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漂う白花  作者: 渡部ひのり
第四部
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83の話~嘘つきな唇~

「まさか本当に連れ帰るとは思わなかった。この目で見るまで、冗談だと思っていたよ」

 宰相の帰還に、国王は開口一番瞬きを繰り返しながら、離縁した自分のお妃の姿を目の当たりにし、言葉を選びつつ呟いた。

 元夫の前でも一向に悪びれる事なく、イザベラは乱れた髪を振り乱しながら「無礼者!早くこの縄を解きなさい!」とわめいている。

 元気そうでなにより、とエドアルドは、睨み合うヴィンチェンツォとイザベラの前で、困ったような視線をどこへともなく送る。


「イザベラ、いくらあなたでも、事の大きさはわかっているであろう。後ほど、ゆっくり話を聞かせてもらう」

 ため息混じりのエドアルドに無言でうなずき、ステラ達が退室する国王に頭を下げた。

 イザベラは殺意すら帯びた眼差しでヴィンチェンツォの背中を睨み付け、「地獄に落ちろ!」とどこかの女官顔負けの剣幕でまくし立てる。


 エドアルドは廊下に出ると、後ろのヴィンチェンツォに、前を向いたまま話しかけた。

「そうは言っても、無茶ばかりだったんだろう。どうやって国境を越えたんだ」

「簡単です。役人にありったけの賄賂を掴ませましたよ。まあ、今頃はあちらの国王にも我々の話は届いているかと思われますが、どう出てくるでしょうね」


「コーラーの大使を呼べ。あちらも、大きくは出れないだろうからな。怒らせない程度に交渉しろ。人の足元見るのは得意だろう」

 御意、とヴィンチェンツォは真面目にうなずく。

 それからエドアルドは、珍しく無精髭をうっすらと生やしたままのランベルトに声をかける。

「ご苦労だった。奥方に無事な姿を見せてやるといい。今日はもう帰っていいぞ」

 お先に、と言うと、ランベルトは残りの体力を振り絞り、あっという間に後宮へと駆け出していった。


「正直、今回はフォーレ子爵が見逃してくれたおかげもあるのです。意外なほどにあっさりとイザベラを手放しました。そうでなければ、逆に我々が捕らえられていたかもしれません」

 そうか、とエドアルドは呟く。

「他に何か、急ぎの御用があれば処理しますが。ロッカは執務室でしょうか」

 疲れきった様子ではあったものの、ヴィンチェンツォは実に晴れ晴れとした顔をしている。

 対照的に、ああ、とうなずくエドアルドは、今日はどことなく口数も少なかった。


「ヴィンス、一息ついたら、後で俺のところに来い。帰り間際でいい」

 暗に、ビアンカに会いに行けと言っているのだろうか。

 陛下の邪魔が入らぬのも珍しいことだ、とヴィンチェンツォは思い、「では後ほど」と上機嫌で立ち去った。

 


***



 メイフェアは、ランベルトが一人で戻ってきた事に、不満を抱いていた。

 感動的な再会を期待していたわけではなかったが、「宰相様は何処なのよ」と不機嫌そうに言う妻の姿に、ランベルトは泣きたい、と素朴に思った。

「いや、いろいろお忙しいみたいだけど、そのうち来るんじゃないかな。俺はもう帰っていいって、陛下も言ってくれたし」

 舌打ちするメイフェアの態度に、ランベルトは今までに無く深く傷ついていた。

「ものすごく、一生懸命帰ってきたのに…。俺はもしかしたら死ぬんじゃないかと何度も思いながら、それでも君の笑顔を思い浮かべて戻ってきたのに」


「それどころじゃないのよ!あんた、陛下に何も聞いてないの」

 何が、と怯えるランベルトを、ビアンカが困ったような顔で見つめていた。

 勢いよく噛み付いてきたものの、その後の言葉を濁すメイフェアの様子も、何かおかしい、とランベルトはぼんやりしながらも気付く。


「何かあったの」

「いいえ、皆様ご無事でようございました。メイフェア、今日はもういいので、ランベルト様と帰って下さい。フィオナ様も、ランベルト様の事をとても心配してらっしゃいましたから、お顔を見せたらお喜びになると思います」

