95の話~宵闇の一番星~
騎士団から上がってきた報告書を片手に、ヴィンチェンツォは苦々しい顔を崩さなかった。
諦めたように報告書を机に放り出し、宰相閣下は一言、「汚すぎて何が書いてあるのか、わからん」と言った。
「仕方ないだろ、これでも一生懸命、ランベルトが書いたんだから」
ロメオがその汚すぎる書類を手に取り、「最初から僕が書けばよかったな」と呟く。
「ステラはどうした。忙しいのか」
通常であれば、ステラが一字一句乱れぬ筆で、かつ簡潔な内容にまとめてあるはずであった。
しかしながら、今日よこされた書類には、その全てが欠けていた。
「えーと、そうだね。ちょっと」
言葉を濁し、ロメオがうす笑いを浮かべる。
何かを隠している、と感づいたヴィンチェンツォであったが、深く問い詰める必要もないだろう、とそのまま流すことにした。
「もう一度やり直し」
ええっ、と焦ったような声を出し、ロメオが異を唱えた。
「それなら、ロッカに頼めばいいじゃないか。内容は、あいつが一番わかってるだろ」
「ロッカは芸術の秋だ。今は何を言っても、聞いてくれない」
「まさかお前らまで、喧嘩でもしてるの」
「お前らまで、とはどういう意味だ。俺たちはいたって平穏に過ごしているが」
「えーと、行き違いというか、なんというか」
知らず知らずに冷や汗をかき、ロメオはもごもごと口ごもった。
「ステラのことか」
ヴィンチェンツォの冷たい瞳が、一層寒々しい光を放っているように見える。
「それは僕の口からは、とても言えないな。知りたかったら、団長に聞くといいんじゃないの」
だからそれはどういう意味だ、と尋ねるヴィンチェンツォに答えず、ロメオは「じゃあね」と慌てて部屋を飛び出していった。
***
「ロッカはいるか」
「はい、今日も朝早くから地下に篭ってますよ。あの子、変わってますわね」
入り口で掃除をしていたアデルが手を止め、宰相閣下に挨拶をする。
そうだな、とヴィンチェンツォは呟き、地下の礼拝堂に向かっていった。
廊下で背の高い修道女とすれ違い、ややあってからヴィンチェンツォは、怪訝そうにその後姿を凝視していた。
「あれはなんだ」
「…少しわかりづらいですが、ステラです」
「変装の練習でもしているのか」
「彼女は真面目に修道女をやっておりますよ。素質があるかどうかは、別ですけど」
数日、騎士団で彼女の姿を見かけない理由がようやくわかり、ヴィンチェンツォは小声でアデルにささやく。
「彼女に言ってやってくれ。さっさと騎士団に帰って使えない馬鹿共を教育してこいと」
「ですから、彼女は修道女だと申しているではありませんか。…見習いですけど」
どういうことだ、と困惑した表情になるヴィンチェンツォに、アデルが小声で囁いた。
「正直、私達も面食らっておりますの。一時の感情で、世を捨てる必要もないと思うんですけどねえ。まだお若いし、あんなにお綺麗なのに」
眉をひそめ、アデルが困り果てた様子でヴィンチェンツォに同意を求める。
「それは、騎士廃業ということか」
「そういうことになりますね、彼女いわく」
アデルと同じように眉間に皺を寄せ、ヴィンチェンツォは唸っている。
「どうしてこうなった」
「詳しくは知りませんが、ロメオの話では、バスカーレ様と絶縁状態にあるらしいです」
なるほど、とヴィンチェンツォは言うと、腕組みしたまま壁に寄りかかった。
「こう申してはなんですが、彼女は騎士が天職だと思いますの。ヴィンス様から、騎士団に戻るように説得していただけませんか」
天を仰ぎ見るヴィンチェンツォの返事は、いつになく歯切れが悪かった。
「原因が団長となると、俺の手には負えない」
***
「俺のような若輩が言うことではありませんが」
間を置いた後、ヴィンチェンツォは麦酒を一口含み、喉を湿らせる。
「彼女を推薦したのは俺ですから、多少責任は感じています」
