#01 entry
————漆黒で體躯を蔽い、身體に刻まれた叡智により、性質を失う。
————闇に這い虚空に活きて生命を刈取り、肉塊を斬り裂き、血を喰らい尽くす。
————陰翳を奔赱し、往き逝く者しか聽けぬ陰音を響かせて闇へ誘い、暗闇に舞踏う。
————狼の樣に荒々しく、狐の樣に妖艶なる吸血の鬼〝吸血狼狐〟と謳われる者なりや。
1.
某日、深夜裏路地、彼は闇夜の裏路地を疾駆していた。
外套で蔽われた彼の眼前には二十代半ば、格闘技などで相当量鍛えてあると考慮られる体躯の男が走っている。彼が追いかける速度を爆発的に上げ、漆黒い外套に拵えられていたフードが外れ、その相貌が曝された。
その外見は見目麗しい短髪の容姿、頭髪も双眸も漆黒で統一されていて一律だ。これでは黒装束の彼では到底力及ばない、と一般的には判断されるだろう。——が、彼は予想を大幅に裏切り、その男へ瞬く間に追いついて顔面を強く握り締め、地面へ叩きつけ圧迫させる。
取り押さえられた男は置かれた状況を把握し、表情が顔面蒼白の色へ染まり、驚愕で引き摺った声を振り絞り、吐き出す。
「ぁ、あんでお前みテェな、小娘なんかに……。ぉお、俺が……」
男が言い終える前に彼は無表情の裡に嘆息し、スタンガンの痛烈な刺激をお見舞いする。
後方から追随して来ていた、護送用の車輌が数瞬の後に遅れて辿り着く。
「アンタの敗因は俺を女性だと考慮し、油断したことさ」
最後の方は聞こえていないだろう男性へ彼は吐き捨て、通話中の携帯電話に注意を向けて身柄確保、と端的に告げてフードを被り直す。
護送車輌の運転手へ引渡し、通話相手から思わず溜息を漏らされる。
『君を一目で男性と思える人間は、そういないと思うよ』
「アンタは良いな、白鴉。見間違えられることなんてないんだから」
『そんなことを言うけど、君は僕よりも凄いよ。何たって最共の傭兵だからね、正直なとこ性別は女じゃないのか? 僕は今でも疑ってる』
「だったらもうそこはご想像にお任せするさ、いちいち面倒臭いし」
白茶色の短髪をした彼、都町白鴉の疑問に対し、彼は呆れ顔で肩を竦めて応える。
すると白鴉は薄ら笑みを浮かべて教えてくれないのか……残念、と口にする。
『それは措いといて今回も助かった、流石は元〝特装課〟なだけある。次も頼むよ、傭兵君』
「諒解(Willing)」
『それはそうと……』
溜息交じりに白鴉はそう前置きして飲料水で咽喉を潤し、言葉を続ける。
『好き勝手に動いてるけど、彼ら(レイヴン)に嗅付けられても知らないよ。ま、依頼するなら別だけど』
「ご忠告傷入るが、そんなヘマはしない」『だと良いけど』「それに奴らは俺を殺せない」
そう言うと通話を切り、彼は携帯電話をポケットにしまうと陰翳へ溶込てった。
西暦二〇二五年の晩春、第三廃棄物管理所。
そこには誰も寄り付こうともしない。当たり前だ、建物もそこの中にある物も全て廃墟なのだから。例を挙げるとすれば壊れた電子機器や錆び付いた車両やら、罅割れたコンクリートや硝子などの数々だ。中には使えそうなのも多数存在するが、現在の世界では殆ど役に立たないだろう、だってこれらは廃棄物なのだから。
けれどそこには独りぼっち自動拳銃の試し撃ちを始めようとしている人影がある。
両手には二挺の自動拳銃を構えており、その両手頸には蛍光腕輪が飾られている。眼前にあるコンクリートの厚い壁へ撃ち付けていく。放たれた実弾が連続して壁を穿っていき、実弾銃の弾が切れる。
「ふぅ……こんなもんかな」
いつも様にフード付の漆黒い外套を羽織っている彼、有栖陰音は掌を額へと宛がい呟く。
返事は当然ながらあるわけがない、そもそもこの場所へ近付く者が陰音以外に殆どいないのだから。——いや、正確に言うなら近付く必要がない、というのが妥当だろう。整理などは人件費の削減で機械に任せきりの方が一般的であり、足繁く立ち寄る必要はないのである。
そこへ足繁く通っている陰音の外見は、少年と呼ぶにしてはあまりにも少女然とした風貌や体躯をしており、十中八九で初見の場合は女性と間違われるだろう。そんな彼がいる第三廃棄物管理所は、全てを機械任せにしない前時代の遺物、つまり手作業の管理所なのだ。それにしても随分と年季の入った建物だ、さすがに塗壁ではなくコンクリートの建造物であるが。
「今日のうちに運び込まれたのはもう大体は見終わったし、そろそろ家に戻るか」
廃棄物管理所の管理室から出ると、陰音は扉に電子ロックを掛ける。と言っても一応電気は流れてきているので電子ロックは掛けられるのだ。
