1.関白宣言(1)
コーヒーをブラックで飲む事が苦にならなくなったのはいつからだったか。立ち上る湯気の香気に陶酔しているとついこんな言葉が口をついてしまう。
「愛のように甘く、恋のように苦い、か……」
「もう4度目だね。俊一がそのセリフを言うの」
中華料理店のコックのようにジャージャーと豪快な音も賑やかに朝の調理をしていた母さんが、いかにも愉快そうに笑ったので僕はむっとした。しかし、それを顔に出してはせっかくの優雅な朝のひとときが台無しである。
「何のドラマのセリフ? それともアニメ?」
「ドラマじゃないよ。小説」
アニメ、という指摘はあえて黙殺する。確かにアニメ化はしているのだが。原作はあくまでも小説だから。
「ああ、あの挿絵が一杯入った」
きっと満面な笑顔なのだろうな、と鍋を振るう母さんの背中を見ているだけで想像が付くが、深くは追求しないでおく。どうして朝田家の女達はああもイヤミったらしい笑みを浮かべることができるのだろう。
「それにしても、今日は良い天気になりそうだね」
カップを片手に眺める窓の外の木漏れ日はすがすがしく、空は何処までも続いていそうだ。良い日になりそうな予感が膨らんでくる。
「夕方からは雨だって。傘持って行きなさいよ。そういえば俊一、あんたもう何本も無くしているんだから、忘れなさんなよ」
がっくりときた。
中華用鍋から手際よく大皿に移され、盛大な湯気を立てている朝食兼弁当用の肉野菜炒めを見ていると何も言えなくなる。ピーナツ油の香ばしい香りに、コーヒーの匂いはたちまち消し飛ばされてしまった。
所詮我が家でイイ雰囲気という物を求めるのはむりという物だろう。冒頭の僕のセリフには、例えば、
「あら、恋の味が貴方に分かるの?」
と返して欲しかったし、それに対して僕はこう返事を……
「母さん。これ醤油じゃなくてソースだぞ」
「あら、ごめんなさーい。俊一も食べないとおくれちゃうわよ」
「……悪いんだけど、僕にも砂糖を取ってくれる?」
インスタントではなく、豆から挽いたコーヒーであれば少しは甘いのだろうか。
オイスター風味の効いた、歯ごたえのあるキャベツと共に、分相応、という言葉の意味を噛みしめる。
料理の得意な母さんの作る朝食を、少し無愛想で新聞の経済欄に夢中な父さんと向かい合って食べる。ありきたりな日常。物語の冒頭としてはつまらないが、平和で穏やかな時間。
これはこれで悪くない。
そんな朝になるはずだった。香が来襲するまでは。突然にリビングと廊下をつなぐドアが爆発するように開き、姉の姿を……半年ぶりに目にして、僕たち三人はたちまちのうちに凍り付いた。
「悪い。この家売らにゃあかんわ」