマスターキーは、江藤がたまたま北森の部屋に置いてきてしまっただけなんだからな。つまり、犯人は部屋の中にマスターキーがあることを知らなかった。マスターキーは江藤が持っているものだと信じて疑わなかったに違いない」
成る程、と私は納得した。マスターキーがあったのはパーカーの中だし、犯人が気がつかなかったのも無理はない。
「それで?」と、綱木くん。
「あとは簡単だろう。江藤がマスターキーを持っている状況で密室殺人が起きたらどうなるか。当然、マスターキーを持っている江藤が疑われることになる。そして、犯人は江藤がマスターキー持っていると思っていた。つまり犯人が現場を密室にしたのは、江藤静香に罪を着せるためだったんだ」
「はあ、静香にねえ。成る程なあ」
彼はどこか他人事のような口調だった。
浦川先輩はそれを気にするふうでもなく、言った。
「ここまでが前提だ。『犯人は江藤に罪を着せようとしていた』ということだけ覚えておいてくれればいい」浦川先輩はポケットから手を出して腕を組んだ。「で、ここから本題に入るぞ。リビングの暖炉で北森と磯前の首が燃やされてたってことは、もちろん知ってるよな」
綱木くんは肩をすくめた。
「さあ、知りませんね。そんなことがあったんですか?」
俺はとぼけてますよと言わんばかりの言い方だった。酷く落ち着いているのが少し不気味だった。
浦川先輩は言った。
「あったのさ。そして、そんなことをする理由があるのは北森と磯前を殺した犯人だけだ。そうだろ?」
「どうでしょうね。犯人にだって、そんなことをする理由はないように思えますけど」
「犯人になら、あるんだよ」
「へえ。どんな理由でしょうか」
「犯人が死体の一部を燃やす理由なんて一つしかないだろ? そこに残った痕跡を消し去るためだよ」
綱木くんは足を組み替えた。
「犯人にとって不都合な痕跡が、直子と磯前の生首には残っていたと?」
浦川先輩は頷いた。
「そうだ。とは言っても、本当に焼き払う必要があったのは磯前の生首だけだったろうがな。北森の首まで暖炉に入れたのは、磯前の首だけ燃やすと目的がバレると思ったからだろう」
「じゃあ磯前の首にやばい痕跡が残っていたわけですか。守口の話を聞く限りじゃ、そんなのなかったように思えるけどなあ。後頭部に傷があっただけで、他には何も見つからなかったんでしょう?」
「ああ。だから犯人が消し去りたかったのは、その後頭部の傷だったと考えるしかないわけだ」
「それは変じゃないですかね。そんな傷が犯人にとって不都合になるとは思えないし、仮にその傷が犯人にとって不都合だったとしても、守口と先輩がばっちり見ちゃったわけじゃないですか。それなのに焦って燃やしたって、手遅れだと思いますよ。今さら傷を隠滅する意味はありません」
「ところが実際には燃やされている。誰かに見られるリスクもあったのにも関わらずだ。そこまでして実行したからには、意味があったんだよ。だから俺はこう考えたんだ。磯前の後頭部の傷は、『そのままにしておくわけにはいかないが、俺や守口には見られても問題ないもの』なんじゃないかってね」
はっくしょん、と綱木くんがクシャミをした。
「……ああ、すいません。いや、ちゃんと聞いてましたよ。磯前の後頭部にあった傷が、浦川先輩や守口には見られても問題ないもの、ですか。どうして先輩や守口には見られても平気なんですか?」
見れば見るほど、目の前にいるのは本当にさっきまでの綱木くんなのかという思いが強くなる。今の彼は、びっくりするほど普段通りだった。綱木くんがここに来てから見せていた沈痛な様子が、今は微塵も感じられない。常態すぎる綱木くんが、この状況では甚だしく異様だ。
浦川先輩は咳払いした。