こんなことは小学生であり、世界に取り残された彼に唯一できることで、そのことは誰にでもできることだろう。正確に言えば小学生でもないのだが、日本や世界には教育の義務と言うものが存在している所為で、小学生という肩書きが陰音にはあるのだ。
「こんな所にいたんだ、結構捜したんだよ」
そう尤もらしく冗談を口にしながら登場してきた彼、都町白鴉は陰音の元へ歩み寄る。
「アンタ、本業の方はどうしたんだ、社長さん」
「いやいや、僕の本業はコッチだから」
「この情報屋まがいのことが、か?」
「あまり情報屋を怒らせない方が良いよ?」
そう言うと白鴉は陰音を睨付け、アルミ缶の清涼飲料水を飲む。
するとすぐに両肩を竦ませて陰音は降参、と体で表わす。
「で、何の用だ。——ぁあ、もしかしてこの前言ってた次の依頼か?」
「まあそんなとこだね、詳しい話は明日。時間帯は大体、昼頃かな」
「ん、わかった。時間は空けておく」
「おいおい、時間を空けるだけじゃなくて、ちゃんと来てくれよ……イン君」
「わかってるさ、俺に出来る範囲のことなら須く尽力させて貰う」
そう言うと陰音は棒状の携帯電話を操作してタスクを追加する。
「それはそれは、心強い限りだね。期待しているよ」
「今回、奴らは出て来るのか?」
あははは、と白鴉は苦笑で流し、ボトルの清涼飲料水を飲み干す。
その清涼飲料水のアルミ缶を握り潰してからゴミ箱へ投下すると、白鴉は何かを思い出したのか右手の拳で左の掌を軽く叩く。
「そうそう、忘れるところだった……。イダチさんから今日中に研究室まで来いってさ、何でも引取りがどうとか言ってたけど」
「今日中って約十分も残されてないぞ、教えるタイミング間違ってんだろ……」
現在の日本国内では見掛かることが珍しい携帯電話で陰音は着信履歴を確認する。
確かにその中にはイダチと呼ばれた彼女の着信もあったが、その他にも数件あるようだ。
現在の市場に於いては通称ホライズとも呼ばれるホライザーが主流であり、その最大の特徴は信号(P)読解(R)翻訳(T)システムを併用した、拡張(A)感覚(E)システムと仮想(V)感覚(E)システムなのだ。そして五年前の夏期頃に国内限定で配給されている。
今はそのホライザーが必要不可欠な物になっているのは言うまでもないことだ。大概の人間は少なからず新しい物に食いつく習性があり、社会がそういう仕組みになっている。まあ彼も使えるものなら使ってみたいものだが、それは叶わない夢だと既に諦めている。
「まあまあそう言わずにさ、イダチさんも待ってることだし逝ってきな」
「言われなくてもそうするよ、怒ってたらアンタのせいだからな」
無意な叱咤を蒙らないことを殆んど諦め、陰音は表裏の玄関へ鍵を閉めて白鴉と別れる。
光学(O)滑溝(S)画面(S)を採用した隠密性携帯電話にヘッドフォンを無線で繋ぎ、様々な楽曲の音源をひたすら聴きながら(陰音にとって聴いていると言うよりは、何も考えずただ聴き流す、という方が近いのかも知れない)、研究所のある伏見町隅の小さな研究所へ向かった。
そして深夜十二時半になろうかという間際、第五伏見研究所前。
「はあ、今は出来ることを出来るだけする、それしかないな」
陰音はここがあまり好きではない、それは第一の理由が電子機器を扱えないからだ。
電子機器系統が扱えなければ今や死活問題だ、と言っても旧式のものは扱えるのだか。旧式の仕様は今や使うことはなくなった。そう今の陰音は第二次デジタルデバイドの該当者で、その該当者は他にはいないので、世間に広まることはない。
扉の前まで近寄るとセキュリティーの掛かった自動ドアが陰音を感知し、ここにまだ居るだろう人物に映像を届ける。そしてその当人から直々に電話の着信がくる。
「オソイ、今何時だと思ってる。深夜十二時だよ、子供がうろつく時間じゃない今すぐ帰えんな……とは流石にアンタには言えないか。まあいい入んな、話はそれからだよ」
「わかった」
自動ドアが稼動したことを確認するよう、陰音は扉のスイッチを押して扉を開ける。
迷わず地下二階のモニタリング室まで足を運ぶとモニタリング室の扉を叩き、小さな音を立ててロックが解除され、音を殆んど感じさせずに扉が開く。
空中投映技術に依って生成された六面の大きいホロウィンドウが見受けられる。そこに一人の女性がおり、それは正しくイダチこと永幡依友で相違ない。その年齢は陰音よりも幾分か上で成人は過ぎているが、実年齢は感じさせない、というよりも気にならない感じだ。——たとえ、それが実年齢より若々しく見えていたとしても、だ。
