92の話~帝国の王子~
礼拝堂を後にして、ヴィンチェンツォがふいに思い出したように言った。
「あの結界とやらは、どこかで見たことがあると思っていたら、ルゥの本の、挿絵に似ているな。まさかあれ、お前が描いたのか」
はい、とロッカが答え、何食わぬ顔をしている。
「いい小銭稼ぎだな。あの本、売れているのだろう」
「ヴィンスもお読みになっていたとは、知りませんでした」
「…あれは面白い。というか、ルゥの話は好きだ」
憮然とした顔になるヴィンチェンツォを、意外そうにロッカが見つめていた。
カタリナが盲目的に崇拝している某女流作家とは、他ならぬ瑠璃のことであった。
もっともカタリナ自身は、その事実を知らずにいる。
瑠璃が執筆した、魔法使いが活躍する幻想的な話は、王都でも人気があった。
続き、早く出ないかな、と呟くヴィンチェンツォに、ロッカはくすりと笑い「瑠璃様に直接そう申し上げたらいかがです、喜ばれると思いますよ」と言った。
一方、暗闇に放り出された二人組は、いつ終わるともわからない石造りの通路を、ひたすら前に進んでいる。
「急に崩れてきたりしないよな、大丈夫だよな」
弱々しく囁くランベルトは、いつの間にかロメオの制服の裾を握り締めていた。
「何百年もこうして無事にあるんだから、この先もたぶん大丈夫なんじゃないの」
ロメオが突き放すように言い、重いよ、とぼやく。
立ち止まり、ロメオは明かりを高く掲げ、遠くを照らした。
「階段があるよ、出口だよ、気をしっかり持て」
「う、うん。頼むよ。俺はどこまでもあんたについて行くから」
いつもはロメオを小馬鹿にしたような態度しか取らないランベルトであったが、こういう時になると、途端に年下をアピールする。
明かりをランベルトに手渡し、ロメオは階段を軽い足取りで駆け上がり、蓋になっている木の扉を持ち上げた。
鍵なし、ついてる、とロメオは呟き、力いっぱい蓋を押し上げた。
目隠しになっていた蓋の上の大量の土が、ばらばらと音を立てて、ロメオの肩に降り注いだ。
目の前に雲ひとつない青空が広がり、ロメオは穴から這い出すと、しばらく放心したように地面に座り込んでいた。
軽く頭を振り、髪や肩に付着した泥を掃い落とす。
眩しい光に目を細めつつ、暗闇から逃げたい一心で、ランベルトも急いで昇ってきた。
「ここは何処だろう」
小首をかしげ、ランベルトは辺りを見回した。
宰相府の、裏の辺りじゃないかな。ほら、すぐそこに回廊がある」
座り込んだまま、ロメオは石柱の続く回廊を指差した。
宰相府の裏手にある、果樹園の一角らしきところに、二人は出たようだった。
近くにある葡萄の棚を見上げ、ロメオは「そろそろ食べてもいいかな」と言った。
その葡萄棚の下で、こちらを疑り深い顔で見つめる瞳があった。
クライシュと同じような褐色の肌の男と、そして見覚えのあるすみれ色の瞳が、自分達を不思議そうに眺めている。
「変なところで会うわね。お元気?随分泥だらけね」
「…君が王宮に来るなんて、珍しいね。今日は宴会でもあるの」
アデルの隣にいた男が、にやりと笑うと、ロメオのそばに歩み寄ってきた。
「制服姿も、新鮮でいいね。やっぱり、君は男の格好の方がいいな」
座り込むロメオの両腕を掴み、キーファがにやりと笑う。
顔近い、あっち行け変態、とロメオが慌てふためきながら後ずさった。
「命の恩人に、それはないんじゃないのか。酷いな、君の為に、私が手を尽くして逃がしてあげたのに。ご褒美くらいいいだろう」
力いっぱいキーファの顔を押し返し、ロメオは必死で逃げようともがいた。
「それはもうあげただろ!あんなの、こっちは二度と御免だよ!」
何それ、まさかお前、と青ざめるランベルトに、ロメオは完全に我を失い、「違うよ、そんな目で僕を見るな!」と絶叫する。
「あれ以来、キーファ様のお気に入りなのよ。よかったですわね、また会えて」
のんびりと言うアデルに、ロメオは「僕は二度と会いたくなかったんだよ!」と噛み付くように言い返した。
「あの程度で恩を返したとでも思っているのか。こちらは、ヴィオレッタを手放さなきゃならなくなって、ますます君達には貸しが増えたぞ。彼女のぶんも、返せ」
絶叫するロメオを、いつの間にか背後からがっちりと抱きすくめるキーファを、ランベルトが怯えたように眺めていた。
「ちょっと待って。アデルがどうしたって」
荒い息の下で、ロメオが弱々しく声を振り絞る。
「こちらの偉い人のお願いで、彼女を売ることになった。残念だ、君だけでなく、ヴィオレッタまで私から離れていくなど。これは高くつくぞ」
