82の話~交錯~
いつの間にか姿が見えなくなったアデル達を気にしつつも、記憶を頼りにヴィンチェンツォ達はひたすら馬車庫を目指して走り続ける。
不気味なほどに、離宮内は静まり返っていた。
罠でなければよいが、とヴィンチェンツォは気を張り詰めたまま、回廊をひたすら駆け抜ける。
「こっちよ、早く」
アルマンドが固い表情をして、柱の影からささやいた。
急いで荷馬車にイザベラを横たえると、ヴィンチェンツォは肩を回しつつ、軽くため息をついた。
「随分重い女だった。いったい普段何を食っているんだ。ビアンカは、鳥の羽のように身軽だったがな。同じ女でも、こうも違うものなのか」
なんでそんな事まで知ってるの、とランベルトは言葉を飲み、「バターやら肉やら、たらふく毎日召し上がってるんでしょうよ。未だに修道女並みの食生活のビアンカと比べたら、脂肪の摂取量は雲泥の差です」と、呟いた。
「そもそも、ドレスのサイズがまるで違うわ。ほどよくふっくらしたイザベラ様の方が、確かに女性としては見栄えがいいのよ。あたしもあんなふうに、肉付きのいい体になれたらよかったわ」
横から口をはさむアルマンドを無視して、ランベルトは「早く行こう」と一言言った。
「随分と余裕がお有りのご様子。いつまでも油を売ってないで、さっさとここを離れた方が賢明ですよ。見逃してあげるのも、せいぜい明日の朝まで。どこまで行けるのか、影ながら応援させていただきますね」
ヴィンチェンツォは馬車庫の隅に佇む男女に気付き、瞳をわずかにつり上げる。
「見逃していただけるとは、意外ですね。この女は、もう用済み、という事なのでしょうか」
男は顔色一つ変える事無く、涼しげな空色の瞳を煌かせ、口元には笑みさえ浮かべていた。
「ええ、そうです。お迎えに参上してくださって、むしろこちらからは礼を言わねばなりませんね、バーリ様。正直、彼女の事は皆が持て余しはじめていたところなのです。女性の我侭も、適度であれば可愛げがありますが、長くお付き合いするとなると、こちらも並ならぬ疲労を感じずにはいられません」
ほぼ一年近い、ギヨーム・フォーレ子爵と、ヴィンチェンツォの再びの対面であった。
彼の肩にもたれかかる女性の姿は、かすかに見覚えがあるような気はした。
あれがサビーネだろう、とヴィンチェンツォはささやき、アルマンドがこくりとうなずいた。
「仮にも、貴公を追って異国まではるばる訪ねてきた恋人に対して、その態度は冷たいどころではないな。血の通った人間とは思えぬ発言だ」
「あなたのような方に、そのように批判されるとは思いもしませんでした。お互い様でしょう、あなただって、邪魔になれば誰かれ構わず、恐いくらいに見切りをつける方だと、もっぱらお聞きしておりますが。ああ、そういえば、イザベラの従姉妹に、異常なまでに固執しているとか。可愛らしい方ですよね。宴でお会いした事があります。何にも染まらぬ白い絹のような、うぶなお方でした。あれはあれで、また興味をそそられる素養をお持ちでしたね。あまりお話する機会もありませんでしたが、どんな方なのでしょう。宰相閣下の恋人とあれば、どのようにしてあなたの心を射止めたのか、誰もが知りたいと思っていますよ」
フォーレ子爵の妙に熱を帯びた言葉に、ランベルトは「思いっきり筒抜けなんだな。スパイ天国だ」とアルマンドにささやいた。
「言っとくけど、私じゃないわよ。そもそも、ヴィンチェンツォ様が女性を囲ってるっていう話は、城下ではとっくに広まってるって、あなた知らないの」
ヴィンチェンツォは下を向いたまま、小刻みに肩を震わせていた。
「俺の話はどうでもいい。勝手にしろ。とにかく、貴公のお言葉に甘えてとっとと帰るまでだ。俺の女のところにな」
こういうところだけ無駄に男前だわ、とアルマンドがうっとりした顔で、ヴィンチェンツォの凍てつく美しい横顔を眺めていた。
フォーレ子爵は笑みをたたえたまま、「早く行かれるといい」と軽く手を振った。
「貸し借りは無しですよ。私も、面倒は嫌いです。これ以上の手助けもしませんがね」
敵なのか味方なのか、ヴィンチェンツォにもフォーレ子爵の真意は測りかねた。
こういう男は嫌いではなかったが、イザベラに対して、余りにも情が無さ過ぎるのが気に障った。
自分は矛盾していると思いつつも、最終的には、今日ここでの子爵との会話すら、無かった事にしようとしているヴィンチェンツォだった。
***
アデル達が馬車庫に到着すると、既にヴィンチェンツォ達は離宮を出立していた。
とりあえずよかったと胸をなでおろすアデルは、結局置いてきぼりにされたロメオを、哀れんだ様子で振り返った。
「いざとなれば、国境で道具箱に隠れるとか、全く手が無いわけでもないんだけど。というか、ヴィンス様と一緒に帰ればよかったのに。むしろ私達のお荷物になってるんじゃないの。あんた、知ってたけど、馬鹿ね」
何も答えず、ロメオは無造作にベールを外し、「頭かゆい。付け毛嫌い」と自分の金糸のような髪をがりがりと掻き揚げた。
「なんでだろうね。僕もわからないよ。言っとくけど、君の為でもない。…本当、なんでだろう?」
間抜けた答えを返すロメオに、アデルは静かにため息をつく。