ホライザーをケーブルで繋いだコンピュータが映し出すホロウィンドウには、何かのパラメータが表示され、表記されているパーセンテージが三十六パーセントと記述されている。
「チッ、全然同調率がうまくいかない」
「どうかしたのか?」
「いやなに、さほど気にするほどのことでもない、女装趣味なガキにはね」
「これは利便性を優先しているだけで、他意はないぞ」
椅子を回して依友は陰音の方へ振り向くと苦い表情をし、スカートの件は何事も無かったように流して話し始める。
「システムセキュリティーの向上とか諸々のことをやってんのよ、だから今は研究をしてる時間とかない。元々こっちが本職なんだし気にする必要はない、というかあれは左遷だったから研究なんて私にはできないし興味もない」
「ホライズになって大変そうだからな、色々と。俺は使えないから解る必要はないが」
「利便性は向上しているけど、それと同じくらい危険性があるのも確かだからね、コレは」
「まず考慮すべき点は光電子の問題。これは電子機器であれば全て当て嵌まるものだけど、これは考慮も何もない、これ以上濃度を減らしてしまえば、ホライザーは何もできないでしょうね。そこ関連での子供への悪影響はまず殆どないわ」
「でも身体の電子パルスとの同調で扱うホライザーは、クラッキングされた時の被害は甚大なものと為り得、だからファイアウォールなどのコンテンツをダウンロード、もしくは強化しておく必要がある。——と、ここまでが一般常識の範疇だったな。まあクラッキングに遭わない限り、大変便利なツールだと俺は思っているが」
依友は陰音の言葉に肯くと何か飲む、とジェスチャーしてくるので陰音は首を縦に振る。
すると依友は半透明のホロウィンドウとホロキーボードを同時にして消けしてホライザーをシャットダウンさせる。現代のシャットダウンにはタイムラグはない、というよりも人間には認識することは出来ないくらいだ。
お茶の入ったコップを手渡した依友は、軽量に設計された小型のペットボトルを自分のデスクから掴み取って、少しばかり残っていたコーヒーを飲み干すとゴミ箱へと投げ捨てるモーションに移行する。かと思いきや、いきなり投げる向きを変換して陰音の方へと向かってペットボトルが飛んでくるが、陰音はそれを間一髪で受け止める。
「チッ、まあいい。そのペットボトル捨てといて」
「明らかに今の狙ってただろ、と言うより舌打ちを堂々とするなよ。まだあの時のことを根に持ってるのか? もう終わったことだろ」
「そんなことはない、思い上がりも度が過ぎると気持ち悪いだけ、止めて欲しいわ。それに私はあの時の選択を認めたつもりもないし、今でも納得するつもりはないよ」
「やっぱり根に持ってるんじゃないか……」
陰音は呆れて言葉も出てこなくなって、軽く溜め息を吐く。
「私はお前に失望したんだよ、有栖」
「苗字で呼ばないでくれって言ってるだろ、止めてくれ」
「フン、変に気にしてる方が悪いのよ、苗字で呼ぶのは別に変じゃないからね」
そう言われると確かにそうだがそれはそれ、これはこれの適用内だと思う。
陰音はコップのお茶を少しだけ飲んで、臨戦態勢に入る。それを見計らったのか、依友は顔色一つ変えずに陰音の先手を執った。
「良いんじゃない可愛い苗字で、男の子にしたら可愛い顔立ちとかしてるし、メイクアップしたら化けるのは実証済だから安心していいわよ、有栖ちゃん」
「ふざけるな、俺の名は有栖陰音だ。おかげで変な名前だけどな」
「初めてフルネームを名乗られたときは、苗字だけかと思ったけどね」
そう言うと依友は堪えていた笑いを解き放ち、あはははは、と盛大に目に泪まで浮かべて笑う。一頻り大笑いしたあと、急に依友の顔が真面目になる。
陰音はそれを見て少々身構えてしまい、コップの中身のお茶が少しだけ零れてしまう。
「今日はもうここで寝て行きなさい、引取りは明日でも良いから」
「わかった……それより化粧が割れて化け物みたくなってるぞ」
「本物の化け物には言われたくない言葉よね、ソレ」
「俺は化物なのか!」
依友はあら違うの? と言った表情をするが、頬に刻まれている(ように見える)傷痕に目が行ってしまうのは仕方のないことだ。
「それはそれで心外だ」「それはそれは御免なさいねぇ~、ありすいんちゃん」「おい、俺をおちょくるのも好い加減にしろよ」「いやね、アナタを見ていると虫唾が奔るもの」