「あの傷は、そのままにはしておけないものだった――じゃあ、そのままにしておくとどうなるのか。当然、明日の昼過ぎに来る警察に調べられるよな。犯人は、それがまずいと思ったんだよ。後頭部の傷は、俺や守口に見られたところでどうということはないが、警察が調べたらまずいものだったんだ。ここまで言えば察しがつくか?」
「すいません。俺、察しが悪いもんで。警察に調べられたらまずいものって何ですか?」彼は言いながら鼻をかんだ。
「傷の生活反応だよ。守口が『生活反応は見ただけでは分からなかった』と言ってたよな。そう、俺や守口が見たって分からなかったんだよ。犯人は一先ず胸を撫で下ろしたことだろう。しかし、警察が調べたら絶対に分かってしまう。犯人はそれを恐れたのさ。だから、警察が来る前に傷ごと磯前の首を焼き払ってしまおうと考えたんだ」
生活反応。生きている間にしかしない反応のことだ。生活反応を調べることで、死体にある外傷が生前のものか死後のものかが明らかになるという。思い返してみれば、それを教えてくれたのも磯前くんだ。それにしても、私は生活反応が絡むとしたら直子の死体の方かと思っていた。磯前くんの方だとは、考えもしなかった。
綱木くんは言った。
「分からないなあ。先輩たちが調べても分からないもので、警察が調べたら分かるもの……なんて、生活反応以外にもいくらでもあるでしょうに。どうして先輩は生活反応だと思ったんですか?」
浦川先輩は唇を湿すと、咳払いして言った。
「普通、死体にまずい痕跡を残してしまったら、その場ですぐに消し去るだろ? 今回の場合は磯前の後頭部に残った傷だ。あれがまずいと思ったのなら、俺たちが発見するよりも前に燃やすなりして隠滅してしまえば良かった。磯前は少なくとも七時四十分には殺されていたんだから、そうする時間は充分あったことになる。しかし犯人はそうしなかった。それは何故か。犯人は、磯前の後頭部に傷を残したときは、それが自分にとって不都合になるとは考えなかったからだ。言い換えれば、犯人はあの傷が自分に不都合になることを知らなかったんだよ。そして、今になって磯前の首が燃やされているということは、既に犯人は傷を残したままにしておくことのまずさを知っているということだ。
犯人が、犯行時には知らなかったが、今では知っているもの。それが生活反応に関する知識だよ。覚えているはずだ。死体を調べに行った守口と俺が、リビングに戻ってきたとき……あのとき、守口はこう言っていた。『生活反応は見ただけでは分からなかった』と。それに対して古坂がこう言ったんだ。『生活反応って、外傷が生前のものか死後のものか分かるやつだよね』と。このやりとりを聞けば、どんな奴だって生活反応が何なのか見当ぐらいつくだろう。磯前の死体発見後、あのやりとり以外には、犯人が何かの知識を得られるような会話や出来事はなかった。犯人が死体発見後に知ったもので、尚且つ俺や守口が調べても分からなかったものといえば、生活反応の知識以外には考えられない。
犯人は、守口と古坂のやりとりで初めて生活反応というものの存在を知ったんだよ。磯前の後頭部に傷を残したときは生活反応を知らなかった……要するに、死体に残った外傷が死後のものか生前のものかなんて調べることは出来ないと思っていたんだな。だからそのまま放置した。そして守口と古坂のやりとりを聞いて生活反応の存在を知り、それと同時に、磯前の後頭部に残した傷が自分にとって不都合になることに気づいた。だから犯人は、今になって磯前の首を燃やしたのさ。
と、これが俺の推理だ。……何か反論はあるか?」
私は、頭の中で数々の謎が氷解していくのを感じていた。まだ分からない部分もたくさんある。それでも私は浦川先輩と同じように、綱木くんこそがこの事件の犯人その人であると確信した。その理由は、おそらく綱木くん自身はまだ分からないだろう。
