93の話~天使の守護星~
宰相府の一室には、ヴィンチェンツォに呼び出されたコーラーの大使が、緊張した面持ちで椅子の上で小さくなっていた。
前任のフォーレ子爵とは対照的な、中年の冴えない小男であった。
一見使えなさそうな男だが、とヴィンチェンツォは注意深く、落ち着きのない男の様子を観察していた。
「結論として、おたくの役人共を特例として釈放することに決定した。聖誕祭の恩赦だ。ただし、永久に国外追放、ということでよろしいかな」
言葉は柔らかかったが、ヴィンチェンツォの瞳は鋭利な刃物のように、冷たい光を放っていた。
「もちろんでございます。こちらにおわす国王以下、皆様方の寛大なるご処置には、コーラーの国王に代わって、深く御礼を申し上げます」
秋が深まるこの季節にもかかわらず、大使は吹き出る汗を何度もせわしなく拭っていた。
「あなたも、聖誕の儀には是非ご出席ください。今年は久しぶりに、城下の大聖堂で執り行う予定になっていますから」
エドアルドは緊張する大使を労わるかのように、慈愛に満ちた声を出した。
もしや、とためらいながらエドアルドに問いかける大使の目に、一瞬だけ生気が宿ったように見えた。
「ええ、今回はオルドの巫女様のお披露目もありますから。国民に広く知らしめるいい機会です。あなたもご帰国なさったら、彼女の素晴らしさを、是非国王陛下にお伝えください」
エドアルドは人のよい笑顔で、大使に微笑みかける。
ヴィンチェンツォは押し黙ったまま、愛想笑いを浮かべる大使を無表情で眺めていた。
「奇跡というものを、この年で体験するとは思いもしませんでした。私も、巫女様のお姿を拝見するのを、心より待ちわびております」
エドアルドは終始笑顔で、何度もうなずいていた。
ロッカは、対照的な表情で同じ部屋にいる上司二人の姿を、部屋の隅から眺めつつ、やがてその視線を外した。
「あの男、意外と食えないかもしれない。無害を装っているが、巫女の話を聞きだそうと、遠まわしながらも陛下に食いついていた。あれを見張れ」
御意、とロッカは答え、ヴィンチェンツォの後に続く。
二人は執務室に戻り、それぞれの仕事に戻った。
「自分は、いまだに反対です。大聖堂で式典など、ビアンカ様や陛下を狙ってくれといわんばかりではありませんか。危険を冒してまで、彼女を人目にさらす必要はありません」
「意外なことを言う。お前は陛下と同意見なのかと思っていた」
「大聖堂が駄目だと申しているのです。あんな死角だらけの場所で…」
ぶつぶつと呟くロッカを、ヴィンチェンツォは面白い、といった顔で眺めていた。
「それほど気になるのであれば、身代わりでも立てるか」
「それでは意味がありませんよ。後ほど、騎士団との打合せに行って参ります」
ロッカは言い終えると、机の上の書類に手を伸ばし、無言になった。
そんなロッカに、ヴィンチェンツォはじいっとあからさまな視線を送る。
「なんです」
「お茶が飲みたい」
「そろそろご自分でなさったらどうです。今日もエミーリオは来ませんよ」
「じゃあ、どこへ行けばお茶がもらえるんだ」
ロッカはヴィンチェンツォに冷たい視線を浴びせ、穴の空くほど彼の顔を見つめていた。
一から、彼にお茶の淹れ方を伝授するのも、自分と宰相閣下の貴重な時間を無駄にしてしまうだろう、とロッカは悟り、諦めて立ち上がる。
宰相閣下がすべきことは、お茶の淹れ方を習うことではない、とロッカは思い「行って参ります」と静かに言った。
***
ステラ・クレメンティは、自分の頭に落ちてきた燃えるような赤い木の葉をそっと手に取り、すぐ側で子犬のようにはしゃぎまわる少女に声をかける。
「むやみに枯葉に手を突っ込んではいけませんよ。虫に噛まれたら大変です」
アンジェラは、落ち葉をすくい上げては空へと放つのを繰り返す。
「綺麗だね。赤くて、黄色くて。ね、ごろごろしてもいい?気持ち良さそう」
目を輝かせて自分の腕にしがみつくアンジェラの愛らしい姿に、ステラは苦笑していた。