などというやり取りを経て、陰音はモニタリング室から退室する。
通路奥の休寝室と光学プレートに表記されている部屋へ入ると、そこには低反発素材の寝具が複数設置されている、ただそれだけの簡素な部屋だ。
実に気持ち良さそうなベッドなものだ、眠気はまだ無いのだが早く寝てしまいたい気分になるのを抑え、スカート下の腰のホルスターにしまっている自動拳銃を取り出す。
これは送り主不明の陰音宛で廃棄物管理所に送られて来たものだ。
「俺って結構な犯罪者だな、見つからないようにしないと」
金属型多層CNTで製作されており、この自動拳銃は非常に軽く、強固だ。そしてバネには金属型単層CNTが適用されている。口径は三十八口径で一般的なものだ。CNTを使用している辺り、それには多大なコストが掛かっていることは否めないだろう。
「自動拳銃の性能をテストして欲しい、ね。俺の過去を知っているのか、この送り主は」
これは考えるだけ時間の無駄という物なのでリモコンで部屋の明りを切り、ここは大人しく仮眠を執るのが吉だろう。そう思い、明日のことも考慮して、陰音はベッドへ寝転がり眠ることにした。
そして翌日の朝、午前七時前。
白を基調としたどこか大部屋の病室めいた光景が、照明を点けると目に映る。ベッドから降りると、伸びをして軽くストレッチをしながら部屋から廊下へ出る。職員でもない陰音の朝食なんて気前の良い物はここには存在しない、ある物と言えば空気とお手洗いの水道水だけだ。
「さすがに昨日の夕方くらいから何も摂ってないから、お腹が空いたな」
お腹辺りを摩りながら溜め息を吐いて呟く。
そんなことよりさっきから騒がしくて少々イラッとくるのを我慢して、その騒がしさの元凶の場所まで行く。その場所はというと職員用の食堂だった、陰音のお腹の虫が今にも大暴れしそうな場所だ。
「お姉ちゃんの意地悪! 何で起こしてくれなかったの、酷いよ」
「あのねえ、アイツは止めといた方が良いのよ、特に千遙……アンタはね。それに仕事のことで呼んだだけ、ただの小学生——いやもう中学生か、の口出しは殆ど無意味よ」
「それはイン君も同じだよっ!」
「同じじゃない。アイツはもう小学生でも、ましてや中学生でもない。もうそんな生温い人間じゃない、むしろ冷徹……いや冷酷な奴だってことを私はアンタ以上に知ってる。嘘は言ってないよ、あとお願いだからもうアイツには近付かないで。じゃ、もう戻るから」
陰音が凄く出て行き辛い雰囲気を醸し出しながら依友は千遙と話している。
ひとまず陰音は隠れようとするが、ここは凹凸の少ない通路のど真ん中である、こんな所に隠れる所なんて在るわけがない。そうしている間に、依友はこちらへ向かって来て結局陰音は隠れ損ね、見つかってしまう。
依友は「————っ!」と言葉にならない声を発し、目を見開いて驚くとすぐにいつも通りに戻して陰音の方へと来る。
「嫌な趣味をお持ちだね、いや今に始まったことじゃないか」
依友は立ち止まって陰音の服装を流し見する。
「良いのか? 妹をあのままにしといて」
「良いのよ、どうせ今のあの子には私の言葉は届かないし。勝手にさせるしかないでしょ、あと妹に手を出さないでよ」
「まあ俺が出て行って、何が出来るわけでもなしな」
フン、とそっぽ向いて依友はモニタリング室へ戻っていくので陰音も付いていく。モニタリング室へ入ると今は前には置いて無かった、旧式の電子機器などが山のようになっている。
「これで処理物は終わりだから、もう当分会うこともないわね」
「言ってくれるなあ、でも俺もこれっきりにするから、こんな感じでは会えなくはなるな。と言うよりも、これからは俺から会わないようにするから。えっとじゃあ、これ全部で六万八千円って所かな」
「ン、それってまさか……」
依友は上からの命令かどうかを訊いているのだろう。何という勘の良い勘繰り深さだ、まあ陰音という人物の関係者なら、わかっても当然のことでもあるかも知れないが。
すると依友は自然な動作で財布から現金十万円を取り出し、眼前に差し出してくる。
「…………」
「餞別だからお釣はいらないわよ」
「わかった、それならありがたく貰っとく。あとで業者を呼んでおくから、俺はもう帰る」
そう言って陰音は研究所から立ち去る。
依友は何も言うこともなく椅子に座り、一呼吸置いてから仕事を始めた。
