としょかんのさくら
夏休みともなると、閑散とした図書館には小賑やかな雑音が埋め尽くす。その大半が、まだ未熟な幼児たちや小学校低学年の声だ。
――あいつらはいいなぁ。読書感想文を面倒臭いだなんて思っていないんだろうな。
などと、やや呆れながら岸部 竜はため息を吐いた。
もちろん自分は本なんて興味はない。ただ宿題のため、今はしぶしぶ我慢して読むだけ。貴重な小学校最後の夏休みをこんなことで潰したくはない。適当に読みやすそうな本を探してさっさと帰ろう、と竜はひたすら館内を歩き回っていた。
「みんなー、今から絵本の読み聞かせがはじまるよー!」
野太いおばちゃんの声が響くと、それまで騒がしかった幼児たちが一斉に同じ方向へと動いていく。さして興味もない竜は無視して本探しの続きをしようとした。
しばらくすると、騒がしかった子どもたちの声が落ち着いてきた。
「みんな、今日は読み聞かせ会に来てくれてありがとう。今日のお話は、『泣いた赤鬼』」
思わず、竜はその声に耳を欹てた。それはさきほどのおばちゃんの声とは違う、美しい女性の声だった。
パチパチと拍手が響き渡る。それにつられるように、竜もこっそりと絵本コーナーへと足を向けた。
「むかーし、むかし、とある山に、ひとりの赤鬼がすんでいました」
それは、小さい頃よく聞いたお話。
しかし、今聞いているのは何かが違った。彼女の優しく美しい、まさに鈴の音が物語を紡ぎあげるように、静かに絵本を読み上げていく。
――なんだろう、これ。
何度も聞いた話なのに、いつの間にか竜は聞きほれていた。
そして……。
「赤鬼はいつまでもしくしくとないていました。おしまい――」
鈴の音を奏でていた唇をそっと閉じると、彼女は立ち上がってにっこりと会釈をした。
パチパチ、と再び拍手が沸きあがる。
それに混じって、竜もいつの間にか拍手をしていた。
数日後――。
「なぁなぁ、セイウチのおばちゃん。読み聞かせ会いつからはじまるの?」
「またアンタかい。何度もいうけど、あたしはセイウチじゃなくて清内だっての」
「どっちだっていいじゃん」
「よかないよ! この礼儀しらずのガキンチョが! ったく、さくらちゃんも迷惑だろうから早く帰りな!」
大柄な肥満体の女性は、頭を抱えてため息を吐く。
「だーかーら……」
「あら、竜くん」
その声が聞こえると、竜は思わず後ろを振り向いた。
知性的な眼鏡のせいでやや地味だが、黒い髪と優しい笑顔はまさに大人そのものだ。彼女、白石さくらに、竜は――。
恋を、していた。
「ほら、さくらちゃん。アンタのストーカーだよ」
「ストーカーじゃねぇし! せめてファンといってくれよ!」
「はいはい、図書館では静かに!」
二人のやり取りを見て、さくらはふふふと笑みをこぼした。
顔を赤らめながら、竜も一緒に笑った。
「さくらさん、今日の読み聞かせすごくよかったよ!」
読み聞かせ会終了後、竜はすぐさまさくらの元へと駆け寄った。
「ありがとう。ふふ、その台詞、これで何度目かしら?」
「あっ、いや。本当に……」
「いいのよ、君が本当にそう思っていることぐらい、ちゃんと分かってるから」
照れくさくなって、竜はさくらから顔を背けた。
「さ、さくらさんはすげえよな。あんなすげえ読み聞かせができて」
竜がそういうと、さくらはふっと笑って、
「ありがとう。じゃあ褒められついでに、ちょっとだけお姉さんのヒミツ、教えてあげる」
ゴクリ――。
生唾を飲み込み、竜はブンブンと首を振った。一瞬脳内にいけない妄想が広がったのはいうまでもない。
「あのね……」
彼女は持っている鞄をガサゴソと漁った。
そこから取り出したのは、一冊のノート。竜はそれを手に取って読みはじめた。
――ながれぼしくんはいつもいじめられていました。
――ほかのほしたちとちがい、いずれはおちてきえてしまうからです。
――ながれぼしくんはなきました。そしてみんなをみかえしてやろうといっしょうけんめいひかりました。
そこからは白紙のノート。
だが、彼女の優しく淡いタッチの絵が、竜の心に響いた。
「実はね、私、絵本作家になりたいんだ」