バスカーレは押し黙ったまま、手元に置いた特大のゴブレットを睨み付け、微動だにしない。
結局アデルに押し切られ、渋々バスカーレをいつもの食堂に呼び出したものの、深く突っ込んで聞き出すことも出来ず、ヴィンチェンツォは何故俺がこんな役目を、と途方に暮れていた。
団長は何も語らず、時折麦酒を喉に流し込むのみである。
少し離れたテーブルでは、野次馬が固唾を飲んで、二人の様子をうかがっている。
「ステラが柄にもなく、無理な注文をしてくるからいかんのだ。俺は、それだけは飲めない」
ようやくバスカーレは重い口を開き、そして再び黙り込んでしまった。
「ステラは、団長に振られたからやけになってるんだよね、ようするに」
野次馬の中から、確信をついた言葉が飛び出し、思わず団長は恫喝するような視線を送る。
野次馬の一人が肩をすくめ、「熊が怒ってるよ」と周囲にささやいた。
「よいではありませんか。アンジェラもそれは彼女を慕っているし、一緒にいると母子のようですよ。別に結婚したからとて家庭に入るのが前提ではありませんし。ほら、あちらの奥方など、結婚前とまるで変わりがない。変わりがなさ過ぎて、少々ご主人を不憫に思う時もありますがね」
何かおっしゃいましたか、と大声を上げる女性を無視して、ヴィンチェンツォは麦酒をごくごくと飲んでいた。
「彼女は、若すぎる。ろくに青春を謳歌せず、いきなり子持ちになってしまっては、可哀相ではないか」
弱々しく呟くバスカーレに、宰相閣下は途端に人の悪い顔をして、幾分こちらに好機あり、とみる。
「ならば、ステラが姉の年くらいになってもまだ一人身であれば、お考えになる可能性はあると?」
バスカーレは静かに首を振り、きっぱりと言い切った。
「俺は一度失敗しているからな。マグダのように、若いうちに世間を知らずに結婚してしまうと、後々後悔するのは目に見えている」
「大丈夫ですって。ステラは子どもの頃から、団長ひとすじですから」
とあるご主人が、にこにこしながらこちらに向かって叫ぶ。
「それは違う。彼女は勘違いしているだけだ」
むきになって否定するバスカーレを、一同は残念そうに眺めている。
「いずれにせよ、後任が必要であれば、さっさと決めてください。新しい人材の補充は出来ませんから、あの中から適当に見繕ってくださいよ」
何それ、冷たい、と野次馬達が騒ぎ出すが、ヴィンチェンツォはいつもの冷静な表情に戻っていた。
「正直、俺は団長達のことはどうでもよい。お前らがきちんと仕事をしてくれれば、わざわざこんな話を持ち出す必要もなかった」
責任転嫁ね、と若妻が抗議の声を上げるが、ヴィンチェンツォは一貫して無視し続けることに決めた。
すまないな、と大きな肩を丸め、バスカーレがゆっくりと立ち上がる。
直立不動で頭を下げるヴィンチェンツォの肩を叩き、バスカーレが階下に下りていった。
「お前ら、何しにきた。しかも人の金で飲み放題、いいご身分だな」
疲れた体を椅子に沈め、残りの麦酒を一気飲みする宰相閣下であった。
「お前みたいなお金持ちがお金使わなくてどうするんだよ。わかってないな」
やれやれと呟くと、ヴィンチェンツォはおかわりを貰うのをやめ、店の天井を眺めていた。
「団長、少しは前向きに考えてくれるといいんだけどな」
「あの様子では相当、前回の失敗が堪えてらっしゃるみたいね」
「男は引きずるんだよ、仕方ないだろ」
口々に好き勝手な意見を述べる野次馬達の声をぼんやりと聞きながら、ヴィンチェンツォは緩慢な動作で立ち上がり、帰宅することに決めた。
「普段使い慣れない気遣いで、俺も疲れた。先に帰る。追加分は自腹を切れ」
***
その日もステラは、早朝のお勤めをビアンカ達と共に終え、礼拝所の清掃に勤しんでいた。
いつものようにロッカが現れ、「おはようございます」と言うと当然のように地下へ降りていった。