陰音は家路を一人歩いていると家まで後半分くらいに差し掛かった辺りで人込みはない、というよりここは普段使われていない場所だから人が通るわけがない、ただ一人を除いて。
目の前から陰音よりやや高めの背丈をした学制服を着た少年が走り寄ってくる。
「あ、やっと見つけた……今日は学校があるから早く帰って来てって言ったよね、僕」
「すまん、大河。急な用事が入って、連絡すんの忘れてたわ」
「今日何の日か知ってる? 兄貴の入学式だよ、初日からこんなことでどうするの、もうしっかりしてよ」
「あー、そういえば……今日入学式だったかもな。じゃあ着替えて来るわ、流石にこの服装じゃダメだと思うし」
「当たり前だよ、兄貴——っ!」
とツッコミを入れてくるこの少年は、陰音の弟で名は有栖大河と言う。プチ情報として一年違いの同じ誕生日である、さすがに時間までは違うが。
今日が入学式だということを素で忘れていた陰音は、今日が始業式で晴れて小学六年生になる大河に、説教じみた態度をしてきたという構図だ。しっかりしている人はなんぞや、と問われたら真っ先に大河だ、と陰音は答えるだろう。
そんなわけで足早に家へ帰ると、中学校の制服を身に纏う。
これから陰音が足繁く通う中学校は、男子生徒が学ラン、女子生徒はセーラー服という決まりは少し前に廃止されている学校だ。一応男子生徒がセーラー服にスカートという元女子生徒用の服装も今日から通う中学校は許されているが、忌避の眼を向けられるのは否めない。
元々は女子生徒が学ランを着たい、という要望が在ったからで、ならいっそのこと男子生徒もセーラー服を解禁した方が公平だろう、ということで現在は治まっている。——が、男子生徒にとっては、非常にメリットのないルールだと思われる。
だって男子生徒がセーラー服(ズボンとスカートが選択出来るのだが、特にスカート)の場合、恥ずかしいことこの上ない上に先刻記した通り、忌避の眼で観られるだろう。つまり悪趣味な罰ゲーム、もしくは虐めに遭っている様なものだ、と言わざるを得ない。
スカートのセーラー服に陰音が着替え終えるとクロックは午前七時四十分を示している。しっかりと腰の所に巻き付けているホルスターに拳銃を二挺滞納し、大河が用意して置いてくれていた鞄を持ち、玄関まで行く。
すると玄関まで呼びに来た大河が、兄貴は何でそうゆう人種になったんだよ、と心の中で無意味に打拉がれて遅いよ、と端的に告げて先に外へ出る。
「兄貴、初日から遅刻なんてなったら許さないから。覚悟してなよ」
いつもよりドスを利かせて大河は告げる。それが久々な感じだっただけに、陰音は少しだけたじろいでしまう。そんなこんなで自転車の座席に座込み、後ろの荷台に大河が座る。
大河が通っている小学校は行きの下り坂に面しているので、あまり苦にならないのだ。下り坂の中程まで来ると大河が陰音の右肩を叩く、これはもう降ろして、の合図だろう。速やかに陰音は自転車を道路の端に停車させる。
「まだ学校まで少し距離あるけどここで良いのか?」
「うん、ここで良い。さ、早く学校へ行って、ただでさえ遅れそうなんだから」
大河は本心の兄貴と一緒になんてただでさえ恥ずかしいのに、こんな格好している兄貴とは絶対に嫌だ、とは流石に言えないので心の中にそっとしまい込む。
そして作り笑いの笑顔を浮かべながら、大河は陰音を軽く流すことしかできない。
その大河の葛藤を知ってか知らずか、陰音は自転車で下り坂を走抜けていった。
大河と別れてから中学校の敷地内に入ったのは、あれから十数分経ってのことだ。
自転車を学年別の駐輪場に停めて、玄関口に拵えてあるクラス分け一覧表を眺める。陰音のクラスは二組の三番。今年は二組も在るのか、と陰音は少し驚く。それも無理からぬことだ、去年や一昨年は一クラスで、ここの所は一組三十人の所を十人に分けてクラスを三組程度にするのがここら界隈での通例だったはずだ。
それがこの学校では違うのだ、三十人弱という一般的な振り分けで二組もあるからである。まあそれはさておきだ、予令が鳴ったので急いで二組に向かう。教室へ入ると適当に設えられた席に座り、机脇の掛けノブに鞄を掛ける。さっきから男子生徒の視線が少しばかり多いのは気のせいではあるまい、辺りを見渡すと男子生徒の二、三人には絶対に目が合うのだ。
スカートのポケットに入れているクリプトフォンを取出して文書アプリを起動し、ネットで落したWEB作家の小説を読む。作品は全て無料の投稿サイトのものだ。まあ単純に買えば良い話しなのだが、書籍化した小説のWEB版というのは稀少価値が高かったりする。その中で気に入った物だけを買っても罰は当るまい。
