90の話~封印~
言葉どおり、その日は日暮れと共に帰宅するヴィンチェンツォだった。
上着を受け取りながら、エミーリオが笑顔で問いかける。
「お早く終わったんですか」
「いや、もう疲れたから帰ってきた。後でロッカが顔を出すと言っていたから、今日はいいんだ」
少し遅れて、ロメオも戻ってきた。
「僕、明日夜勤なんだよね。しかも古い方の詰所なんだけど。やだなあ、仕方ないけど」
誰に命じられるわけでもなく、自然と台所へと足を運ぶロメオである。
エミーリオが礼を言い、二人並んで仲良く食事の支度をしていた。
「そうか、よろしく頼む」
食卓で麦酒を飲み始めたヴィンチェンツォが、ロメオに向けて、くつろいだ様子で穏やかに言った。
「あのまま後宮にいればいいのに。後宮内の警護だったら、基本近衛の仕事だろう。僕らの仕事増えちゃうじゃないか」
台所から、ロメオの大きな声がする。
「本人なりに、けじめをつけたいんだろう。少し不便だが、物事には道理というものがある」
数日前に、ビアンカが王宮内の礼拝堂へ移っていた。
週に一度の、王だけの礼拝か、年に数回の礼拝儀式のみで使用される場所である。
巫女が正教会に属するというのも、あちらと摩擦を生むだろうとのビアンカの意見を取り入れ、エドアルドが引越しを許可した。
王宮の外れに位置する礼拝堂は、後宮に比べれば格段に人との接触が少なく、その分目も行き届かない。
エドアルドに命じられ、王宮騎士団が護衛で付くことになった。
「ならば私も一緒に参ります」
と勢いづくメイフェアをなだめ、ビアンカは「あなたはフィオナ様についていて下さい。瑠璃様がこちらに通ってくださるそうですから、大丈夫よ」と言って聞かせた。
「私も一緒に行くって言ってるのに」
勤めを終えて戻ってきたメイフェアが、いまだに不満そうに口を尖らせながら、挨拶も半ばにして、自宅の食卓のように遠慮なくどさりと座る。
今日の戦利品、と言いながら、メイフェアが籠の中身を取り出し始める。
「あんな辛気臭い場所、あなたには無理だろう」
「私だって元見習い修道女なんですけど。お忘れかもしれませんけど」
ふいに思い出し、メイフェアは空いている白い皿に鴨肉を盛りつけながら、不機嫌な声で言った。
「今日はビアンカに頼まれて、イザベラ様に差し入れにうかがったのですけどね、相変わらずふてぶてしい態度でしたわ。あの方のこと、どうなさるおつもりなんです」
「そうだろうな。ビアンカはあの女の涙に騙されて同情しているようだったが、あんなもの、芝居に決まっている。近々、彼女の処置も決定するだろう。ビアンカに取り入っても、無駄だ」
麦酒を飲みながら、ヴィンチェンツォは少し考え込んでいるようだった。
メイフェアは憮然としたまま立ち上がり、残りの料理を抱えつつ、自分の飲み物を取りに台所と向かった。
遅くなりました、と階段から涼しげな声がした。
ロッカが薄いコートを脱ぎながら、ヴィンチェンツォに軽く挨拶する。
「すみません、帰り間際に立て込んでしまいました。それはそうと、マエストロの件で、明日にでも礼拝堂にお顔を出していただけませんか。陛下も同席いただく予定なのですが」
問題ない、とヴィンチェンツォは答え、台所のメイフェアに向かって「ロッカの分も頼む」と少し大きな声で言った。
しばらくしてから、ロッカの麦酒を運んできたメイフェアは、食卓にゴブレットを置きながら「ビアンカはどうしてます」と尋ねる。
「楽しそうにお掃除されてました。猫も、すっかり自分の縄張り気取りのようです」とロッカは短く答え、メイフェアに麦酒の礼を言った。
「私が一緒にいれば安心だと思うのだけど、あの子も頑固だから、来て欲しいなんて絶対言わないのよ。大丈夫なのかしら」
メイフェアの不安が、一向に解消される気配はなかった。
「そうですね、その件なら先ほど片付けて参りました」
ロッカは抑揚のない声で言うと、麦酒を半分ほど一息に飲む。
どうやって、と不思議がるメイフェアに、ロッカは「今は秘密です」と素っ気無く答えた。
両手に、きれいに盛り付けられた皿を抱えたロメオがあらわれ、「今日のお客はこれだけでいいのかな」とのん気に呟いた。
***
翌日、王宮の地下室の礼拝堂に案内され、一同は感嘆の声を上げるのみであった。
「こんなものがあったなんて、今まで知らなかった。どうやって探し当てたのだ」
エドアルドが石造りの壁に囲まれた大きな部屋を眺め、心の底から感嘆したような感想をもらした。
通常使用している礼拝堂とは別に、長年放置されている地下の礼拝堂の入り口を清掃中に発見したのは、他ならぬビアンカであった。
「いえ、偶然です。見つかってよかったと、クライシュ先生とお話していたところでした」
壁に埋め込まれた石版を愛おしそうに撫でながら、クライシュ・エクシオールは恍惚とした眼差しで国王に話しかけた。
「相当古い物です。古オルド語の石碑ですよ。これは国宝に値するのではないでしょうか」
興奮する夫を無視して、瑠璃が冷静に中央の泉を指し示す。
「私が注目しているのは、あの地下泉です。長年封鎖されても、こんこんと沸き続ける澄んだ水は、この土地の水源の豊かさを表しているようですね。喜ばしいことです」
円形に大理石で囲まれた泉には、透き通った水が湛えられていた。
なんて美しいのでしょう、とフィオナがため息をつく。カタリナも同意しながら、見た事も無い不思議な空間を、ただただ眺め回していた。