「あまりお洋服を汚しては、またお父上に叱られますよ。今度いらっしゃる時は、汚してもよい格好でおいでなさい」
礼拝堂の外で、少女に落ち葉掃きを邪魔されつつも、笑みを絶やさないビアンカの姿があった。
少し離れた所には、若い騎士が立っており、和やかな風景に心を洗われる思いでいた。
いつもは仏頂面を崩さない鬼の副団長も、子どもと一緒の時は、それは穏やかな笑顔を見せる。
「ステラ様が笑った」
と、ステラの笑顔を見るたび、騎士達がこっそりと報告し合っているのを、ステラは知らない。
あまり刺激のある仕事ではないが、こうしてオルドの巫女と呼ばれる女性の警護につくのを、騎士達は名誉なことだと思っていた。
若い巫女は穏やかな方で、きさくに自分達に話しかけてくれた。
もっとも、あまり親しげな様子を見せると、途端にステラの補佐官であるロメオ・ミネルヴィーノが、皮肉な笑顔で牽制するのであった。
ビアンカの側で、掃除を手伝っていたアデルが、遠くからこちらに向かってくる人影に気付き、怪訝そうな顔をした。
美しい女性が、一点を見つめたまま、自分達に歩み寄ってくる。
肩に垂らした眩しい金色の髪に、ステラも自然と自分の瞳が吸い込まれていくような感覚に陥った。
「申し訳ありませんが、こちらは部外者は立入り禁止となっております。どなたに御用でしょうか」
アデルが、自分の背中にビアンカを隠すよう立ちはだかり、固い口調でその女性に話しかけた。
女性はアデルを無視して、ステラと手を繋いでいるアンジェラを見つめ続けていた。
アデルはむっとした様子で、再び口を開きかけた。
「アンジェラなのね」
アンジェラは、不思議そうにその女性を見つめ、ややあって恥ずかしそうにステラの後ろに隠れてしまった。
「失礼ですが、どちら様でしょう」
アデルはもう一度、金髪の女性に問いかける。
ステラは小声で、「お客様にご挨拶なさい」とアンジェラに言った。
改めて見るとその女性が誰なのか、聞かずともわかるような気がして、ステラはごくりと息を飲んだ。
「マグダと申します。バスカーレ・ブルーノの元妻、と言えば皆さんおわかりでしょう」
女性は自身の潤んだ瞳を拭いつつ、ほんの少し顔を覗かせているアンジェラから、目を離そうとしなかった。
七年前に、生まれたばかりのアンジェラを置いて、バスカーレの元を去っていった女性。
ステラは言葉を飲み、低い声を絞り出す。
「私は副団長のステラ・クレメンティと申します。団長でしたら、新しい詰所においでだと思いますが、ご案内いたしましょうか」
「いいえ、結構よ。彼とはもう、話をしてあるの。アンジェラはこちらにいると聞いて、うかがわせていただきました」
どうしよう、とビアンカは驚きながらも、「それでしたら是非、こちらにおいでください。お茶を淹れましょう。ヴィオレッタ様、お客様をご案内してくださいな」と提案する。
アデルはちらりと女性を眺め、「こちらへどうぞ」と言った。
この女性は好かない。
噂に聞く、バスカーレ様の元悪妻、と心の中で毒づきながら、アデルは礼拝堂へと案内する。
「アンジェラも、お菓子を食べましょう。あの方は、アンジェラとお話したいのですって」
アンジェラはステラを見上げ、「そうなの?」と可愛らしい声で尋ねた。
それまで、ぼうっとしていたステラは、アンジェラの視線に気付き、現実に引き戻された。
「…ええ、とても綺麗な方ですね。お父様がお許しになっているようですし、少しお話されたらいかがでしょう」
私は何を言っているのだろう、とステラは動揺しながら、不安げなアンジェラに微笑んでみせた。
「本当に、団長が同席されなくともよいのでしょうか。あなたがここにいらしたのは、懐かしさに耐えかねて、アンジェラの顔を見る為ではなさそうですね」
「私を責めているように聞こえるのだけど、気のせいかしら」
申し訳ありません、とステラは言葉に詰まり、下を向いた。
こんなふうに、誰かから視線を外すなど、ステラには有り得ないことだった。