すると隣人から声が掛けられ、陰音は携帯端末のディスプレイから目を離し、少しばかり声の主の方へ顔を向け、素っ気なく端緒に対応する。
「いまどき旧式を使ってるから、何でかなって思ってさー」
「ん? ああ……コレのこと、ただの手慰み。今は何だってホライズだし」
そう言って陰音は軽く流すが、違法アプリ満載のその携帯端末には電話とメール、インターネットは勿論のこと、クラッキングなどのアプリも完備されている。それにも関らず何処が手慰み程度な物か、と陰音は思うと心中で笑ってしまう。
だが、そんなことをこの女子生徒は知る由もない。
「ま、それもそうか。でもそれって依存症的な何か? ——って、私はこんなことを言いに来たんじゃないんだ。え~っと、可愛いから気を付けておいた方が良いよ、って忠告しに来たんだ。さっきから男子があなたばっかり見てるしさ。じゃあ私はこの辺で」
女子生徒は言いたい放題言うと、自身の席へ戻っていく、ちなみに今は中央の最後尾だ。
「……何だったんだ、アイツは」と不思議に思いながら陰音は呟く。
しばらくして担当教諭だと思われる男性が、静に教室へ入って来た。
教卓まで歩いて制止すると「着席して私語を止めろ」と芯のある軽い声で言ってコホンとわざと咳払いをし、後の言葉を繋げる。
「今日は入学式の後に部活動の紹介があるから、興味のある者は参加すると良い。原則的に部活動の強制が無いので、各々の判断に任せる。それから関与のないこととは思うが、最近は失踪や殺人事件……また麻薬問題など、何かと物騒なことが浮上して来ているので、くれぐれも登下校などは注意するように、以上」
担当教諭はそう連絡をすると教室から出ていき、生徒たちはまた各々の好きなように友達とわいわいがやがやと戯れている。
そんな中、一人で誰とも関ろうともしない陰音は間違いなくハブられキャラの道を歩んでいると言って良いだろう。だがしかしそんなことは陰音からすれば杞憂なことだ。こっちでの人脈があろうがあるまいが、さして問題がなかったのだ。それ故に陰音から友達を求めることはまず有り得ない。
陰音が一人で何もしないで居るのが気になったのか女子生徒の二、三人が話し掛けてくる。最初は「ねえ、どこの小学だったの?」と中央の女子生徒。次に「名前は何て言うの?」と右隣の女子生徒。最後に「…………」と左隣にいる黙視してくるだけの女子生徒。
「俺は一応、紘渡小の出身で名前は……有栖、陰音」
クリプトフォンのディスプレイに眼を落したまま陰音は端的に応え、女子生徒たちの反応からして勘違いするだろうな、とは思ったが間違われて特に困ることはないので、無視しておくことにしようと思う。
「ありすいん? 変わった苗字だね。私は二伊野小出身で栗坂夏希、よろしくね」
「あたしは行藤自由ね。庄賀茂小出身、よろ~。それと……」
「ぉお、同じく庄賀茂小、高梁夜宵。……よろしく、です」
すると唐突に夜宵は陰音の耳許まで近寄り「あと有栖くん。否定は明確にしないと、後々面倒なことになります、よ」と囁く。そして夜宵はすぐに夏希の隣まで戻る、何と凄まじい連携プレイなんだ、と陰音は思わず感歎してしまう。
そのことよりも、初見で陰音のことを察知した夜宵に、正直驚くしか出来ない。
その的確な指摘に陰音も同感なので、やはり早めに誤解を解くことにする。
「俺は男だ……それに姓は有栖だけ。高梁さんは判っていたみたいだが」
「「えぇぇ~、全っ然見えない」」
すると夏希と自由の二人は陰音の身体を少しの間凝視し、髪の毛を触ったり素肌を摩って来たりする。そのスキンシップに耐え兼ねた陰音は、夜宵に助けを求めた。——が、その想い空しくも、私にはどうすることも出来ないです、と夜宵は訴えている様だった。
「なにこの黒髪、サラサラしてる」とか「お肌もスベスベ、羨ましい」や「女の敵」的なことなどを宣ってくる失礼極まりない女子二人(主に自由)。一頻り触り終え、満足したのか「良いものをお持ちで」「ごっちゃんです」などと言い、二人は夜宵の隣へと戻る。
そして態とらしく咳払いを吐き、夏希は仕切り直しを図る。
「そう言えば、部活動何にするか決めた?」
「いや、入るつもりはない」
「そうなんだー、何か色々勿体ない気がするけど」
「悪いけど今日は用事があるから、部活紹介には出ないけど」
「あ、塾とか? あたし達も通っていんだよねー」
