84の話~別離~
廊下に佇んだままのメイフェアに、ランベルトは無邪気な笑みを返す。
「そんなに気になるの。俺も正直、今回はちょっと中の様子が気になって仕方ないんだ。まあ、後でいくらでもヴィンス様に聞けばいいけどね」
ものすごい力でメイフェアに胸ぐらを掴まれ、ランベルトは思わず情けない悲鳴を上げた。
「あんた達がいなくなってから早速、すごい事になってるのよ。もう既に、中は修羅場になってるはずよ。どうしてくれるのよ」
俺のせいなの、と咳き込みながらランベルトはやっとの事で精一杯言い返した。
違うけど、何とかならないの、と一層詰め寄るメイフェアの剣幕に、ランベルトは理由がわからないながらも、ひたすら下出に出るしかなかった。
外の様子をうかがっていたのか、静かに扉が開き、フィオナが声をひそめて手招きする。
「ランベルトも大層疲れているのですから、少しは労わって差し上げないと。こちらへいらっしゃいな。道中お疲れ様でしたね、甘いものでもいかがかしら」
フィオナの優しい声に、ランベルトはほっとしたように笑顔を向けた。
「なんでそんなにぴりぴりしてるのかわからないよ。今以上の一大事って、何なんだよ。今日は折角、ヴィンス様がビアンカに結婚の申し込みをするって気合入ってるのに。今夜はお祝いなんだよ。ほんとは内緒にしておこうと思ったのになあ。で、何があったの」
胸元を整えながら、ふてくされたようにランベルトが言う。
けっこん、と同時に女性二人は呟き、そのまま言葉を失っていた。
自分の予期していた反応とは正反対の二人に、ランベルトは今度こそ、王宮内はただならぬ様相を呈していると気付かされた。
「一足遅かったようね。現実は厳しいわ」
眉根を寄せるフィオナに、メイフェアはきっぱりと言う。
「いいえ、まだ遅くありません。全ては宰相様のご決断次第です。いくらでも、まだ食い止める方法はあるはずです。私達に出来る事はないのでしょうか」
交互に二人を見比べるランベルトは、あっという間に柱の影に引きずり込まれて囲まれる。
「生贄よ、人柱よ。ビアンカが巫女になるって、ここじゃ何日も前から大騒ぎよ。このままじゃ宰相様と結婚どころじゃないわ!あんた、なんとかしてよ」
無理だとわかってはいるものの、メイフェアは言わずにはいられなかった。
「想定外の展開ではありますが、むしろ二人にとっては、その方が都合がよろしいかも。このまま二人で何処へなりとも逃げてくれれば、私は言う事はありません」
「そんなに簡単にいくかしら。そもそもビアンカの決意は固いようですし」
口々に囁きあう女性二人の会話を呆然と聞きながら、ランベルトは卒倒寸前であった。
なんでそうなるの、と素朴な疑問が頭の中を駆け巡る。
「細かい経緯は置いといて、そういう状況なのよ。結婚なんて陛下が許すはずもないじゃない。馬鹿じゃないの」
いや、だから俺らは何も知らないし、と理不尽な思いに駆られながら、ランベルトは口ごもった。
同時に、はっとしたようにビアンカのいる客室に鋭い視線を投げかけた。
素早い身のこなしで扉に張り付くランベルトに、二人も慌てて駆け寄った。
「よく聞こえないけど、ヴィンス様の大きい声がするよ。まずいんじゃないか、これは非常にまずい」
ランベルトを押しのけるように、フィオナとメイフェアも扉に耳を当て、中の様子をうかがっている。
どうしよう、と三人は顔を見合わせた。
「皆様、何をやってらっしゃるのですか。盗み聞きはよくありませんよ」
ロッカやステラの姿を見つけ、三人は顔を上げた。
「いや、今俺も聞いたばかりなんだけど。それにしちゃあ、あまりにもヴィンス様が不憫すぎると思って、せめて何か援護できないかと思案をめぐらせつつ…」
「お前ごときに何が出来る。かき回して大惨事になるくらいなら、そのままにしておいた方がまだましというもの」
「そう言う君達は、何しに来たの」
それは、と思わず言葉に詰まるステラに目もくれず、ロッカは淡々とした口調で言った。
「ビアンカ様をお守りする為。いざという時は、たとえヴィンスからであろうとその身を守れと言い使っている。そこをどけ。入るぞ」
ロッカの冷酷な口調に、メイフェアの背中を自然と汗が伝う。
いったい誰の味方なのよ、とメイフェアはその凍てついた表情に泣きそうになる。
その行く手を遮るように、扉の中央に陣取り、フィオナがロッカを見上げた。
「お待ちなさい。もう少し時間を下さい。ほんの少しでよいのです。今すぐにヴィンスが納得出来るとは私も思っていません。ですけれど、もう少しだけ、二人にしてあげてくださいませんか」
無理です、と言うロッカの腕にしがみつき、フィオナがそこをなんとか、と言いすがる。メイフェアもとっさに反対側の腕にすがりつき、「後生ですから」と扉から引き離そうと必死であった。
何をなさる、とロッカが声をひそめながら抵抗するのを、ランベルトがおろおろと眺めている。
「気持ちはわかるが、かといって、今の私はどちらにも加勢する気はない」
ステラは揉み合う三人を呆れたように見やると、ぼそりと呟いた。
よろよろと、うっすらと顎が青くなっているアルマンドがこちらにやってくるのが目に入った。
