79の話~湖畔~
王都から北西に位置するコーラーの国境は、夜になると秋風をはっきりと感じ取ることが出来る。
昼は照りつける日差しを受けてどこまでも暑かったが、夜は急激に気温が下がる。
岩山の麓にあるカプラを越え、ヴィンチェンツォ達はコーラー領内に潜入済みだった。
そこから更に、一日ほど馬を走らせたサントロワという避暑地に、離宮が建てられていた。
湖のほとりに建てられた、こじんまりとした美しい離宮で、年老いた国王が寵姫達と共に、長い休暇を満喫しているらしかった。
その寵姫には非公式ながらも、イザベラ・マレットも含まれているとの情報が、ヴィンチェンツォの耳にも入っていた。
***
王都を出発してから、三日経っていた。
ヴィンチェンツォ達は、サントロワに滞在する旅人に紛れ、国王の動向をうかがっている。
カプラで合流したアルマンドに案内され、宿の二階から、湖畔の反対側にある離宮を観察していた。
コーラーの国王は、湖に船を浮かべて宴を催すのを好み、豪華な船が湖畔に停泊している。
「前回納品した調度品が、あの船に積まれているそうよ。結構いい商売させてもらったわ」
アルマンドがご機嫌な様子で、遠眼鏡で離宮を覗いているヴィンチェンツォに話しかけた。
スロの螺鈿細工は、コーラーの富裕層に絶賛されている。
ただし、輸送に時間がかかるのが難点だった。
おまけに、細かな工芸品の輸送には、細心の注意を払わねばならないので、ビアンカの好んだ髪飾りのような小さなものよりも、もっぱら家具の取引が中心となっている。
「まさかとは思うが、職人には相応の支払いをしているんだろうな」
「当たり前よ。見損なわないでちょうだい。それにこっちだって、何かと経費がかかるのよ。精一杯、良心的にやってるわ」
アルマンドの答えが、若干歯切れ悪い気がするが、とヴィンチェンツォは遠眼鏡を外し、アルマンドをじっと見つめた。
そんな恐い顔したらやだわ、とアルマンドが媚びるような笑みを作る。
まあいい、と細目を作るヴィンチェンツォは、再び湖畔の様子をうかがう。
初めての異国は、驚きの連続という事ではなかったが、建物の作りは全体的にこじんまりとしていて、雑多な人々が行き交うプレイシアに比べ、歴史を重々しく感じさせる。
たまにはこのように、湖と調和した寂寥感さえ感じる古い町並みもよいものだ、とヴィンチェンツォは素直に思っていた。
町の落ち着いた雰囲気は、ビアンカが気に入りそうだ、とヴィンチェンツォは素朴に思った。
「舟遊びも楽しそうだね。王都にも、ああいう船があったらいいのに」
「そんな事言ったって、王都にはあんなでかい湖なんかないだろ。何処に置くんだよ」
窓辺で船を面白そうに眺めていたロメオとランベルトが、口々に言う。
ロッカがこの場にいたらおそらく、そんな予算はありません、と返されていたであろう。
その時、乱暴に扉を叩く音がしたかと思うと、アデルが無遠慮に部屋に押し入ってきた。
「皆様、お着きのようね。王の避暑地はいかがかしら」
美人だ、とランベルトが邪気のない驚きをたたえた笑みを、どこへともなく向けた。
「お忙しいところすまないな。そちらの様子はどうだ」
「何も変わりはありませんよ。今晩早速、一座の公演がありますけど」
ヴィンチェンツォとアデルのやりとりを、ロメオはいつになくぼんやりと眺めていた。
「で、どなたが行かれるんです」
アデルが面白そうに腕組みしたまま、一同に問いかけた。
「ロメオに決まってるだろう。奴以外に、女に化けられる人材がいない」
ヴィンチェンツォは迷うことなく、即座に言ってのけた。
「私も手伝うから、完璧よ。今世紀最大の美女の誕生よ」
追い討ちをかけるようなアルマンドの言葉にロメオの心は、目の前の湖の奥底に沈みこむように重苦しくなっていた。
不本意だ、とロメオは力ない顔で、弱々しくヴィンチェンツォに恨みがましい視線を向けるが、その迫力は余りにも不足過ぎた。
「こちらの方も、随分可愛らしい顔してらっしゃるけど。若くていいわね。よかったら、後で遊びに来てね。たくさんサービスするわよ」
ロメオの複雑な心中を無視するかのごとく、アデルが艶やかな笑みをランベルトに向けた。
「君は知らないかもしれないけど、こいつの奥さんは、とんでもなく恐い人だからね!後でばれたら、血を見る事になると思うよ!」
珍しく、ロメオがランベルトを庇う。
あら残念ね、とアデルが商売っ気を抜きにして心から残念そうに言った。
二人の微妙な関係を何となく感じつつも、ランベルトは「とりあえず、そういうことなので、残念ながら」ともごもごと口走った。
ちょっとこっちに来て、とロメオがアデルの腕を引き、二人は宿の廊下へ出る。
