87の話~二人の距離~
王宮のとある一室の前で、ヴィンチェンツォが腕組みをしたまま、難しい顔をして壁に寄りかかっていた。
次第に近づいてくる人影を、ヴィンチェンツォは若干緊張した表情で捕らえるが、すぐさま普段どおりの宰相閣下の顔に戻る。
ビアンカは、ヴィンチェンツォに対して、明らかに表情を消していたが、泳ぐような目は、その心の動揺を隠しきれていなかった。
一瞬立ち止まり、遠くからビアンカが優雅に膝を折りつつ宰相に挨拶する。
部屋の前には、物々しい面持ちで警護兵が立っている。
ヴィンチェンツォは軽くうなずくと、自ら扉を開け、ビアンカを部屋に招きいれた。
ロッカに促され、ビアンカはおそるおそる部屋に足を踏み入れる。
部屋の主であるイザベラは、それまでぼんやりとテーブルに肩肘をつき、窓の外を眺めていたが、風のようにふわりと現われたビアンカを、上から下まで不躾に観察している。
ふん、とひとつ鼻を鳴らすと、頭を下げるビアンカに向かって、わざとらしい吐息をこぼす。
「あなたも随分と偉くなったものね。強力な後ろ盾を得て、怖いものなど何一つ無いようだけど。幾分、見れるような身なりにしてもらえたようで何よりだわ。夢のような愛人生活で、お可哀相な御両親の事は、すっかり忘れ去ってしまったのかしら」
久しぶりに会う従姉妹に、イザベラはまるで目障りな障害物であるかのような視線を向ける。
「お元気そうで安心いたしました。皆、イザベラ様の事を心配していました」
ビアンカは静かに答え、ゆっくりと面を上げる。
イザベラは気だるそうに窓に視線を戻す。
自分から会いたいと言っておきながら、その態度はなんだ、とヴィンチェンツォは早くも苛立ち始める。
牽制するかのような眼差しをイザベラに投げかけ、ヴィンチェンツォはゆったりと長椅子に腰掛けた。
「私達の事は気にせず、お話なさって結構。万が一の場合に備えて、ビアンカの安全を確かめているだけだ」
ヴィンチェンツォの隣で、ロッカが彫像のように佇んでいる。
馬鹿馬鹿しい、とイザベラは呟くとため息をついた。
ビアンカは臆する事無く、イザベラを見据え、意を決したように涼やかな声を放つ。
「何故、突然姿をくらますようなことをなさったのです。お嫌でなければ、お聞かせいただけますでしょうか」
全てはそこから始まった、との言葉を飲み、ビアンカは力強い眼差しでイザベラを見つめる。
「今更、そんな話を聞いてどうするの。あなたも大概、わからない子ね。聞かずともわかっているでしょうに」
「そして結果、捨てられたと。あちらでも、あなたの事はお荷物のようであったしな」
横から素早く口を挟むヴィンチェンツォを、イザベラは呪術者のような禍々しい瞳で睨み付けた。
「どうとでも言うがいいわ。私は、何も後悔などしていないのだから」
「それが果たして、斬首される前まで言えるのかな。一時の感情で、あなたも自分の人生を台無しにした。自分の命を天秤にかけるようなものなど、この世には何一つ無い」
二人のやりとりを、黙って聞いていたビアンカは、静かに口を開く。
「私は、結果論としてではありますが、イザベラ様に王都に招いていただいて、これでよかったと思っています。あのままスロにいても、何も進展しなかったと思えば、あなたのなさり様も、恨めしい事ではありません」
「何処までもお人好しなのね。だいたい、あなたを王都に連れてくるよう進言したのは、他ならぬお兄様なのよ。私は、その話に乗っただけ」
ウルバーノ様が、とビアンカは呟き、胸に当てた手を固く握り締めた。
その理由は、と問うヴィンチェンツォに、イザベラは迷い無くすらすらと返答する。
「初めから、ビアンカを私の替え玉にするつもりだったのはお兄様の方。私とビアンカをうまく使って、王宮の内外から自分の力を固めていくおつもりだったのでしょう。それをこの子が怖気づいて、離婚だとか騒ぎ出すからこんな事になってしまったのだけど」
「そもそも、あなたの数々の振る舞いは、お妃に値しない。遅かれ早かれ、妃としての立場を失う事には変わりなかった。それをビアンカに責任転嫁するか。どこまでも阿呆な女だ」
ヴィンチェンツォの辛辣な言葉に、イザベラは敵意丸出しの眼差しで睨み付けた。
「いいか、あなたのような女がエドアルド様の妃だったなど、陛下の人生の中で、ただ一つの汚点だ」