 ビアンカの労わるような言葉に、そうか、とランベルトはようやく嬉しそうな顔を見せた。


 扉に手をかけ、メイフェアが浮かない顔でこちらを振り返っている。

「ねえ、宰相様がいらっしゃっても、ここにいていいのよ。もしあなたがそう望むのなら」

「大丈夫よ。…陛下にも、そうお願いしてあるし。二人で、話すわ」

 一足先に廊下に出ていたランベルトは、恐いくらい真剣な表情のメイフェアに、さっきからなんなんだろう、と次第に面白くなくなってくるのであった。


 とはいえ今までに経験した事の無い疲労もあってか、いつも以上に頭の回らないランベルトは、まあいいや、と軽く呟いた。

 なんだかんだと言いつつも、メイフェアは誰より優しい、とランベルトは思っていた。

 ただ、その一途な優しさが、彼女の親友と同じように、夫の自分にも分け与えてもらえたら、もっといい。


 そうこうしているうちに、当の宰相閣下の姿が、遠くに映る。

 旅の疲れを微塵にも感じさせる事無く、いつもどおりの清潔感溢れる、颯爽とした姿だった。

 一方、自分の夫といえば、路地裏の子犬のように薄汚れている。

 あんた汚いわよ、とメイフェアは容赦せず呟く。

「ヴィンス様はね、勝負どころだから。俺はもう終わってるからいいんだよ」 


 やっと来た、となぜかにやりとするランベルトに、メイフェアはのん気なんだから、と苛立つ気持ちを抑えるのが精一杯だった。

「俺らは、フィオナ様に挨拶して帰ります。お店、予約しておきましょうか。ロッカ達も来るなら、そのようにしますけど」

 すまないな、と言うヴィンチェンツォに軽く頭を下げ、メイフェアは唇を固くかみ締めた。


 宰相閣下のご様子では、ロッカ様も陛下との約束をお守りになっているようだ、とメイフェアは思った。

 最後ですから、私の言葉で説明したいのです、と皆に言うビアンカに、エドアルドは「好きにするといい」と寂しげに言った。

 外の気配を感じつつ、ビアンカは自分の波打つ胸の音と戦っていた。



***



 お帰りなさいませ、と静かに頭を下げるビアンカに近づくと、ヴィンチェンツォは無言で覆いかぶさるように、その華奢な体を抱きしめた。

 ビアンカの肩に顔を埋め、ヴィンチェンツォは息災にしていたか、とささやくような声で言った。

 その背中に腕を回しかけ、しばらくしてからビアンカは思い留まるように両腕を下ろし、立ち尽くしていた。

 帰ろう、と言うヴィンチェンツォに、ビアンカは答えられずにいた。


 ぎこちなくヴィンチェンツォの腕から逃れるように、ビアンカが弱々しく体をよじる。

 自分を笑わない顔で見上げるビアンカを、ヴィンチェンツォは安心させるかのように、笑顔で微笑み返した。

「道中、ひたすら考えていた。言葉にせねば、わからぬ事も多いと思う。肝心なところでお互い、言葉少なであったような気がする。だから、今言わせて欲しい」

 ビアンカは無言だった。

 ビアンカが今までに見た中でもおそらく一番優雅な動作で、ヴィンチェンツォはゆっくりとひざまずき、今度は彼がビアンカを真剣な眼差しで見上げる。


「ビアンカ・フロース。もしあなたに、私を受け入れてもらえるなら、私の妻になって欲しい。あなた以外には、考えられぬ。私のような人間では、至らぬところも多いとは思うが、私にはあなたが必要だ。私の側にいて欲しい。私との結婚を、了承して下さるか」

 ビアンカは一瞬だけびくりと体を震わせ、自分を見上げる熱い眼差しを見据えていた。

 沈黙するビアンカを、ヴィンチェンツォは緊張しながらも、滅多に人には見せぬ柔和な笑顔で見上げていた。


 