「そんなに二人きりになりたくて仕方がなかったのかしら。いけない子ね。焦らなくても、いくらでも時間はあるのよ」
「そうじゃないだろ!」
真面目な顔のロメオをからかうように、アデルは鼻先から笑みをもらす。
「頼むから、ランベルトに絡まないで。本当に、あいつの奥さんはただ者じゃないんだよ。アデルより強いとかじゃなくて、底知れない力強さがあるから、僕は正直関わりたくないんだよ。わかってよ」
「わかってるわよ。社交辞令じゃない。それとも、焼もち?」
だああああ、とうめき声を上げるロメオを、楽しげに見つめるアデルがいた。
「随分緊張してるみたいじゃない。大丈夫よ。夜になれば、何もかも快楽で打ち消されるわ。待ってるわよ。今日は他の客もいないし、あんただけよ」
「そうじゃないだろ!」
自分の首に絡みつく腕を押しやり、ロメオは精一杯の虚勢を張る。
「何よ、意味がわからないわ。あたしに会いたいのか会いたくないのか、どっちなのよ」
「会いたい、いや、話がしたいんだ。君は何もわかってないんだ。僕は君と、話がしたいんだよ」
うざったいわねえ、とアデルがため息をつき、うねるような黒髪を掻き上げた。
「難しい話をしたところで、最後にする事は一つじゃない」
「だから、そうじゃないだろ!僕はお客じゃないんだよ!君の友人なんだよ!そういうの、よくないだろ!」
友人、とアデルは呟き、廊下の壁に肩を預けた。
「君にとっては僕なんか、恋人なんて遥か遠い位置にいるんだろう。そんなの、いやってほど教えてもらったよ。それに今の君は、娼婦じゃなくて舞姫だ。だから、誰かれ構わず、そんな態度を取らなくていいんだよ」
「踊り子なんて、所詮娼婦と一緒よ。あんたが一生懸命、アデルの立場を立てようとしてくれてるのはありがたいけど、そんなのとっくに、私も忘れたわ」
それに、とアデルは付け加え、脅すような凄みのある瞳でロメオを睨みつける。
「あんな酷い目に合わされて、よくもここまでのこのこと現われたものよね。意外と、根性あるのねえ。それとも、実は自虐趣味があるのに目覚めちゃった?今晩、いくらでも縛ってあげるわよ。前回物足りなかったのなら、いくらでもね」
ロメオの端正な横顔を、汗が一筋伝うのが、アデルの目に入った。
ロメオが努めて冷静を保とうとしているのが、アデルには丸わかりであった。
「仕事は別だよ。僕だって、どうしていいかさっきまでわからなかったんだ」
滑稽なほどに真面目に唇を引き結ぶロメオに、アデルは何故か慈悲深い聖母のような微笑を向けた。
「とにかくヴィンスのやりたいように、僕らは円滑にサポートするしかないんだ、だから今は、個人的な事情を挟むような発言は控えてくれるかな」
「固いのね、そんな人だったかしら。それよりいつの間に、ヴィンス様と仲良しになったの。昔はあんなに、仲が悪かったのに」
どこまでもアデルは、自分のペースを乱さなかった。
口ごもるロメオの姿が、たまらなく可愛らしかった。
アデルは、目のくらむような微笑をロメオ一人に向けると、「集合は五時よ。遅れないで」と言い残し、ロメオの薔薇色の唇に素早く触れた。
***
アルマンドの言葉どおり、世にも稀な絶世の美女の登場に、ヴィンチェンツォ達はひたすらうなずくしかなかった。
アデルの言いつけどおり、体は隅々まで、褐色に塗りたくられてはいたが、ロメオの元来持つ美しさが一層引き立つようにさえ見えた。
「頼んだぞ。そこまで成り切っているなら、俺達も異論は無い」
死んだ魚の目をしたロメオの肩を、ヴィンチェンツォはおもむろにぽんぽんと叩いた。
「俺の好みじゃないけどな、美人だ。成功を祈る」
ランベルトの真剣な眼差しに、折れやすくなっているロメオの心は、またしても傷を受けそうになるが、そこでぐっと堪える男の姿があった。
「ばれないなら、一年程後宮で是非とも寵姫として活動して欲しいものだ」
しみじみと言うヴィンチェンツォの横っ面を、ロメオは何度も本気で張りたおしたいという衝動に駆られた。
幾重もの薄絹が、体の線を都合よく隠すかのようである。
男性的な腰つきさえも、その露出過多な衣装は、ロメオの全身をなまめかしく包み込んでいた。
「あたしの腕がいいのよ。そうじゃなきゃ、こうはいかないわ」
もうどうでもいい、とアルマンドの言葉を流しながらロメオはため息をつき、濃く塗られた唇を何度もかみ締める。
「あまり不審がられない程度にな。今日はそこそこで切り上げて構わない。男とばれたら、元も子もないからな」
引きつる笑顔のロメオに向かい、ヴィンチェンツォは真剣そのものであった。
所詮やりたくもない女役など、自分の心中など全くと言っていいほど、理解してはいないだろう、とヴィンチェンツォに素っ気無い言い方で「また別手当てだからね」と切り返すロメオであった。