「絵本、作家?」
「うん。昔からの夢でね。ここで働いているのも、いろんな絵本があるからなんだよ」
思っていたものとは違う、彼女の告白。しかし竜はがっかりなどしなかった。むしろ……。
「すげえ! やっぱさくらさんはすげえや!」
ガッ、と彼女の手を握り、声を挙げる。
「さくらさんなら絶対なれるって! オレ、応援してる!」
「ありがとう、竜くん。この絵本が完成したら、一番に君に見せてあげるね」
「うん!」
二人は微笑み合った。
少年の、小さくて、淡い初恋。
そういえば聞こえは良かったのかもしれない。
しかしそれはあまりにも小さすぎたのか――。
やがて、別れが訪れることになる。
夏休みが終わった後も、竜は何度も図書館に足を運んでいた。
さくらは相変わらず笑顔で彼と接し、本を薦めたりしていた。しかし、例の絵本はなかなか進んでいなかった。
「ごめんね。読書の秋フェアで、今忙しくて、なかなか描く時間がないの」
少しがっかりする竜ではあったが、こればかりは仕方がないと思うしかなかった。
とりあえず彼女の本が完成することを願いながら、相変わらず図書館に通い詰めていた。
しかし、十月も半ばを過ぎる頃、彼女は突然図書館に現れなくなった。
読み聞かせは、全てあの脂ぎったセイウチのおばちゃんがやっていた。もちろん彼女の朗読が悪いというわけではないが、どうしてもさくらの読み聞かせと比べてしまう。
――さくらさん。
彼女への思いは次第に、次第に募っていった。
そして、ある日――。
「いくら待ってもあの娘はこないよ」
セイウチのおばちゃんに言われ、竜はムッと眉を顰める。
外は、ひどい土砂降りだった。図書館の中までその音が響きそうなほどだった。
「どういう意味だよ」
「いいかい、よくお聞き。あの娘はね、もう――」
ガラガラ、と稲妻の音が聞こえた。
本音を言えば、その言葉をそれにかき消して欲しかった。しかし、残念ながらセイウチのその台詞は、竜の耳に届いてしまった。
――あの娘はね、もう、亡くなったんだよ。
いつの間にか、竜は家に帰っていた。
そして、いつの間にか泣いていた。ただ、ひたすら泣いていた。
「さくらさん、さくらさん……」
泣きながら、セイウチの言葉を思い出していた。
「元々身体が弱い娘でね。今までずっと頑張ってきたけど、突然のクモ膜下出血で倒れちまったんだよ。そしてそのまま、あの娘は帰らぬ人となったんだ。いい娘だったのに、ねえ……」
セイウチは俯きながら、そういっていた。
そして――。
「そういえば亡くなる直前に、これを君に渡してくれって頼まれていたんだった。ほら」
それは、あの描きかけの絵本だった。
竜は絵本を手に取ると、何も言わずに図書館を飛び出していった。
――なんでだよ、神様の、馬鹿野郎。
もう何がなんだか訳が分からなくなっていた。とにかく、恨めるものは全て恨むしかないと思った。
そのうち、自分が原因なのでは、とさえ思うようになった。
そうだ。自分のせいだ。
『この絵本が完成したら、一番に君に見せてあげるね』
彼女はもしかしたら、自分のために絵本を描き続けていたのかも知れない。その無理が祟って、身体を悪くしたのかも……。
オレのせいだ、オレの……。
しばらく、ぼんやりとした後、竜はふとあの絵本を開いた。
――たいようさんはいいました。
――ながれぼしくん、きみはほかのほしたちよりひかりはよわいかもしれない。
――でも、きみにはきみにしかできないことがあるんだよ。
いずれ消えてしまう、小さな光。そんなながれぼしくんは、まるでさくらさんそのもののようだった。
「さくらさんにしか、できないこと……」
そうだ。
このお話を完成させることができるのは、さくらさんだけだ。
なのに、なぜ……。
「お願いだよ、ながれぼしくん。オレなんて消えてしまっていいからさ、できることなら、オレを、さくらさんにしてくれよ……」
その瞬間、
弱かったながれぼしくんの絵が、突然輝きだした。
「えっ……?」
「ほら、こんなところで寝てちゃダメじゃないか?」
セイウチの声が、いきなり頭に響いた。
――あれ?
