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桜は永遠に咲き誇る。

作者: 真導霧照

今回は、普通に文学を書いてみました。


もし、読んでいただいた後に、思うことがありましたら、送ってください

桜は咲き誇る。桜は人それぞれ、感じることが違う物の代表だろう。受験生にとっては、受かった者には祝いの木。落ちた者には人の心境を考えない、誰からも綺麗だと思われる木。別に受験生だけが感じるものではない。例えば、普通の学生にとって、春はクラス替えの時期だろう。新しいクラスメイトへの不安、楽しみ。他にも担任の先生や部活の顧問といった、人が移り変わることを感じさせる木だ。

このように、桜はコスモスやバラなどとは違うものを、私達に感じさせてくれる。だが、果たして私達は、本当に咲いている桜の木を、桜だと思っているのだろうか? おそらく、誰に聞いても「そうだよ」や「当たり前だよ」と言ったような言葉が返ってくるのだろう。別に否定しようとは思わない

。確かに咲いている桜は、間違えなく桜なのだ。

とある友人に聞いてみたところ、彼はこう言ってきた。「桜というものがなければ、俺達の知識には桜という言葉は存在しなかった。もし、俺達にとってあの桜が桜でないのなら、何が桜なんだ」と。確かにそうだ。春に美しく咲き誇っている桜を見るからこそ、私達はそれを桜だと認識しているのだろう。

だが、私はそうは思わない。確かに、桜が咲き誇っているからこそ、桜という言葉を使い、様々な表現をしてきている。だが、それは本当に桜が咲き誇っているからなのか? いや、これは心情なのだ。桜を見て感じているのではなく、私達は桜を見ることで、自身の心にある桜を感じ取り、それを桜というもので表現しているのだ。人間だからこそ、私達は多くのことを考え、時に悩み、時に喜ぶのだ。紅葉なども桜と非常に似た部分がある。秋という四季の終盤に迫った時に、色とりどりの美しい景色を作り出す。例えれば、学校のクラスの団結力や仲の良さが増々大きくなっていくようだ。そこには色とりどりの世界が広がり、人はそれを絆という言葉で表現している。

学生時代の時に、何故、春と秋には大きな休みを作らないのかと思っていた。だが、これは意図があったのだ。自然とこうなったのかは分からないが、人間が最も感情を出すのは春と秋なのだ。勿論、夏や冬にも感情は出すが、やはり、日本人の習慣で考えれば、春の花見、秋の紅葉には行く人が多い。私達は景色を見ることで、自身の中にある木を咲かせているのだ。もしかしたら、四季と同じように、四つの木が立っているのかもしれない。それぞれは咲き続けて、時期になると外へ出ようとする。

今の現代社会には、桜は咲き誇っているのか? 色とりどりの紅葉を咲かせているか? 是非、周りを見渡してほしい。こんな考えをすれば、少しでも世界の見え方は変わってくることだろう。私は咲かせよう、永遠に咲き誇る桜を、色とりどりの紅葉を。君達の元へ、私の花びらが届くように。


読んでいただき、ありがとうございました

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