「今日は、この国宝の発見に関してのお披露目なのかな。ロッカの話とは違う気もするのだが」
ヴィンチェンツォが面白くなさそうに呟くと、優雅な動作で泉の淵に腰掛けた。
「いえ、これは偶然の別件なのですが、私としては、昨日のデオダード様のお話を、皆様に聞いていただきたかったのです。信じるかどうかは、皆様次第なのですが」
ビアンカはヴィンチェンツォを一瞬見据え、それからおもむろに視線を外すと、すぐさま室内を見回した。
「私の急なわがままをお聞き入れくださって、皆様ありがとうございました。ですが、この王宮、いえ、王都にとって、非常に大事なことだと思ったからなのです。私達が今いる礼拝堂、王宮の位置関係については、ご説明を受けている方もいらっしゃると思います。巫女も、司祭も、神に仕える者達は、この世をひっくり返すような力はありません。ただ祈るだけの日々にございます。ですが、全てを超越した存在に対して悪あがきのようではありますが、足掻いて、祈り、許しを乞うのも、また事実にございます」
ビアンカは言い終えてから一息つくと、透き通った泉に視線を逸らした。
「巫女様のいらっしゃるこの礼拝堂は、尾にあたります。正門、騎士団の旧詰所は大地を踏みしめる足になり、頭部は中央の役所及び王宮の方々の居住区にあたります。…そして、北の庭園、中央庭園と呼ばれる場所は王宮を守護する手となります。ルゥいわく、東方では『結界』と呼称される形式でございます。…プレイサ・レンギアの獅子の紋章と重ね合わせれば、幾分わかり易いとは思われますが。ロッカ、ここに絵を広げてくれませんか」
クライシュの言葉を受け、無言でロッカが王宮の地図を床に広げる。そして持参した黒炭で素早く上から、横向きの獅子の絵をさらさらとあっという間に描きあげた。
「もう一度、ご説明させていただきます。ごらんの通り、この王宮は、獅子に見立てた造りになっており、石碑にも記述されています。…ビアンカ様、読みあげていただいてもよろしいですか」
はい、とビアンカは上目遣いで、自分より背の高い面々を見上げ、しばらく様子をうかがっていた。
黙ってうなずくヴィンチェンツォと目が合い、ビアンカは肩で軽く息をすると、静かに言葉を紡ぎ出す。
「ここに獅子の魂を、穢れ無き泉に寄って守護する…我らはその手となり、足となり、尾は全てを封じ込め、王を守り、朽ち果てる。だがその風は永遠に獅子の身元で舞い続ける…欠けている箇所もありますので、語弊もあるかと存じますが、このように書かれています」
「結界とはなんだ」
ヴィンチェンツォが鋭い瞳で、ビアンカを見据えた。
「守護するものにございます。護符、と言えばおわかりいただけますでしょうか。この土地全体が、守り役のようなものです。獅子の力によって」
ビアンカの言葉に付け加えるかのように、瑠璃が続けた。
「強いて言えば、王宮だけではございません。王都を取り囲む水道橋も、その守護の一端を担っているのです。この国は、有り余る美しい水により、悪しきものから守られております。私の祖国では、その土地を守る境界線を物理的に描くのは普通でございました」
「よくわからないな。その結界とやらは、どこまで役に立つのか」
ヴィンチェンツォが、混乱する人々を代表して、瑠璃に問いかけた。
「物理的なものではございますれば、実効的かと問われれば、私にも正直わかりかねます。ですが、よいと言われるものを放置して、後々後悔するよりは、やるだけやっておいて後悔する方が、気分的に楽です。それだけの話と片付けてしまえば、それまでですが」
瑠璃のもったいぶった説明に、一同は黙り込んでいたが、ややあって「単なるまじないか」と言い捨てるヴィンチェンツォに、クライシュが「そうですね」と結論づけた。
「非難するつもりは毛頭ございませんが、力を失った北の庭園を補う為に、マエストロが中央庭園をお造りになりました。その効力は偶然とはいえども、その後のプレイサ・レンギアの発展をかんがみれば、私は結界の力を信じます。建国の祖である、獅子王の霊力を注ぎ込んで、この王都の礎を作り上げたオルドの先人が存在していたのは、確かです」
ビアンカは言い終えると、再び透き通った泉に視線を戻す。
「北の庭園って、何?地下道とか、幽霊の話は関係あるの」
今まで黙りこくっていたランベルトが、眉間を寄せて質問した。
「北の庭園に穴を掘ったり、王宮を分断するような地下道を造ったのは、結界を壊すことになるのです。ですが最近、その流れを封じる新しい騎士団の詰所を造ったのは、結果的には大成功でございます。どなたも、そこまでお考えだったとは思えませんが」
クライシュが満足げに言うと、他の人々、とりわけステラはそれを受けて曖昧にうなずいた。
よくわからないな、とランベルトは呟く。神秘主義ってやつ?とロメオが気だるそうに誰にともなく言った。
「そうですね、オルド教徒は、自然と寄り添って生きていました。火も、水も、風も、そして全てを受け止める大地も、いかなる時も人と背中合わせだったそうです。私は未熟なゆえ、そこまで感じることはできませんが、母はことあるごとに、精霊の姿を感じ取って生きていました」
それまで、ビアンカ達の説明を聞きながら、あちこちを眺めていたフィオナが、突然強張った表情で一点を見つめた。
「わたくし、この場所を知っています。子どもの頃に、迷い込んだのは、おそらくここだったはず。…あの獅子と龍の石像は、忘れもしません。十年以上も前の出来事ですが、今でも夢に出てくるの」