自分は家にいたはずだ、と思いながらゆっくりと瞼を開いた。
「あれ、ここは……」
「気がついたかい? まぁ疲れていたんだろうねぇ」
「オレは、一体……」
どうも視界がおかしかった。何か分厚いガラスのようなものがずっと目の前に聳えていた。
いや、ガラスのようなものというか、これは眼鏡だ。そう気がつくと、竜ははっと立ち上がった。
「あ、どうして……」
目の前の本棚がいつもより少し低いところにあった。まるで自分の背が突然高くなったようだ。
いや、高くなっていた。
見慣れた図書館の風景。しかし今日は何か違った。窓へ向かい、ガラスに映る自分の姿を恐る恐る確認した。
「これは……」
厚ぼったい眼鏡、そして黒い髪。ガラスにはよく知った女性、さくらが映っていた。
「なんでオレ、さくらさんに……」
亡くなったはずの女性の姿。久しぶりに見る彼女は、非常に困惑したような表情を浮かべている。
まさか、あの本が?
ズキン、と頭が痛んだ。
「ちょっと、本当に大丈夫かい? もうすぐ読み聞かせだけど、今日は変わろうか?」
後ろからセイウチに声を掛けられ、ようやく我に返った。
とにかく今はさくらさんとして過ごすしかない。
「あ、はい。大丈夫です、セイウチさん」
竜はなんとかたどたどしくさくらを演じた。
「おいおい、あたしゃセイウチじゃなくて清内……。あれ? このやりとり、なんかどっかで……」
「と、とにかく、読み聞かせ、ですね。頑張ります」
「そうかい。それじゃ頼んだよ」
セイウチはそういってその場を立ち去った。
――読み聞かせ、オレにできるのだろうか?
さくらとなった竜はゆっくりと深呼吸をした。
「さぁ、みんなー。読み聞かせがはじまるよー」
セイウチの呼びかけに、子どもたちが一斉に集まった。
もう、やるしかない。そう思った竜は椅子に座りながら絵本を開いた。
「お疲れ様。今日も良かったよ」
読み聞かせが終わり、セイウチが労った。
緊張が一気に抜け、さくらはふぅとため息を吐いた。
「でも、なんだろうね。気のせいかも知れないけど、今日の読み聞かせ、いつもと違っていたね」
「えっ……」
セイウチに見抜かれたと思い、竜はギクリと顔を硬直させた。
「なんていうかね、すごい思いが篭っていた。気のせいかね。子どもたちのためじゃなくて、誰か大切な人のために読んでいる……。なんかそんな気がしたね」
「え、っと……。あはは、それ、多分気のせいですよ……」
「そうだね。あたしも歳かねぇ」
二人して笑うが、竜は内心冷や汗が垂れていた。
ズキン――。
再び、頭痛が襲い掛かってきた。同時に、竜の視界がぐにゃりと歪みだした。
「なんか大丈夫かい? なんなら少し休んで……」
「あ、はい。だいじょ、う……」
バタッ!
さくらは何かが切れたかのように、そのまま倒れこむ。
「ちょっと、さくらちゃん、さくらちゃん!」
呼びかけるセイウチの声が、次第に遠のいていった――。
――とうとうながれぼしくんがおちるひがきました。
――ながれぼしくんはこころにきめていました。そうだ、ぼくはみんなのねがいごとをかなえよう。それがぼくにしかできないことなんだ。
――ながれぼしくんはいっしょうけんめい、ひかりました。それをみたこどもたちは、みんなおねがいをしました。
「……くん、竜くん」
――あれ? ここは?
上下も左右もないような、ふわふわした空間。
気がつくと竜はそんな場所にいた。
「竜くん……」
――この声は、まさか夢?