「今日まであの子を放っておいて、今更何、って思ってるのでしょう」
ステラは顔を上げ、マグダの美しい顔を正面から見据えた。
「人それぞれに、生き方が違います。私から申し上げることなど、何一つありません。ご気分を害されたのでしたら、謝罪します」
「いいのよ、責められて当然ですもの。ここに来るのも、勇気がいったわ。今もまだ、緊張しているのだけど」
アンジェラは奥の間で、お茶の用意を手伝っていた。
「厚顔無恥っていうのかしら、あの女。今更何しに来たのよ。どれだけバスカーレ様がお苦しみになったか、まるで知らないって顔ね。一緒に逃げた男と、うまくいかなくなって戻ってきたのかしら」
アデルは不機嫌そうに焼き菓子を皿に並べ、アンジェラに手渡した。
アンジェラの姿が見えなくなってから、ビアンカがたしなめるように言った。
「いくら子どもとはいえ、アンジェラの前でお父上のお名前を出したら、それなりに感づいてしまうと思うのです。ですから」
「…そうね、御免なさい」
メイフェアとはまた違う率直さを持ち合わせたアデルである。
メイフェアもアデルも、相変わらずそれぞれに、言いたいことを言って憂さ晴らししている日々であった。
ランベルトに「奥さんです」と紹介され、メイフェアを一目見るなり、アデルは「ランカスター様にそっくり」と驚いていた。
戸惑うメイフェアに、アデルは駆け寄り「旅商人のランカスター様は、時々うちに寄って、小さい私に珍しいお菓子をたくさんくださったのよ」とその手を取った。
その後、二人が意気投合したのは言うまでもない。
似た者同士、気が合わないのではないかとロメオは思っていたが、単にメイフェアが、というか、アデルが二人に増えただけのようにも思えた。
「お菓子をどうぞ」
アンジェラがおずおずと、器に盛った焼き菓子を差し出した。
ありがとう、とマグダは礼を言い、「こちらにお座りになって」と少女に椅子を勧めた。
ステラは無言で、椅子に座るアンジェラを見つめていた。
ややあってから、マグダは静かに口を開いた。
「私は、マグダというの。覚えているはずもないでしょうけど、あなたのお母様よ」
アンジェラは、はっとしたようにその女性を見据えた。
「ほら、あなたにそっくりの、金色の髪。あなたは、私にとてもよく似ているわ。アンジェラ、会いたかった」
涙を流して自分を抱きしめる女性を、アンジェラは大きな目を見開いて、見上げていた。
「おかあさま?」
「そうよ、今まで会いに来れなくて、ごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。あなたを迎えに来たの」
ステラはぼんやりと、その言葉を聞いていた。
何故、今になって。
「もうすぐ、この国も戦になるわ。王都だって、安全かどうかもわからないもの。私と一緒に、異国へ行きましょう。楽しいものが、たくさん待っているわ」
それは、とステラは、ようやく搾り出すような声をもらす。
「団長は了承なさっているのですか。そんなお話、急に言われても、アンジェラだってどうしていいかわからないはず」
「説得してみせるわ。王都にいらっしゃるあなた方が思うより、あちこちで噂になっているのよ。オルドはもう駄目よ。内乱になるのも時間の問題ね。この目で私は見たから、わかるのよ」
「そんなことを、軽々しく仰らないでいただきたい。我らが、全力で阻止します。団長だって、アンジェラを手放したりしません、絶対に」
大声を上げるステラの姿に、ビアンカは驚いて硬直していた。
ビアンカの、トレイを持つ手がぐらりと傾き、アデルが慌てて手を添える。
「この子を守りたいのよ。ここが絶対に安全なんて、私には思えない。今の夫と、いろんな場所を旅しているの。彼も、私に賛同してくれたわ。アンジェラを迎えに行くように勧めてくれたのも、彼なの」
瞳に炎を浮かび上がらせて自分を睨んでいるステラに、マグダは冷静な表情で対峙していた。