「まあ、『犯人が隠滅したものは傷の生活反応である』ってとこまでは理解できましたよ」綱木くんは言った。「でも、まだ肝心な部分の説明を聞いていませんね。その傷の生活反応を調べられることで、犯人はどんな『不都合』を被ってしまうのか。俺にはそこがさっぱり理解できません。いいじゃないですか、生活反応の一つや二つ」
「そうだったな、すまなかった。といっても、答えは明白だよ。要するに俺たちが考えてたのとは逆ってことなんだ。俺たちは磯前の後頭部にあった傷を、当たり前のように生前できたものだと考えていた。しかし、実はそうじゃなかったんだよ。磯前の後頭部にあったあの傷は、死後にできたものだったのさ。そして犯人はあの傷を、死後にできたものだと知られるわけにはいかなかった」
綱木くんはまた肩をすくめた。
「さっきから回りくどすぎて要点が見えてきませんよ。突然、後頭部の傷は死後にできたものって言われてもね。なんだって、磯前の死体に傷ができるんです。仮に死後にできた傷だったとして、どうしてそれを知られたくなかったのかもピンときませんし」
「悪い悪い、ちょっとでも分かりやすく説明しようと思ってな。じゃあ、スパッと言おう。犯人は磯前を扼殺した後に後頭部を鉈で殴りつけたんだよ。生活反応を調べられたら、その偽装工作がバレてしまう。だから警察が調べる前に傷を焼き払った」
綱木くんはふっ、と軽く笑った。
「そんな偽装工作して、犯人に何の得があるんですか」
「要領を得ない説明で申し訳ない。じゃあ、仮に磯前の死体に傷なんかなかったらどうなってたか想像してみてくれ。死斑や首に残った手の痕から、それが扼殺死体であることが分かるところまでは同じだろう。違うのはその先だ。外傷が一切ない扼殺死体が見つかったら、当然『犯人は磯前をただ扼殺したのだ』と判断されることになる。そうなると、力の弱い女子が男である磯前を扼殺した犯人だとは考えにくくなるよな。特に、足を捻挫していた江藤には絶対に不可能な犯行であると判断されるに違いない。
ここで思い出して欲しいのが、『犯人は江藤に罪を着せようとしていた』ってことだ。北森を殺したときには罪を着せる対象だった江藤が、磯前殺しでは容疑者から除外されてしまう。これは犯人にとって、何としても避けたいことだった。犯人は江藤に罪を着せるためにわざわざ密室状況まで作り上げた人間だ。江藤が容疑者でなくなってしまうのは耐え切れなかったんだよ。
だから犯人は死体に手を加えたのさ。『犯人は磯前を後ろから鉈で殴りつけ、息の根を止めるために首を絞めたのだ』……そういう筋書きになれば、捻挫している江藤でも犯行は可能と判断されるだろう、ってな。そして実際に俺たちはそう判断した。あえて後頭部の低い位置を殴ったのも、江藤を容疑者圏内にねじ込むためだろう」
ぱちぱちぱち、と乾いた拍手が虚しく響いた。綱木くんだ。
「凄く分かりやすかったです。いやあ流石ですよ、浦川先輩は。そこまできたら、もう犯人も指摘できるんじゃないですか」
私は綱木くんを見た。
まだ笑っている。というより、さっきからずっと表情が変わっていない。まだ自分が犯人だとは分からないだろうと思っているのか、それとも表情を変える気力さえないのか。
浦川先輩は深いため息をついた。頭痛を堪えるときのような顔をしている。
先輩は、しばらくしてから言った。
「実はそうなんだよ。本当言うとな。さっき生活反応の隠滅を説明したときから、もう犯人を指摘できる段階には入ってたんだ」
「なあんだ、そうなんですか」綱木くんが気の抜けた声を出した。本当にいつもと同じだ。仲間を二人も殺した人間とは思えない。「あ。もしかして、あれですか。守口と古坂のやりとりを耳にするまで生活反応を知らなかった人間が、この事件の犯人である……とか、そういうロジックですか」
「ああ」浦川先輩は頷いた。「その通りだ。理由はさっき説明したな」