やがて何かを砕くような鋭い音が、地下から響きはじめ、窓拭きをしているステラの耳に入ってくる。
窓の外には、警備の引継ぎをしている若い騎士見習い達の姿があった。
思わずその手を止め、副団長の顔になって彼らを観察している自分に気付き、ステラは慌てて窓拭きに戻る。
自分にはもう関係のないこと、と自然に険しくなる顔を何度が叩く。
「その様子では、奴等が気になって仕方がないといったところか。今日は少々、交代の時間が遅れているようだな」
ステラは驚いて、その声の持ち主の姿を振り返った。
ステラは黙ったまま、わずかに頭を下げ、下を向いた。
バスカーレは、うつむいたまま両手で雑巾を固く握り締めているステラを、正面から見据えていた。
「あちこちから、処理が穴だらけだと苦情が来るのだ。そういうわけだ、早く戻ってきなさい」
無理です、とステラは低い声で答え、一層固く両手を握り締める。
「今までと同じように、騎士団にいることはできませぬ。お許し下さい。その代わり、私はここで修道女としてビアンカ様を守り、一生を過ごすことに決めました」
わずかにバスカーレの顔が痙攣するのを、遠くで隠れるように見守っていたランベルト達が気付き、頑張れ、と小声で呟く。
「だから何故そのような考え方になるのか、俺には理解できん。お前はもう少し賢いと思っていたが、俺の見込み違いか」
「修道女の何がいけないのです」
「そうではない、そのようなつまらんことで意地を張る女だと思っていなかっただけだと言っている」
苛立ったようにバスカーレが吐き捨て、今度はステラの眉がかすかにぴくりと動いた。
「私の精一杯の気持ちを、あなたはつまらないことだとおっしゃる。それならばそれで結構、金輪際、あなたを煩わせるつもりはございません」
本当にくだらん、とバスカーレがとうとう声を荒げる。
「これだから女の騎士は反対だったのだ。女は情が絡むと、仕事がやり辛くなることこの上ない。お前も所詮、その程度か。興醒めだ」
団長は、言ってはいけないことを言ってしまったようだ、とランベルト達の顔から、一気に血の気が引いていった。
「今、何とおっしゃった」
切れ長の瞳を更に吊上げ、ステラが鋭い声を投げかける。
「いつまでも女の腐ったような態度でうじうじと、情けないと思わないのか。そもそもお前は、己の立場をわかっているのか。副団長たる者のすべき行動ではないな、あまりにも短絡的過ぎる。これだから女は」
「自分が未熟なのはわかっております。ですが」
震える声を抑えて、ステラがバスカーレを睨み付ける。
「今までの私を否定するようなお言葉は、捨て置けませぬ。自分なりに精一杯、女であることを忘れ、お仕えしてきたつもりでございます」
「馬鹿か、お前は」
ステラの言葉をさえぎり、バスカーレは怒りを全身にみなぎらせていた。
「自分の都合で女を使い分けるような未熟者に用はない。だいたい個人評価など、他人がすることであって、自分自身でするものではない。もういい、お前はくびだ。後任は…当分ロメオに任せる。いいな、すぐに詰所に戻れ」
ランベルトの後ろに隠れていたロメオが、びくりと体を震わせる。
本当に、と驚いたようにランベルトが振り返りつつ、ロメオのぽかんとした顔を眺めていた。
その間抜けた顔も、一瞬で元の飄々とした顔に戻る。
「…了解。それが一番いいのかもね、ステラにとっても、僕にとっても。騎士団の規則とか、腑に落ちないところがいっぱいあったから、やり易く変えさせてもらういい機会だ」
ちょっと、とロメオの袖を引っ張るランベルトを無造作に振り切り、ロメオは続ける。
「くだらないんだよ。どうでもいい堅苦しい規則ばっかりで、あれじゃ騎士団全体の士気も落ちるよね。世間知らずのお嬢さん同士、仲良く傷の舐め合いでもしてればいいよ。それじゃあね」
「ちょっと待て。聞き捨てならんな。お前、誰の話をしている」