「ようやくこの年になって、自分の本質が見えてきたんじゃないの。献身的というか、被虐思考というか、破滅タイプっていうか。人間ってわからないわ。だから面白いんだけどね。それがヴィンス様の為っていうのが、たまらないわねえ」
アデルも薄いベールを脱ぎ、片手にその布を握り締めて歩き出した。
「今回ばかりは、私も早く帰りたいのよね。なんだか、嫌な感じがするの。予知能力なんてまるでないけど」
アデルは、自分にあてがわれた客室へ戻ると、行き場の無いロメオを顎でうながし、部屋へと強引に押し込む。
誰もいないはずの部屋には、明かりが灯され、アデルは黙って揺れる蝋燭を眺めていた。
「さて、どうしよう。そこにいる綺麗な子は見覚えがない。君が手引きしたのかな。明日になれば、大変な事になっていそうだけど、君は関係してるのかなあ。そうなったら私も、ただでは済まないんだけど。今のうちに、皆で逃げた方がよくはないかな」
キーファ様、とアデルはかすれるような声で呟く。
一人がけの椅子に座り足を組む姿が、ぼんやりと明かりの向こうに映し出される。
「折角の情報集めが、君のせいで今回限りになりそうだ。この落とし前は、どうしてくれるの。私の勝利の銀の女神は、実は疫病神だったのかな」
鋭い瞳でアデルから目を離さないキーファに、ロメオは面白くなさそうな視線を向けた。
すみません、と頭を下げるアデルに目をやり、ロメオは放り投げるように言い捨てた。
「それもまた、あんたの持って生まれた運ってやつじゃないの。運勢まで、人のせいにするなよ」
キーファはにやりと笑い、ロメオを椅子の上から見上げた。
「自分の立場をわかっているのか。ふてぶてしいにも程があるな。可愛ければ許されるものでもないよ、お嬢さん。いや、違うな。まあ、どちらでも私は構わないけどね」
「同じ穴の、ムジナって奴?あんたに責められる覚えはないね。利用される方が悪いんだ。いやになるくらい、自分の事しか考えてない奴が多すぎるよ」
この男が何者なのか、ロメオにはまるで検討がつかなかった。
相手が王であろうと賊であろうと、ロメオにはどうでもよかった。
ただひたすら、根本的に人を見下したような言い方のこの男が、はっきりと気に入らなかった。
「威勢がいいね。初めて会った頃の君より、遥かに言いたい事を言う子だ。いいね」
自分を見上げる王者の眼差しを、アデルは余裕の無い顔で受け止めるしかなかった。
僕は全然、こいつは気に入らないけど、とロメオは投げ捨てるように言う。
「何が言いたいか知らないけど、さっさと帰ってくれる。こっちはへとへとなんだよ。あんなふわふわした舞台で踊らされて、正直ありえないから。賃金倍増しでもいいくらいだよ」
ロメオは大きな目を細めて、思い切りキーファを睨みつける。
絹糸のような、繊細なロメオの緩やかなくせ毛を立ち上がりざまにすくい取り、キーファは静かにささやいた。
「子犬の威嚇だな。生え揃わない牙で噛み付いても、こちらにはせいぜい、可愛い甘噛みでしかないんだよ。それもまた、嫌いではないけどね」
一向に顔を上げようとしないアデルに代わり、ロメオはキーファが部屋を出るまで、ありったけの敵意をみなぎらせていた。
「ヴィンスよりむかつく。ハーレムの王って感じだね。どうでもいいけど」
仰向けに寝台に寝転がり、ロメオは静かに目を閉じた。
アデルが、いつになく寡黙であった。
「なんなの。そんなに、あいつには逆らえないの」
目を閉じたまま、いらついたようにロメオが言った。
「持ちつ持たれつよ。でも今回は、借りを作りすぎたわねえ。あんたがやけに噛み付くし、私ももう、今後一座にはいられないかも」
いいじゃないか、とロメオは乱暴に言い放つ。
「君が、いろいろ変身するのを楽しんでるのはわかるよ。でもね、僕は、君に会いたい。さっきの王様が言ってた、銀の女神様には、僕は十年以上もお目にかかってないんだ。いつか、会えるのかな」
先ほどの口調とは打って変わり、ロメオの言葉はどこまでも弱々しかった。
ロメオが目を開けると同時に、アデルが「いつかね」と言い、まだ紅の残るロメオの唇にしっとりと触れた。
***
気が付けば巫女の部屋からは、日がな一日中、胸を打つような美しい歌声が漏れ聞こえてくる。
怪しい、と当初は物影で囁きあっていた女官達も、その声を毎日聞くたびに、この方はどうやら本物らしい、といつの間にか言うようになっていた。
寝る時間と食事の時間を除いて、その巫女はひたすら歌を歌っている。
自分達とは明らかに違う人種だ、と女官達は恐れおののき、ごくたまに可憐な姿を見せる巫女に、いつのまにか無条件で平伏する。
「ステラの話では、じわじわとあなたの事は城下で広まっているそうだよ。隠し種のオルドの巫女が、王宮にいるらしいとね。万事滞りない」
エドアルドは満足げに言い、浮かない顔をするビアンカに微笑んだ。
何も知らない人々を騙しているのが、ビアンカの心を苦しめていた。
この偽りの姿は、はじまったばかりだった。
終わりがいつになるかなど、ビアンカはとっくに忘れたつもりであった。
けれど、待ちかねたような笑顔を見せるメイフェアの言葉に、ビアンカは対照的に立ち尽くすだけだった。
「宰相様がお帰りよ。ビアンカ、まだ間に合うわよ」
何が間に合うのか。
もう遅すぎる。
ビアンカは何も言わず、そっとメイフェアに背を向けた。