「いやあ、しかしそれで犯人を割り出すのは厳しいものがあるんじゃないですかねえ。今さら『実はあのとき初めて知ったんです』なんて正直に言う奴はいないでしょう。むしろみんな『最初から知っていましたよ』って言うと思うんですよね。っていうか、そもそも生活反応なんて刑事ドラマとかミステリーとか好きでもない限り知らないって奴の方が多くありません? まあ、守口と古坂は確実に除外できるとしても、他の連中はみんな……」
浦川先輩は辛そうにかぶりを振った。綱木くんは知らないのだ。
先輩は絞り出すように言った。
「……『二人のやりとりを聞くまで生活反応のことを知らなかった人間が犯人である』というのは、逆の言い方をすれば『二人のやりとりを聞くよりも前に生活反応のことを知っていた人間は犯人たりえない』ということだ。犯人ではあり得ない人間を全て除外していくと、消去法的に犯人が明らかになるんだよ」
「バカな」綱木くんは笑い飛ばした。「そりゃ、誰だって『前から知っていた』と主張することは出来ると思いますけどね。それを証明出来る奴なんて、そうそういるわけが……」
「綱木くん」私はたまらず声をあげた。「綱木くんは知らなくても無理はないけど……今日、綱木くんと守口くんがここに来るよりも前にね。私と、浦川先輩と、静香と、ヨシさんと、磯前くんの五人でテレビを観ていて……たまたまだけど、そういう話になったんだよ」
綱木くんは、口の端を上げた。目は笑っていなかった。
彼は尋ねてきた。
「そういう話って、いうのは……?」
「生活反応の話。磯前くんがみんなに教えてくれたんだよ。私だって、今日までそんなの知らなかった」
「……成る程、な」
綱木くんは、組んでいた足を解いてだらりと投げ出した。
浦川先輩が口を開いた。
「そういうことだ。だから……古坂、江藤、三好、それから俺は、他ならぬ磯前から生活反応の話を聞いている。当然、容疑者からは除外できるわけだ。そしてさっきお前が言ったように、守口も確実に除外できる。除外できずに残るのは……」浦川先輩は、再び大きくため息をついた。「お前だけなんだよ、綱木」
綱木くんは眉一つ動かさないまま、乾いた笑顔を顔に貼り付けている。
彼は口を開いた。
「残念ですけど、浦川先輩の推理には穴があります」
「……穴?」浦川先輩は訊いた。
「先輩は、『犯人が死体の後頭部に残した傷を発見されるまで放置していたのは、犯人がそのとき生活反応のことを知らなかったからだ』と言いましたよね」
「ああ」浦川先輩は首を縦に振った。「言ったな」
綱木くんは言った。
「犯人は、静香を容疑者に入れるために死体を傷つけたんでしたね。なら、犯人はあえて傷を放置したという可能性もあるじゃないですか。磯前の後頭部に残された傷は、俺たちに見せ付けるためにわざと放置されたのだと考えることも出来るわけですよ。犯人は最初からそれが目的で死体に傷を残したんです。生活反応を知らずに傷を残し、生活反応を知ってから慌てて隠滅した……なんてのより、よっぽど自然でしょ。そうなると、生活反応を知っていた人でも犯人でないとは言い切れない」
浦河先輩は、今度は首を横に振った。
「磯前の死体が見つかったときのことを思い出してみろ。あのときは、まだ警察から『明日の昼過ぎまで来られない』という連絡を受けていなかっただろう。俺たちは八時に警察が来ると信じていたじゃないか。そして死体が見つかったのは八時過ぎ。犯人は、警察が来る予定の時刻まで傷を放置していたんだよ。警察が来れば傷の生活反応が調べられてしまうのにも関わらずだ。生活反応の知識がある人間が、そんな真似をすると思うか?」
そう言われた綱木くんは、しばらく何も言わなかった。
相変わらず、無機質な笑顔を携えたままだ。
やがて、彼はぽつりと言った。
「……ほんと、流石ですね」