「ありがとう、竜くん」
「さくら、さん?」
聞き覚えのある、懐かしい声だった。
そしてゆっくりと目を開けると、そこには……。
「竜くん。ありがとう」
「さくらさん……。さくらさん!」
目の前に、初恋の女性、さくらがいた。
彼女は優しく微笑んだ。思わず、竜は彼女に抱きついて泣き出した。
「さくらさん、オレ、おれ……」
泣きつく竜の背中に、さくらはそっと手を添えた。
「ありがとう、竜くん。君の気持ちはうれしかった。読み聞かせも、すごくよかったわ」
「そんな……。オレ、さくらさんのようにうまくできなくて……」
「そんなことないよ。本当に、すごく良かった」
竜は声を挙げて泣き出した。
「オレが願ったからかな? 気がつくと、オレ、さくらさんになっていた」
「うん。ずっと見ていたわ。でもね、もういいの。今ならまだ元に戻れるわ。元の、私がいない世界に……」
「嫌だ!」
「竜くん!」
「さくらさんが死んだ世界なんて、嫌だ!」
竜は一層強く泣き出した。
「オレ、多分さくらさんになりたかったんだと思う。いつかさくらさんのような、素敵な人になりたかった。なのに、なんで、なんで死んじゃったんだよ。さくらさんは、オレなんかよりずっと生きていなきゃいけないのに、生きてあの本を完成させなきゃいけないのに……」
竜がそういうと、さくらは更にぎゅっと竜を抱きしめた。
「そんなこと言わないで。君は君にしかできないことがあるのよ。君はまだ小学生なんだから、もっといろんなこと知らなきゃダメ。だから……もう、私になる必要はないんだよ」
「イヤだ、そんなの! このままさくらさんでいたい!」
「ダメ! そんなことしたら君が消えてしまうのよ! それじゃあ、まるで……」
ああ、そうだ。
あのながれぼしくんを、竜は最初さくらと重ねていた。しかし、今では自分がながれぼしくんになろうとしている。さくらの夢を叶えるため、自分が消えようとしている。
「いいんだ。オレじゃあさくらさんになれないかもしれないけど……。でも、さくらさんのこと、みんなはずっと覚えていてくれる。さくらさんが思い描いたものとは違うかもしれないけど、さくらさんとしてあの本の続きを描くこともできる」
「ダメよ、そんなの……」
「いいんだよ。さくらさんが絵本作家になること、それが、オレの夢なんだから。オレの夢はオレが叶えてみせる。正直うまくやれるかわからないけど、さくらさんがいる世界で、さくらさんの夢を引き継ぎたい。それがオレの、選んだ道だから……」
「竜くん……。本当に、それでいいのね」
竜はこくり、と頷いた。
ゆっくりと、彼女が離れていく。
このまま、自分はさくらとして生きていくのだろう。これからも、ずっと――。
自分の知っているさくらはもういない。これからのさくらは、さくらの姿をした自分だ。
でも、これでいいんだ。自分が恋したさくらという女性が、あの本の続きを描くにはこれしかない。
別れる間際、彼女の唇はゆっくりと、こう動いた。
――じゃあね、と。
あれから、二年――。
「ながれぼしくん」は見事絵本の賞を受賞した。
その優しい絵柄とストーリーが子どもから大人までに受け、ベストセラーとなった。早くもアニメ映画として流したいと各所から依頼が出ているほどだ。
さくらもまた、絵本作家としてその名を全国に轟かせることになった。もちろん、彼女が元々「竜」という少年だったことは、誰も知らない。
「はい、ではさくら先生のサイン会をはじめます。絵本を購入した方から順番に並んでください」
某大型デパートの書房に、次々と人が集まる。
さくらとなった竜は、この日のために彼女らしいサインを考えていた。彼女となった直後、竜はただひたすら「さくららしく」生きることばかり考えていた。当然最初は戸惑う場面も多かったが、今ではもうさくらとしての自分のほうに慣れてしまったほどだ。
「はい、では次の方」
手際よく、考えたサインと笑顔を客たちにプレゼントしていく。
おそらく自分じゃなくても、彼女だったらこうしていただろう。竜は、その自信があった。
「お願いします、竜くん」
「はーい……。えっ……」
突然、懐かしい名前を呼ばれた。
その呼ぶ声もまた、どこかで聞き覚えのある声だった。
「やだなあ、忘れちゃったのかしら?」
目の前の客をゆっくりと見つめると、そこにいたのは、非常に懐かしい顔――。
「まさか……」
学生服を着ていても、その人物が誰なのかはすぐに分かった。
「そう、“君”だよ」
「お、オレ……?」
かつて少年だった頃の面影はなかった。しかし、そこにいたのは、紛れもない、かつての自分、“竜”だった。
「そして、“私”でもあるの。ね、竜くん」
「まさか、さくら、さん……」
「ピンポン!」
そういって“彼”は優しい笑顔を浮かべた。自分の顔だが、その笑顔はまさにあの、さくらのものだった。
「気がついたら、私この姿になっていたの。何故か分からないけど、私はこの姿で生き返ったみたいね」
「それじゃあ、さくらさんは……」
「なんていうか、結果的にはただ入れ替わっちゃっただけみたいね。それに私の夢、君に取られちゃったし」
「す、すみません……」
「謝らなくてもいいのよ。ううん、ありがとう。私の夢、叶えてくれて。だからね、私も、竜くんとして絵本作家になることにしたの。今度は、私が君として夢を叶える番。それでいいかしら?」
「さくらさん、さくらさん……」
思わず、竜は抱きついていた。
女性となった自分が、かつての自分を抱きしめる。それは異様な光景だったが、今はただうれしい、それだけだった。
それから数年後――。
二人は、共同で一冊の絵本を執筆する。
その本もまた、全国に知らないものはいないほどのベストセラーとなた。
タイトルは――。
「としょかんの さくら」