無礼な、といきり立つイザベラと長椅子で腕組みしたまま睨み合うヴィンチェンツォを制して、ロッカが仲裁に入る。
「伯爵の計画を、あなたはどこまでご存知なのでしょうか。ビアンカ様を王宮に留めておいたとして、あなたの役割は。言いにくい事かと思いますが、もしお聞かせいただけるなら、我らも助かります。…あなた自身もですよ。あなたを見捨てた兄上を、これ以上庇っても何の得にもなりません。むしろ我らに協力する気がお有りなら、こちらとしてもそれなりの見返りをご用意させていただいても結構」
こんな女、ぶち殺しても構わん、と言い捨てるヴィンチェンツォを無言で制し、ロッカはガラス玉のような薄い瞳でイザベラを見た。
イザベラは、ロッカとはほとんど会話を交わした事はなかったが、この男は苦手だ、と直感的に思っていた。
そして今日、やはりこの男だけは食えない、と素早く視線を逸らし、しばらく考え込んでいた。
「お兄様はオルド教徒、というより、ビアンカのお母様にこだわっていたわ。父上が亡くなる間際に、ビアンカのお母様をお探しして守るようにと言いつかっていたのだけど、それがどこで捻じ曲がったのかしら。いつの間にか、オルド教徒を取り込む方向に心が動いていったわ。フォーレ子爵と懇意にするようになっていったのもそのせい。コーラーはいつだって、この国を欲しがっていたし、ほどよくコーラーの人間も取り込んでいったのは、彼等がオルド教徒と繋がりが深いからよ。最近、オルド教徒が元気なのも、コーラーの国王という、強力なパトロンがいるからに他ならないわ」
「あなたは、兄上とコーラーの橋渡しだったのだろう」
「どうかしら、わからないわ。私は一途に、恋人を追いかけていっただけですもの。でも、本当に二人の間に愛情があったかどうかなんて、今となっては、どうでもいいこと」
ビアンカは軽く唇をかみ締めて、イザベラを見つめていた。
ビアンカの視線に気付き、イザベラは自嘲的な笑みをもらす。
「あなたの顔に書いてあるわ。なんて哀れな女なんだろうって。本当、あなたって私をイライラさせるわね」
その言葉とは裏腹に、イザベラの発する声は弱々しかった。
「言い訳にしかならないけど、恋人なんて、誰でもよかったのよ。陛下は、冷たいお方だから、私には見向きもしないし。信じられないでしょうけど、私だって最初は、兄上は関係なく、お妃としての責務を果たそうって思いながら、後宮にやってきたのよ。でも、すぐにあの方相手では、無駄だとわかったの。お妃なんて、なるものじゃないわね」
スカートを握り締めてうつむくビアンカに、イザベラは困惑したような顔を向ける。
「泣くんじゃないわよ。何故あなたが泣くのよ。無礼にもほどがあるわ」
無言で首を振り、ビアンカは血が滲むほどに、ますます強く唇をかみ締めた。
「ビアンカ様は優しいからな。誰にでもすぐ同情してしまう。よかったではないか、一人でもあなたに共感してくれる者がいて」
ヴィンチェンツォは素っ気無く言い、ゆっくりと足を組みなおした。
あなたもね、イライラするというよりむしろ殺意を覚えるわ、とイザベラは軽くヴィンチェンツォを睨み、目を閉じる。
「まだお聞きになりたい事もあるでしょうけど、またの機会にしていただけるかしら。命が惜しいんじゃないわ。私も、利用されるだけでは悔しいから、あなた方に少しくらい協力してもいいと思っただけよ」
了承した、とヴィンチェンツォは言い、立ち上がってビアンカを見る。
「また、御用がありましたら、いつでもお呼び下さい」
涙をこらえながらイザベラに微笑むビアンカを、ヴィンチェンツォは面白くないといった顔で眺めていた。
硬い表情で一輪挿しの赤い薔薇を眺めていたイザベラは、ふいに低い声をもらす。
「ソフィア様は、お兄様と一緒よ。今は、聖都にいらっしゃるはず。私がわかるのは、そこまで」
ビアンカは息を飲み、しばらくイザベラを無言で直視していた。
「一度、コーラーにお兄様から手紙が来たの。…とても興奮したご様子だったわ。やっとお会いできたと、それはお喜びだった。汚い手を使って、主君に背いてまでしても、会いたいお方だったのかしら」
ロッカはイザベラに静かに頭を下げると、出口に向かって歩き出す。
ヴィンチェンツォは一瞬ためらいながらも、呆然とするビアンカの腕を掴み、強引に廊下に押しやった。
再び窓の外に視線を戻し、イザベラはそのまま、こちらを振り返る事は無かった。