そう自由が渋面な表情になりながら言うと、三人は顔を見合せる。
「私たちは今日が塾の始まる時期ですし」
「そうそう、塾が始まるんだよ。あぁ、地獄だ~」
「み、自由ちゃんは真面目に講義を聞いた方が……そしたら提出課題も、少しは減ると思う」
的確な夜宵の指摘に「うへ~、それだけは勘弁して欲しいな~」と自由は言い、テンションがみるみる低下していく。
すると突然に教室に効果音が鳴り、アナウンスが流れる。
『男女に分かれた後、体育館のレクリエーションルームにて待機してください……全新入生が揃い準備が完了次第入学式を開始します。尚、案内には各担当教諭が向かうので少々お待ちください、その後は担当教諭の指示に従って行動してください』
アナウンスが流れ終え、数分後には担当教諭が教室へ来て指示通り移動を開始した。
レクリエーションルームには約六十人もの新入生が待っている、教諭達はホライズで連絡を取り合っている。もうそろそろ始まるのだろう、担当教諭は閉じていたレクリエーションルームの扉を開放し、新入生の一組を第一体育室の扉の前で入場準備させる。そして新入生達が一組から順にレクリエーションルームから出て行くと、二組も出席番号順に一列で整列し、一組の後に付いていく。
さながら大名行列のようだな、と思ってしまう感じだ、規模は小さいものだけれど。
けたたましい行進曲の音響と共に、一組の教諭が先陣を切る。それに続け、とばかりに一組の新入生徒達は入場していく。
後列の折畳式座椅子の左側に二年生、右側に三年生が座っており、前列の左斜め前には御来賓の方々と右斜め前に教職員勢、そしてその両脇には保護者の皆様が腰を下ろしている。
二、三年生の中間に開けられた通路を通り、前列の左側から一組の生徒で埋まっていく。またそれに続くように、二組も担当教諭を筆頭にして折畳式座椅子へ腰を下ろしていく。
——————こうして陰音の面倒な中学生生活は始まったのだった。
恙無く入学式は終わり、新入生はそのまま教室に戻ると帰りの会(HR)をして各自解散だ。
その後に部活紹介へ行く者は、このクラスでは二十人と過半数を占めていた。
これは部活動という名の青春の汗が恋しいものばかりだからだろう、それに内申書の記入欄の問題もある、今も昔もそれほど変わらないということだろう。
放課後の現在、夏希たちと別れを告げて帰路に就いて数分ぐらい経っただろうか。いきなり携帯端末の着信音が奏でられる、液晶画面を確認すると秘匿回線のようだ、こういった回線で掛けてくる相手と言うのは限られてくる。そうこの俺を棄てた政府とかがその一つに該当する。あの時の番号は変えているにも関わらず、向こうからの連絡は掛かってくる。誰かがリークしているのかは明白で、その犯人も何となくはわかっている。
陰音は通話ボタンをタッチして携帯端末を耳元まで持ってくる。
「ハロハロ、イン君コンニチハ、元気ニシテタカイ?」
「ああ……アンタか、ミス・サイエンティストの天災なる天才の歪質者、遠野椛」
椛が変な声で話し掛けて来たので、極力面倒臭そうに応える。
「それより早く来ないから怒ってたよ、まあ誰とは言わないけど」
「こんなのがあのホライザーを開拓した奴なんて信じたくなくなるよ、いっそのこと廃止になれば良いのに。あと今からそっちに向うから、三十分くらいあったら着くって伝えとけ、じゃあな」
陰音が通話を閉じようとした時、椛の「ちょっと待ッタ!」の声が聞こえて来て「何だよ、もう用はないだろ……」と、陰音は溜め息を吐いてから怠そうに言う。いや、実際に怠いのだが、それを口にする程のことでもない。
「それがあるんだよね~。要件は着いてから話すよ、だから後でラボに来て」
「わかったよ、行きゃあいんだろ行きゃあ。じゃあ今度こそ切るからな」
ばいにゃらほいほい、という挨拶か何かをして来たが、気にせずに通話を閉じる。
そして自転車を走らせること二十数分。目的地の電子機器製造量販会社〝EXCIL〟という会社に到着した。白鴉が社長をしている所であり、椛の勤務先でもある。名前は売れているのに本社は小規模、という不思議な会社だ。小脇の職員用の駐車場に自転車を適当に駐輪させると、職員用の裏口エントランスホールから入社し、受付を済ませ社長室へと向かう。
社長室にはここの職員ではないことが明白な、麻黒い髪をした中年の男性がそこにはいた。
「遅かったね、話はもう終わったよ。最後のまとめだけでも聞くと良い」