「君とビアンカだよ。都合が悪くなると、そうやって逃げるんだ。だから女は駄目だっていうの、僕は大いに同意するね。答えは一つじゃないし、いくらだってやり方があるんだよ。それを馬鹿みたいに重く受け止めて、話をややこしくしてるだけじゃないの」
貴様、と激高して思わず腰に手をやるステラだったが、帯刀していないことに気付き、焦りを含んだ表情でロメオを睨むのが精一杯だった。
ロメオは、そんなステラの様子をあざ笑うかのように、にやりと笑うと、憮然とした表情で荒々しく立ち去って行くバスカーレの後を追った。
ランベルトはおろおろと、両者をうかがいつつ、そして壁に溶け込むように佇んでいたビアンカの姿を発見した。
「えーーと、ロメオは、悪気があって言ったんじゃないと思う。…いや、わかんないけど、あんまり気にしない方が」
わかっています、とビアンカは静かに答え、バスカーレ達を追って出口に向かっていった。
強く唇をかみ締めて何度も大きな呼吸を繰り返しているステラに一度視線を向け、ランベルトもその場を静かに離れていく。
「バスカーレ様、お待ち下さい。お話が」
バスカーレはビアンカの声を聞き、ばつの悪そうな顔をして振り返った。
「あなたにも、ご迷惑をおかけした。彼女の監督者として、自分も未熟でございました。お詫びのしようがない」
「いいのです、ですが、ステラ様の処分に関しては、少々お待ちいただけませんか」
「いまだに、心の整理がつかないようですし、それまでは私達でお預かりします。ですが、ステラ様の帰る場所を残してあげてください。ステラ様のお言葉は、本心からではありません。あの方はいつだって、心は騎士です」
すっかり聖女きどりだね、とロメオが呟く。
遠くから全速力で走ってきたアデルが、力いっぱいロメオの後頭部を殴りつけた。
「助走付きは酷くない?すごい痛いんだけど」
頭を抱えて座り込むロメオを、更に蹴りつけようとするアデルを、慌ててビアンカが押しとどめる。
「あんた、さっきから何なのよ。わかってたけど、とことん性格悪いわよね。私達に喧嘩売りに来るなら、もうここには来ないでくださる?」
痛いな、と頭を撫でながら立ち上がり、ロメオは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「そうだね、うまく当番組みなおせば、わざわざ僕がこんな陰気くさい所に来る必要もないよね。詰所に帰れば、若くて可愛い女の子達が優しくしてくれるし。楽しみだなあ、副団長」
最低、と言い捨てるアデルを、おかしそうにロメオは眺めている。
「何が悪いんだよ。君だって、自分の都合で僕を振り回してばかりで、もううんざりなんだよね。今日の出来事は、ものすごく勉強になったよ。いろいろと」
動揺するアデルを残して、ロメオは急ぎ足で遠ざかっていった。
バスカーレは女性二人に丁寧に頭を下げ、ロメオの後に続く。
枯れた芝生を踏みしめながら、ランベルトが静かにビアンカ達に近づいてきた。
「何度も言うけど、あんまり気にしない方がいいよ。どっちも意地を張ってるだけだし」
アデルは複雑そうな表情で、ランベルトに言った。
「…ステラは、傷ついているんです。仮にも女性が、勇気を振り絞って告白したのに、あれはいくらなんでも、年上の方が何らかの配慮をすべきでしたわ。騎士だとか、そんなことは抜きにしてです」
「告白っていうけど、俺だってあんな言い方されたら、団長と同じ意見にたどり着くんじゃないでしょうか。アンジェラの為に結婚したいなんて言われて、団長だっていい気分しないのは当たり前じゃないかな」
思わず顔を見合わせるビアンカとアデルに柔らかく微笑み、「じゃあよろしく!」と元気な声を残してランベルトが走り去った。
初めての告白にしては上出来だったけど、と心の中で呟きながら。