***
「陛下に、イザベラ様にお会いするようにお願いしていただけませんか。…イザベラ様を、お助けするように、陛下にお願いしていただけませんか。あんまりです。こんな事で、お命を落とされるなど、人として、罰する方も間違っています」
黙りこんでいたビアンカがふいに口を開き、ヴィンチェンツォに激しく詰め寄った。
その剣幕に驚きつつも、周囲の警護兵の姿に、ヴィンチェンツォは冷静を装ってみせる。
「こんな事とはおっしゃるが、コーラーと通じて、オルド教徒を煽る手助けをしていたのは事実だ。難しいな」
「そうですか、閣下のお考えはわかりました。ならば私が直接、陛下に直訴いたします」
今にもエドアルドの元へと駆け出しそうなビアンカを引きとめ、ヴィンチェンツォは声をひそめた。
「今すぐに処刑というわけではない、あなたは焦りすぎだ」
そんな二人を見て、ロッカは「ここでお話されては、そこら中に響きます」と苦言を呈し、とりあえず外に出るようにうながした。
人気のない北の庭園へ二人を案内し、ロッカは「こちらなら大声でも大丈夫です」とぼそりと呟く。
ビアンカを東屋の石椅子に座らせ、ヴィンチェンツォは「落ち着きなさい」と低いがよく通る声で言った。
ビアンカの向かいに座り、ヴィンチェンツォが石畳を凝視したまま、数分の時が流れる。
やがて、子どもを諭すような柔らかい声で、ヴィンチェンツォは話しかけた。
「優先順位を考えるんだ。何が一番先になる」
「イザベラ様を、死なせないで下さい」
ヴィンチェンツォは途端に怒りを含んだ声で、ビアンカにすぐさま言い返す。
「俺の話を聞いていなかったのか。大局的に見るんだ。イザベラどころじゃないだろう。放っておいても、あれをすぐに殺す理由もない事くらいわからないのか。そんなのは後でもできる」
「だいたい、そんな簡単に殺すなどとおっしゃらないで下さい!あの方が何をしたというのです。いくらでも、他には罰せられるべき人間がいるというのに、あんまりではありませんか」
また始まった、とヴィンチェンツォは苦虫を噛み潰したような顔でビアンカをちらりと見た。
「俺の言い方が悪かった。謝罪しよう。あなたの従姉妹の命は保証する。実際陛下も、そこまでは望んではおらぬ。…これでいいか」
「よくありません!」
何がだ、とヴィンチェンツォはぶすけた顔で呟き、助けを求めるような顔でロッカを見た。
ロッカはおもむろに背を向け、「外を見て参ります」と足早に立ち去る。
二人きりなどとんでもない、と鬼の形相だったのは忘れてしまったのだろうか、とロッカの広い背中を見つめ、ヴィンチェンツォは理不尽な思いに駆られる。
「ビアンカ様は、何がお気に召さないのか。先ほどから食ってかかるような言い方しかされない。私としても、あなたの不安を解消すべく努力したいのだが」
多少余裕の含んだ声をヴィンチェンツォは返す。
「閣下のおっしゃりようでは、いくらでも人の命を左右できるお立場にあるのがわかりました。だからこそ、軽々しく殺すなどと口にされるのが、悲しいのです」
ヴィンチェンツォは、ゆるりと真っ直ぐな瞳のビアンカをから目を逸らす。
「まるで権力に目の眩んだ私を哀れんでいるかのようだ。神に仕えるあなたには理解できぬかもしれぬが、生き残った者が正義だ。正しい行いが必ずしも、勝利に結びつくわけではない」
「あなたは、何をもって勝利とするのでしょう。閣下の見識を、一度お聞きしたいと思っておりました」
「奇遇だな。私も、あなたにとっての勝利とは何か、是非知りたいものだ」
「知って、何になります。もともと私達には、勝利などという概念はございません。所詮あなたには無縁のお話でしょうけれど」
「ビアンカ様」
一言残して、ヴィンチェンツォは黙り込み、顎に手を当てたまま上目遣いで正面のビアンカを捕らえた。
「…いや、いい。あなたは正しい」
静かに立ち上がり、ヴィンチェンツォは音もなく石畳の上で跪くと、ビアンカに深々と頭を下げた。
「今日はありがとう。辛い思いをさせて申し訳なかった。ロッカに送ってもらうといい。お嫌でなければ、また御両親の件も含めて、お話させていただきたい」
話したいのはそんな事ではない、とお互いに思っていた。けれど、以前とは違う距離感に、二人は為すすべもなく、今は黙って見つめ合うだけである。