ロメオの白い陶器のような耳に息を吹きかけ、キーファが囁いた。
再びロメオが、背中の毛を逆立てながら絶叫する。
「何事だ。無事に出てきたのはわかったが、お前ら、うるさい。遊んでる暇があるならとっとと報告しろ」
ヴィンス、助けて、と涙目になるロメオを、先ほどまで一緒だった同居人が冷たい眼差しで軽く睨んでいる。
こんにちは、とキーファがそのままの姿で、国王に挨拶した。
「お待たせして申し訳なかった。こちらの果樹園はいかがです。あとでたくさん召し上がってください」
エドアルドは眉一つ動かさず、キーファをにこにこと眺めていた。
「ええ、是非。ついでに彼も同伴してよろしいかな」
全てを悟ったかのように、エドアルドは笑顔で「もちろん」とうなずいた。
いやあああ、と叫ぶロメオを、面白そうにヴィンチェンツォは観察している。
「アデルを売ったとかなんとか、あんた達の仕業?今度は何をさせるのさ」
「ビアンカについてもらうんだ。彼女なら、安心して任せられるからね」
エドアルドは満足そうにうなずき、「お客様をご案内して差し上げなさい」とカタリナに言った。
目を丸くしてキーファを凝視していたカタリナは、うろたえながら「承知しました」と答える。
じゃあ後でね、待ってるから、と素早くロメオの唇に触れ、上機嫌でキーファが歩き出す。
カタリナが何度も目をぱちくりさせ、動揺しながら「こちらへどうぞ」と精一杯言っていた。
その場でクライシュが無言で頭を下げ、キーファは軽く顎を動かしたかのように見えた。
「奥方はお元気か。後ほど、ご挨拶にうかがうつもりだ」
「結構です、来ないでください。瑠璃もあなたに会いたくないでしょうから」
素っ気無くクライシュは言い、真剣な顔でキーファを睨んでいた。
キーファは鼻でふふ、と笑うと、カタリナの後ろを歩き始めた。
おかしそうに自分を眺めているアデルに抱きつき、ロメオはぶるぶると震えていた。
「なんで助けてくれないの。酷いよ、面白がってるだろ!」
うん、とアデルは答え、軽くロメオの金色の髪を撫で付けた。
アデルにしがみついたままのロメオに、ランベルトが恐る恐る尋ねる。
「お前、あの人と何かあったの。ご褒美って…お前、節操ないな」
「違うったら!僕は男なんて…男なんて…」
「あんまりいじめると、壊れちゃうかもよ。深くは聞かないであげてね」
アデルは片目をつぶり、ランベルトに優しく言った。
「相変わらずですね、あの方も。君も大変な男に目をつけられたものです」
クライシュが心の底から同情するように言った。
「あの人、知り合い?同郷っぽいですよね」
ランベルトがクライシュに尋ねると、クライシュは「ええ、まあ」と言った。
「帝国の数いる王子のうちの一人ですよ。こうやって、ふらふらと遊んでいるように見えますが、あちらの密偵です」
「王子様か。だからあんなに偉そうなんだ」
ロメオが怒ったように呟いた。
「彼とは、コーラーで一緒だったのですね。大変だったでしょう、見ればわかります。彼は綺麗な人なら、誰でもいいみたいですし」
クライシュはため息をつき、「やはり瑠璃のところに戻ります。彼は、瑠璃もお気に入りですから。さらわれたら大変です」と言い残すと、足早に礼拝堂へ戻っていった。
とりあえず助かった、とロメオは疲れた顔でぶつぶつと言った。
アデルに抱きついたまま「ビアンカの護衛になるの」と聞く。
「そうなのよ、しばらくは修道女の格好になるわね。あれ、結構楽しいわよ」
のん気だね、とロメオは言うと、ようやく彼女から自分の体を離した。
「でも、そうしたら毎日会えるかな。僕も、ビアンカの護衛なんだよね」
「不純なお付き合いはお断りよ。なんたって、修道女だから」
え、とロメオはその美しい顔を曇らせ、アデルを見た。
「別に本物じゃないんだから、いいだろ」
「駄目よ、しめしが付かないじゃない。こっそり部屋に忍び込んできたら、殺すから」
なんで、と泣きそうな顔になるロメオに、アデルはきっぱりと言った。
「駄目ったら駄目。奥の居住区は、男子禁制なの。その為に、私がいるんだから」
「そういうことだ。お前だけ例外なんて、ヴィンス様が許すはずないだろ。何かあったら、言いつけてやる」
ランベルトがにやにやしながら、アデルに加勢する。
「クライシュ先生はどうなんだよ。好き勝手にあの中をうろうろしてるじゃないか」
「先生は教育係だからいいんだよ。瑠璃ちゃんは奥さんだし」
「…お前も、奥さん待たせたままだろ。早く帰らないと、また怒られるよ」
ロメオは重いため息を一つ吐き、やってられない、とぼやいた。