「お受けできません」

 ようやく聞こえた言葉に、ヴィンチェンツォは思わず自分の耳を疑った。

 ヴィンチェンツォは戸惑ったような顔で、愛しい人をじっと見上げる。

「…何故」

「私は、聖オルドゥのものです。あなたのものではないからです」

 息を飲むヴィンチェンツォに、ビアンカは堰を切ったように口を開いた。


「いつか閣下もおっしゃいましたよね。私のような人間でも、巫女の血を引く身であれば、いかようにも使い方があると。私はもうすぐ、巫女になるのです。ですから、あなたと結婚など、有り得ません」

 青ざめているビアンカにヴィンチェンツォは、はっとしたように呟いた。

「まさか、陛下のご意向なのか」


「同意したのは私です。皆様のお役に立てるなら、それでいいと思ったのです」

「相変わらず、自己犠牲の精神がそこら中に溢れ返るようだ。何を陛下に吹き込まれた」

 とっさに立ち上がるヴィンチェンツォから距離を置くように、何も、とビアンカは首を振り、わずかに後ずさる。


 すがるような思いで、ヴィンチェンツォは今一度、ビアンカに問いかけた。

「では、あなた自身はどうなのだ。陛下の事も、国の事もどうでもよい。俺の事はどう思う。触れ合うたび、一人の男として俺を見てくれていたのか」

 ビアンカは、かつてイザベラとして時折見せていたような、敵意さえ感じる眼差しで、ヴィンチェンツォを睨むように正面から見据えていた。


「迷惑です」

 何かが、自分の手のひらからこぼれ落ちてゆくような感覚に囚われ、ヴィンチェンツォは今度こそ、思考能力を失っていた。

 信じない、と言葉には出さず、ヴィンチェンツォは何度も自分の思いを、頭の中で反芻する。


 何も返さないヴィンチェンツォに、ビアンカはたたみかけるように力強く言う。

「そもそも、閣下は勘違いされていらっしゃる。哀れな私への同情を恋心と混同していたと、未だにお気づきにならないのですか」

 違う、何故そんな事を言う、とヴィンチェンツォは激しく首を横に振る。

「迷惑なら、何故もっと早く言わない。俺一人で勝手に浮かれて先走っていたとでも」

 憎しみさえ感じるような、ヴィンチェンツォの激しいながらも凍てつく眼差しに、ビアンカは身の縮まる思いがした。


「流されていただけです。確かに、閣下は魅力的なお方ですから、お誘いがあれば、どなたも拒否するような真似はなさらないでしょう。…恋すら知らずに育った私は尚更、どうしてよいのかわからなかったのです」

 震える声を押さえ、ビアンカははっきりとした口調で突き放すように言い切った。


 ヴィンチェンツォはうつむいたまま、ゆっくりと椅子に座り込む。

 両手を組んだまま下を向き、ヴィンチェンツォはややあってから静かに口を開く。

「無理だ。俺には理解できない。本当の事も、一つくらいあっただろう。そう思わせるあなたは、俺の知る誰よりもしたたかで、罪深い」


「わかりません。死ぬ間際になれば、その気持ちが何だったのか、理解出来る日が来るやもしれませんが、未熟な今の私には、何もわからないのです。思わせぶりだと言われても、返す言葉もございません」

 嘘だ、とビアンカの言葉を遮るように、ヴィンチェンツォが呟く。

 ヴィンチェンツォは、目の前で無表情のまま自分を見下ろすビアンカを抱き寄せ、その細い腰に腕を絡めていた。


 驚くビアンカをひたすら逃すまいと、ヴィンチェンツォはその腕に、ますます力を込め、勢いよく立ち上がった。

 二人の視線が重なると、ビアンカは素早く横を向く。


 本当に嫌なら抵抗しないはず、と愚かな男の最後の望みをかけるかのように、ヴィンチェンツォはビアンカの小さな頬を両手で捕らえ、貪るように唇を重ね合わせる。

 嘘つきだ、と自分に応えるような反応を示すビアンカをより深く抱き寄せ、ヴィンチェンツォは欲望のままに、その可憐な唇をいつまでも離す事が出来ずにいた。





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