ランベルトはその姿を見つけるやいなや、勢いよく「アルマンド、やれ。ロッカを引きずり出せ」と鋭いささやき声を投げかけた。
何事なの、とアルマンドは一瞬うろたえるが、メイフェア達の必死な様子を見て取り、すぐさま後ろからロッカの細い腰に抱きついた。
「なんだかわからないけど、ロッカ様を捕まえればいいのね!任せてちょうだい」
アルマンドは、見た目からは想像出来ないような力でロッカの腰を捕らえたまま、地引網を引くような腰つきで引き寄せる。
どさくさまぎれに耳元に息を吹きかけられ、ロッカが一瞬怯んだ。
離せ、と苦しい息の下でもがき続けるロッカを、死んでも離すまいとしがみつくアルマンド達だった。
「皆様、いったい何をしてらっしゃるのですか!誰かと思えば、あなた達でしたか。騒ぐなら鍛錬場で存分におやりなさい!」
女官長のマルタが珍しく大声を張り上げ、その場の人々を睨み付ける。
フィオナ様まで何ですか、と叱責されながらも、フィオナは「国の命運がかかっておりますのよ!マルタ、あなたも加勢しなさい!」ととうとう大声を上げるのであった。
***
痛い、と思わず呟くヴィンチェンツォを睨み付けながら、ビアンカは隙をついてその体から逃れる事に成功した。
「それ以上、私に近寄らないで下さい。でなければ、いますぐ大声を出します。例えあなたでも、本気ですから」
血走った目を向けるビアンカに、ヴィンチェンツォは痛みの残る自分の唇の血をぬぐいながら、弱々しく視線を返す。
閣下の目が赤い、と自分と同じくらい血走ったヴィンチェンツォの瞳に心を痛めながら、ビアンカは自分の胸元を押さえていた。
「そういえばあなたは、一度言い出したら聞かない性格だったな」
そうです、と乾いた声を出すビアンカを見据えて、ヴィンチェンツォは黙り込んでいた。
沈黙が、二人の間で永遠に続くかのように思われた。
ややあって、了承した、とかすれた声で呟くヴィンチェンツォを見るビアンカの瞳からは、耐えかねたかのように大粒の涙が溢れ出した。
「…長い間、すまなかった」
無言で首を横に振るビアンカから目を逸らし、ヴィンチェンツォは握り締めた拳の行き場を失くし、ひたすら肩を震わせていた。
「あなたの望みは何だ。最後に俺が、あなたに出来る事は何か、教えてくれ」
何も、と首を横に振るビアンカの瞳からは、涙が途切れる事はなかった。
「何もありません。ただ、閣下にしか出来ない事を、なさって下さい。私も、私にしか出来ない事を及ばずながら…」
最後は言葉にならず嗚咽するビアンカを、ヴィンチェンツォは切ない顔で見つめていた。
思わず手を伸ばしその涙を拭う手に、ビアンカはほんの少し体を震わせるが、しっかりとした瞳でヴィンチェンツォを見上げていた。
「もう、閣下と二人でお会いする事はありません。ですから、お礼を言わせて下さい。今まで、ありがとうございました。スロに行く時も、閣下には何もご挨拶が出来ず心苦しかったのです。これでようやく、胸のつかえが取れました」
そうか、と呟くヴィンチェンツォはためらいながら、その手をゆっくりと下ろした。
そのままゆっくりとひざまずき、泣きはらした目のビアンカを見上げる。
「オルドの巫女の、心のままに。あなたの御心が、平穏を取り戻せるよう、この身を削ってでもあなたをお守りしよう」
知らず知らずのうちに、ビアンカの手を両手で握り締めたまま、いつまでもヴィンチェンツォは下を向いていた。
その手に、唇で触れたい。その小さな手だけでなく、ビアンカの全てに触れ続けていたかった。
だが、それは許されない事であると、ヴィンチェンツォにはわかっていた。
これ以上、彼女を苦しめるのは本意ではない、とヴィンチェンツォは精一杯の敬意をもって、その麗しき手を解放する。
***
先ほどから、何かと騒々しい外を確かめるように、ヴィンチェンツォはむっつりとした表情で、勢いよく扉を開け放つ。
廊下では、見知った面々が鬼の形相で揉み合っている。
「何をしている。うるさくて、気が散って仕方が無い」
口ごもる人々に目もくれず、ヴィンチェンツォは一人廊下を歩き出す。
その場に残された人々は動揺しつつも、互いに顔を見合わせていた。
終わったのかな、とランベルトが不安げにメイフェアを見た。
終わってもらっちゃ困るんだけど、とメイフェアが威嚇する子猫のような表情を見せる。
それぞれに、思い思いの気持ちで、ヴィンチェンツォの後に続く者と、ビアンカの客室に入る者、そしてその場に立ちつくす者の姿があった。
一番先にヴィンチェンツォに追いついたランベルトは「ヴィンス様」と声をかけるものの、その後は無言であった。
目が赤かった、とヴィンチェンツォを気遣い、そして黙りこくったまま、ランベルトはその後ろを早歩きで追い続ける。
突然、ヴィンチェンツォの足が止まる。
ヴィンチェンツォの背中を見つめるランベルトに、ヴィンチェンツォは思いのほか静かな声で言った。
「俺では無理のようだった。すまないな、心配かけて」
いえ、いいんです、でも、どうして、と細切れに混乱する言葉を投げかけるランベルトを、意外なほど穏やかな表情で、ヴィンチェンツォは振り返った。
「駄目だった。迷惑だと言われてしまった。俺も大概、女心がわからぬ無粋な男のようだ」