ホロウィンドウを可視化させ、白鴉は視界一面に展開する。最後のまとめを始めようとしていた白鴉は、変な空気を察して顔を上げ、陰音と中年男性の相貌を交互に見る。
「ん? ああ……紹介するよ、彼は有名な研究チーム〝SoP〟の研究員で槙枝柾孝。今回の依頼人、キハナ君とは入違えにソープに入った人物だよ」
「ご紹介に与りました〝Science of Philosophy〟の研究員、槙枝柾孝……よろしく」
「はあ、こちらこそ。俺の名前は——」
白鴉は首を左右に振ると「いや君は名乗らなくていい。今回この依頼を請けるのは君じゃないだろう」と陰音を制し、仕切りなおす様に咳払いをする。
「今回の依頼内容は極秘データの削除、とその極秘データに汚染された者の破壊。前払いの報酬金額は二百万、これは成功報酬も兼ねての金額だから後払いはなし——後は僕達の動きだけど、まず奪取日が二〇二五年四月三日(木)の早期発見ってこともあるし、標的はこの界隈にまだ潜伏しているはずだしね。その従者である汚染者と支配者を捜して極秘データの奪還、あるいは完全削除するのが、現状における流れ的に最善手かな」
一呼吸休み、白鴉は資料から目を離して視線を槙枝へ向ける。
「現時点での計画はこんなもんかな」
「現時点で依頼成功率はどのくらいですか?」
「まだ何とも言えないね、ターゲットがどのくらい手強いのかが解らない現状だしね。依頼を聞いた限りでの成功確率は、六~七割くらいあったら良いほうかな。もう少し詳細なことが解れば上がるかも知れないけど」
「そうですか、ならお願いします……報酬の方は前払いでしたね、後日渡しに来ます」
「お任せください、ウチの社員は優秀ですから」
営業スマイルでクライアントを帰すと陰音の方へ向き直り、笑顔は跡形もなく消え、真剣な社長の面構えになっている。——いや、この場合は情報屋の面構え、と言うべきか。
「まあ、さっきの依頼内容は麻薬の所持している集団の捜索及び、警察に突出すことだね」
「ドラッグ関連か、犯人の特徴などの詳細なデータとドラッグの性質は解っているのか?」
「ドラッグの詳細なデータとアバウトな犯人の情報はクライアントから貰ってはいるよ、見てみるかい? きっと驚くよ」
そう言うと白鴉は苦笑しながら肩を竦め、資料を渡して来る。
* 被験データ〝High Insane Might Extra Unlimited Lord〟 (略称:HIMEUL)
* 被験者には並々ならぬ身体能力の向上が視られ、身体能力の向上に関して、本来は身体にあるはずの身体リミッターが著しく欠如しているものと推測される。
* 投与直後や興奮、憤怒状態などになるとオーヴァードライヴ状態になる恐れが十分にある。するとその被験者は力制御が著しく低下。最悪の場合は脳細胞が融解して死に至る(殆どの被験者がこれに該当)。
* 衝動的現象には殺害衝動があり、その際の意識状態は確保されておらず、一定の条件を満たした被験者のみ、意識が確立していることが判明。その条件は要研究とするが、現時点での共通見解は個々其々に差異があると推測される。
* ——以降発症のものは要研究とする。
* 被験者数539名 生存者数36人中、意識不明者数29名 候補者数7名 死者数503名。
* 記入日2023年11月28日(火) プロジェクト凍結日2023年11月付(隔年末)。
これは電子ドラッグの詳細な記述、というよりは研究レポートといった方が正しいだろう。
「おい。これ研究レポートな上、途中で凍結されてる。これじゃ参考にしかならん。それにアバウト過ぎて犯人情報も、あまり使えそうにない。こんなので本当に完遂できるのか?」
「大丈夫だよ、ウチには君以外にも優秀なスタッフはいるからさ。取敢えずはこの研究資料のソースとか諸々探ってみるしかないから、君の出番はまだということになるね。君さえ良ければ、洗うのを手伝ってくれると助かるんだけどね」
「お断りだ。ところで俺への報酬はどのくらいなんだ?」
「取敢えず報酬の半分くらいかな。今回は赤字になりそうけど君へ投資を作るのも悪くない」
「わかった、それなら引請けよう。ま、それは良いけど、これ想像以上にきな臭い話だ。レイヴンの奴らが絡んで来るんじゃないだろうな? もしそうなれば俺はこの件から降りるぞ」
「そうなったら仕方ないね。まあ早期解決に期待しているよ、ホント」
「————諒解(Willing)。また明日、クビを洗って待ってな」
乱暴に扉を閉め、陰音は退室していった。